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第二十話 戦争と平和
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◇
領主館、ルーカスに与えられた一室は、その館でも最高級のものであった。
田舎ではあるが、その土地らしい花々で飾り付けがなされ、領主の騎士団を歓迎しようという気持ちがにじみ出ている。
その居室で、仮の部屋の主は机を前にして座り、退屈そうな表情をしていた。
「なんだ、馬鹿正直に出て来たのか。つまらんな」
サルダ自治国、首長直属の騎士団を束ねる男はそうボヤいた。
「そりゃあ、団長の思うような面白いことなんてそうそうこの世に転がってないですよ」
机を挟んで上官の反対側に立つ男は、そう窘(たしな)める。
団長である上官を前にして、直立不動の姿勢を崩さないが、その表情はどこか呆れているようであった。
「……無自覚すぎるとすらいえるな」
団長ルーカスはぼそりと呟く。
聞き取れなかった部下は、聞き返すように言った。
「なんです?」
ルーカスは手の中のペンを弄びながら、応えた。
「あれほどの技を見せておいて、ノコノコ領主館まで出頭してくるとは、予想外だっただけだ。おかげで、計画がパーだな。さて、どれだけの壮士が出てくるか、場合によっては直卒として迎え入れてもいいだろう……」
まだ見ぬ強者を想像して悦に入っている上官を怪訝そうな目で見ながら、部下の男はそのまた部下の耳打ちを受けて報告する。
「その者が到着したようです」
「呼び入れろ」
ルーカスは豪奢な椅子にドカリと座り、どんなヤツが入ってくるだろうかと胸を高鳴らせていた。
入室を許され、現れたのは十にも満たないであろう少年だった。
「……この者か?」
「そうです」
配下の者はすまし顔で答えた。
「ありえん。調べなおせ。とんだ時間の無駄だったな」
男は手を振って、少年に退出を促す。
少年は頭を下げて、何も言わずに部屋を去ろうとした。
その伏せられた顔は喜色を湛えていたが、彼の思うようには事態は進展しない。
少年を連れて来た男は、これ幸いと退出しようとする少年の襟首を掴んで引き止めると、上官に向かって反論したのだ。
「団長、この者の業績は多くの証言が取れており、間違いないことかと」
配下は上官の不興を買うのも恐れず、強弁した。
余りに多くのものが口をそろえて、少年──ヒースクリフと言ったか──が盗賊を全滅させたのだと証言したため、彼はこの農家の倅を連れてきたのである。
彼もその証人たちの発言には半信半疑であったが、救われた者たちの彼への感謝の念と尊敬の感情が真に迫り過ぎていたため、嘘ではないと判断したのだ。
ここで引き下がっては、何のために連れて来たのか分からない。
「私は間違いないと判断しております、団長」
更に、部下の男は重ねて言った。
ルーカスはその部下の様子を見て、少年をもう一度眺めてみる。
やはり、只の農家の子供のようにしか見えない。
服は薄汚れた安物で、全身が良く日に焼けている。
だが、更によく観察すると、彼にもおかしい点があることに気づけた。
(いや、これは……?)
体つき、特に筋肉の付き方が、武をたしなむ者のそれだったのである。
たたずまいは意図的に隙だらけにしているようだが、それでも鍛え上げた筋肉はごまかせない。
「手を見せてみよ」
少年は一瞬躊躇ったが、何も言わず、渋々手のひらを差し出した、
「むっ」
その手のひらは、明らかに農作業に従事する者の手ではなかった。
数えきれない回数の剣を振っただろう手のひらは硬く節くれだっており、只の八歳児ではありえない、剣を振るうものの手となっている。
それを見て、自分の剣に捧げた青春を思い出し、目を細めたルーカスは、急に背筋を伸ばして少年に向き直って言った。
「無礼を詫びよう。若き英雄よ。私の目は曇っていたようだ」
騎士団長という雲の上の人物に称えられたにも関わらず、少年は嬉しそうではない。
ただの農民として侮られ、部屋をたたき出されなかったことに、うんざりしている様子ですらあった。
それに部屋の端々に目を遣る様子は、どこか警戒しているようでもある。
ルーカスは少年のあちこちに飛んで定まらない目を見て、安心させるように言った。
「私は顔が怖いとよく言われるが、全く怒っているわけではないのだ。しかし、お前くらいの歳の童子が、無法者共を片端から切り殺したとは、真信じがたい話でもある。故に、お前自身の口からききたい。お前がイーソン村の賊を壊滅させたというのは本当か?」
少年はルーカスの目をまっすぐに見つめたまま、押し黙った。
部屋の男たちは各々、口を開く様子を見せず、沈黙が居室を満たす。
ルーカスは何かを考えているらしい少年を、急かすことはしなかった。
窓の外で夏虫が五月蠅(うるさ)く鳴いている声だけが、蒸し暑い部屋のBGMとなっている。
「……左様です。武官様」
逡巡の果て、少年はそう答えた。
ルーカスは彼のその迷いから、返答が真実であることを直感する。
誰かの手柄を横取りしようと出頭した人間であれば、ここで迷うのは致命の悪手でしかないからだ。
