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 バー・ラグールのカウンター席で、ネラは一人小さくため息を吐いた。

 客がいたら浮かない顔をする訳にはいかないが、今は開店前。忘れ物を取りに店に出てきたら、準備をしていたメリアに呼び止められた。

「しみったれた顔してんじゃないよ。その顔で接客するつもりかい?」
「……すみません」

 悩んでいることは、もちろんフレイダのこと。オペラ鑑賞に行って以来、彼は一度も店に来ていない。自分から「もう来ないで」と言ったくせに、このところため息ばかり漏らしている。

「そう心配せずとも、単に仕事が忙しいだけじゃないのかね。ひと段落したらその内ふらっと来るさ」

 事情を知らないメリアは、彼はまた来るからと慰めた。ネラの悩みがフレイダのことだというのは見え透いているらしい。

 俯きがちに、出してもらったグレープフルーツジュースを口に含む。こころなしかいつもより苦味を強く感じた。

「フレイダ様はもう来ることはありません」
「ええっ? あんなに足繁くあんたんとこ通ってただろう。オペラの日、なんかあったのかい?」

 こくんと頷き、グラスをカウンターに置いた。

「一体何があったんだ。話してみな」

 相談しようにも、自分の話をするのは苦手で上手く言葉がまとまらない。言葉が出る代わりに、瞬きと同時に瞳から雫が落ちた。

「あんた……」

 咄嗟に手で涙を拭う。
 不器用ながら、ぽつりぽつりと事情を語り始めた。彼が愛しているのは亡くなった別の相手で、その面影をネラに重ねているだけなのだと。なんの取り柄もない自分は、あの人に好きになってもらうのにふさわしくないのだと。

 メリアはネラのまとまらない話を、懲りずに聴いてくれた。

「本当にそれでいいと思っているのかい?」
「いいんです。これで」

 いいはずだった。故人の面影を別人に重ねたって、彼のためにならないではないか。

「今自分がどんな顔してるから分かってんのかい?」
「……」
「あんたはね、逃げてるだけさ。相手のためだとなんだかんだって言い訳しながら、自分が傷つくのが怖くて逃げてる。愛情や好意を受け取り慣れていないせいで、戸惑い、突き放してしまった……。本当はそうだろう?」

 メリアの言う通りだ。

「……その通りです」

 ただ、怖かった。
 きっかけはアストレアだとしても、今はネラのことを大事に思ってくれているのは分かっていた。

 でも、いつか愛想を尽かされて彼が離れていってしまうのではないか。元婚約者や家族にそうされたように、いつか残酷に突き放されてしまうんじゃないか。
 自分なんかが、愛情を受け取ってしまってもいいのか。

 そんなことを考えていたら怖くなって、自分の気持ちを押し殺して逃げてしまった。

「知らないだろう、あの男がいつも、どんな顔してあんたのことを見てるか」

 小さく頷く。閉ざされた瞳では、表情どころか彼がどんな顔立ちをしているかも分からない。

「愛おしそうに見つめてるよ。まるで、宝物を見るように」
「宝物」
「そうさ。……ネラ。ここにあんたをがんじがらめにしていたしがらみはもうないんだよ。今自分を追い詰めて呪ってんのは自分自身さ。もっと素直になりな」

 労りに満ちた声に目の奥が熱くなった。

(自分を追い詰めて呪っているのは、私自身)

 今まで、自分の気持ちも自分という存在も否定するように生きてきた。気味の悪い力を持っていて、愛想のない自分は、誰にも愛されなくて当然なのだと。目が見えなくなってからは、一層それが顕著になった。

 でももう、ネラを疎む家族はいない。自分がまだあの家に囚われていたことに、ようやく気付いた。

「……好きになっても、迷惑がられないでしょうか」
「それはあんたが一番よく分かってるんじゃないのかい?」

 フレイダは、ネラが好きになっても迷惑がったりする人ではない。ネラが極端なほどに臆病になっているだけで。

 後ろ向きなネラのことも否定せずに暖かく包み込んでくれたフレイダ。彼は、ネラが今まで知らなかった人の優しさや愛情を、惜しみなく注いでくれた。

(会いたい。フレイダ様に)

 椅子から立ち上がって言う。

「ありがとうございます、メリアさん。私……王衛隊の屯所に行ってきます」
「ああ。行っておいで」

 もう夕方なので、ちょうど業務が終わるころだろう。もし仕事中でも、仕事が終わるまで待っていよう。

 杖を片手に、バーを飛び出した。普段は外出することに抵抗があったけれど、今日はためらいがなかった。


 ◇◇◇


 王衛隊の屯所は商都の中心部にあり、馬車で二十分ほどかかる。乗合馬車の停車場まで歩いた。

 午前中はずっと雨が降っていた。今は雨は止んだが、湿った空気の匂いがしている。たまに水溜まりを踏みながら、歩道の隅っこをゆっくり歩いた。

 通行人の邪魔にならないように、人通りの少ない細道を通っていたら、急に後ろから声をかけられた。

「こんにちは。ネラ・ボワサル嬢」
「……どちら様ですか」

 聞いたことがない声だった。まだ若い男の声。男がこちらに接近してくる気配を感じた瞬間、透視能力が無自覚に発動した。

 リリアナと腕を組んで歩いている様子が頭の中を掠める。

(この人、リリアナの浮気相手だわ)

 後暗い仕事をしているから関わらない方がいいと、以前リリアナに忠告したのだった。

 じりじりと詰め寄られ、数歩後退る。
 何か嫌な予感がする。逃げなくては。そう本能的に思った直後、口元を布で抑えられた。身体を後ろから抱くように拘束されて身動きが取れない。

「っ!?」
「抵抗するな。大人しく寝てろ」

 透視能力を使わなくても分かる。この男はネラを誘拐してどこかに連れ去るつもりだ。

「んん……」

 必死に身じろぎしたが、ネラのか弱い力ではなす術もなく。口にあてがわれていた布に睡眠薬が塗布されており、一瞬の内に気を失った。

(フレイダ、様……)

 薄れゆく意識の片隅で、彼のことを思い出した。 
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