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しおりを挟む十年前。
「この席こいつのせいで全く黒板見えないじゃん。
お前、よく後ろに座れるな?臭くない?」
すぐ後ろで繰り広げられるやり取りに静はできるだけ息を殺した。
「それにさ、名前と顔が一致しなさすぎだろ。
こんな豚みたいなやつが“如月静”とか、笑わせんなって。俺、名前だけ聞いた時どんな可愛い子くるのか想像したけど真逆」
教室に汚い笑い声が響き渡る。
下品で、耳にまとわりつくような嗤い声だった。
男子生徒たちから吐き捨てられる容赦のない暴言に釣られて、周囲の生徒たちもクスクスと肩を震わせる。
誰一人として止めようとする者はいない。ただ、面白い見世物を見るような目で静を眺めているだけだ。
静はこんな状況に置かれていながら、反論の一つすら口にできない自分に強い憤りを覚え、体を小刻みに震わせていた。
通っている高校で、静はいじめの標的になっていた。
けれど、抵抗する勇気もなければ、声を上げる術もない。
ただ机に向かい、視線を落とし、嵐が過ぎ去るのを待つしかできなかった。
「おい、デブ。
お前の金で昼飯買ってこいよ、なあ?」
男子生徒のリーダー格である川島が、苛立ったように静の椅子を勢いよく蹴った。
ギシ、と嫌な音がして、背中に衝撃が走る。
もう一度蹴られたとき、その足先は静の脇腹に当たった。
「うっ……」
「ぶひっ、だってさ。ウケる」
「さっさと行けよ。
俺、クリームパンと焼きそばパン。あとメロンパンもな」
「俺はいちごミルクとあんぱんね」
川島の取り巻きたちからも命令口調で次々と投げつけられる言葉。
静は唇を噛みしめ、か細い声を絞り出した。
「……いやだ」
それは、ほとんど聞き取れないほど小さな抵抗だった。
「は?
おい、豚。てめえ、俺に逆らう気か?まじ生意気だな。俺と張り合えると思ってんの?」
川島は乱暴に静の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
頭皮が引きちぎれそうに痛み、視界が歪んだ。
「……っ」
「ブスすぎてマジでウケるわ」
静は、この学校に入学してから、ほぼ毎日のようにこの仕打ちを受けていた。
太っていて、地味で、暗い。そんな理由もあっただろう。
だが決定的だったのは、親が世間で少し名の知れた会社の役員であるという噂が広まった。それは事実だった。
こいつからなら金を奪える。
そんな浅はかな考えを抱いた連中に、目をつけられたのだ。
自分は何もしていない。ただ存在しているだけなのに。
世の中の理不尽さが、胸の奥に重くのしかかる。
「おい、豚。早く行けよ。
どうせお前の母親から、小遣いで万札とかもらってんだろ?」
「……いや、でも……」
「うるせえつってんだよ!! 豚!!」
川島の怒鳴り声が教室に響き渡る。
一斉に集まる視線。逃げ場はどこにもなかった。
静は震える手で財布を取り、無言で教室を出た。
「マジであの豚ちょろすぎ。
親金持ちだから、いくらでも引き出せるわ」
背後から聞こえてくる嘲笑を振り切るように、静は廊下を歩く。
握りしめた財布に、爪が食い込む。
すれ違う生徒たちは、静を避けるように道を開けた。
近くを通った女子生徒たちが、ひそひそと声を潜める。
「豚が通るよ。臭そう」
「やめなって、聞こえるよ?
でも本当に汚そうだよね」
「ねえ、フケとか浮いてそう」
「何それ最悪。
この前、一ヶ月風呂入ってないって噂もあったよね?」
静は顔を上げることができず、俯いたまま購買へ向かった。
売店のおばさんに注文を告げると、「あなた、よく食べるわね」と何気なく言われる。
それでさえ、嘲笑に聞こえてしまう自分が嫌だった。
悪意ではない。そう何度も言い聞かせ、無理に口元を緩める。
自分の昼ご飯を買うお金なんて残らない。
それでも、少しでも遅れればあの連中が激しく怒ることは分かっていた。
分かっていても、どうしても行きたい場所があった。
屋上の扉を開け、静は周囲を見渡す。
「……いない」
肩を落とし、立ち去ろうとしたそのとき。
「静」
振り返る。
豚でも、汚物でもなく、名前で呼んでくれる、唯一の存在。
天輝玲
ダークブラウンの緩やかにウェーブのかかった髪。
少し垂れたアーモンド型の切れ長の目には、ビー玉のように光を反射する漆黒の瞳。
高く整った鼻筋に、やや薄めの唇。無駄ない線の通った輪郭。整いすぎているほどに整った顔だ。身長も高く、身長の低い静を簡単に見下ろす。
高校生でありながら、どこか大人びた雰囲気を纏っていた。
「ごめんね。担任に呼ばれてさ遅くなっちゃった。進路についていい加減に決めてってさ。」
玲は静の前に立ち、そっと頭を撫でる。
荒んでいた心が、ゆっくりと溶けていく。
その反動で、胸の奥がきゅっと締めつけられ、涙が込み上げそうになる。
「……今は、やめて……」
静はやんわりとその手を払うが、玲は気にせず撫で続けた。
「あー、何で?そんなこと言うの。
そんなこと言う子はこうしちゃうよ?」
玲は静の両手首を掴み、軽く持ち上げる。
「ほら、静。上、見てみ」
要はしゃがみ込み、空を指差した。
雲ひとつない、どこまでも澄んだ青空。
「……き、れいだね」
「でしょ?
どう? 少しは気分、スッキリした?」
どこか玲のようだとも感じる。
眩しい笑みを向けられて、静は思わず微笑み返した。
この時間だけが、
静の唯一の場所だった。
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