彼は真実を言っている。
ルーカスは頷き、それを前提として話を進めることにした。
「まずは村への貢献を感謝しよう。今、報奨金を準備させる」
そう言うと部屋の入口に控えていた部下に合図し、彼は部屋を出ていった。
ヒースクリフはそれを横目で見ながら、居心地悪そうに頭を掻く。
「お前はイーソン村に住む農奴の子ヒースクリフ、これは正しいか?」
「左様です。武官様」
少年は定型文を繰り返した。
これは学の無いものにはよくあることで、無礼を避けるために、あえて決まった文章しか言わないようにしているのだ。
だが、その割に彼には身分の高いものに対面しているという、緊張の色が全くなかった。
ルーカスは顎髭をなぞって、興味深く思う。
(農奴の子がこんな部屋に呼ばれて、きわめて自然体のままだ。これは大物なのか、それともどこかの密偵の可能性もあるのか……)
しかし、彼は脳内でその可能性を否定した。
(あまりに幼すぎる。それに農奴の子というカバーで潜入して、盗賊団を壊滅させるなど、密偵としてはありえん行為だろう)
「惜しいな……」
ルーカスは少年をジロジロとみて、唸った。
(これほどの才能を埋もれさせておく手はない。しかし、農奴階級とは。自由民であれば、躊躇いなく登用するところなのだが……)
サルダ自治国では、人々の身分は貴族・平民・奴隷に大別されている。
平民の中にも、自由民と、農奴などの不自由身分が分かれて存在しており、その差は大きい。
自由民であれば、財を成して貴族に成り上がることがあったが、農奴身分であればそれは極めて難しくなる。
(いきなり農奴身分の者を登用しては、貴族共のいらん批判を受けることは避けられないだろうな……)
ルーカスはしばらく目を閉じて、目の前の少年を手元に置く方法を考えていた。
この少年は農奴でありながら、技を鍛え、戦闘を生業とする男たちを切り伏せたのである。
どこぞの英雄冒険譚の序章のようなエピソードではないか。
(この国に新たな英雄が生まれるのも近いかもしれない)
彼はヒースクリフの才能を、専門の機関でしっかり伸ばした場合について夢想し、一人悦に入っていた。
暫く沈黙が続いたのを見て、少年が口を開く。
「武官様、よろしいでしょうか?」
定型文を外れた彼の声色は、穏やかな物腰である。
その発音の流麗さは、とても農奴のものとは思えなかった。
イントネーションによって、その者の出身身分は推し量ることが出来る。
王室に連なる最高身分の方々の、ロイヤル・アクセントなどは有名だ。
目の前の小汚い少年の発音は、この辺りでよく聞く辺境訛りでは決してなかった。
どちらかというと──────
(これは……タルシス宮殿式のアクセントか?)
騎士団長ルーカスは少年の発音の習得場所について疑問に思ったが、それをおくびにも出さない。
そもそも、発音などというものは、訓練して矯正すれば如何様にでも変更できる。
芝居小屋ででもタルシス風アクセントを覚えたのだろうとルーカスは考え、その疑念を振り払って答える。
「ああ、いいぞ。それに俺に対して、そんな大層な口を利く必要はない。ここは公式の場ではないし、俺もここではただ飯ぐらいの一人でしかないからな」
そう言ってにやりと笑った。
笑みを浮かべたまま、少年の反応を見る。
こう言われても、少年は無愛想な表情を変えもせず、態度を崩さなかった。
(やはり、普通のガキとは違うな……)
ルーカスがそう考えていることも知らず、少年は発言の許可を受けて述べる。
「武官様。お願いがございます」
「ほう、願いか。言ってみろ」
ルーカスは少年の方から褒美をねだってきたことを意外に思いながら、続きを促した。
「はい。私は、タルシス王国への入国許可を頂きたいのです」
少年は自分の願いを、身分制における遥かな上位者に向かって、単刀直入に述べた。
(いや、やはりタルシスに縁のある者なのか? よく分からんな)
そう考えながら、ルーカスは問い返す。
「農奴身分では出国は出来ないのは知っているか?」
「はい、武官様」
「ふむ。つまり、お前の願いは農奴身分を脱し、自由民となることだということか?」
騎士団長は少年の迂遠な願いを、直接的に言い換えた。
「……その通りです。武官様」
少年は答えた。
ルーカスは考えもせずに、当然の事実を告げる。
「ありていに言って、俺にはこの領地の民の裁量は、預けられていない。だから、その願いをかなえることは出来んな」
ヒースクリフの顔に失望が広がる。
だが、ルーカスの言葉は続いた。
「しかし、裁量権のある領主に頼むことくらいはできるし、彼も俺の頼みを断らないだろうな。お前と同じように俺も、この戦いでそこそこの働きを見せたのだ。農奴一人の処遇程度なら、褒美の一部にすらならん」
「それじゃあ……」
ヒースクリフの騎士団長を見る目に、希望が戻ってくる。
「頼むくらいはしてやるさ。お前は領民の多くを救ったのだから、領主もその程度の願いなら、もともと叶えてやるつもりだっただろうしな」
少年は目を伏せて、感謝を伝えた。
「感謝いたします。武官様」
ヒースクリフの話が終わったことを察したルーカスは、片手を挙げて今度こそ退出を促した。
少年は辞去の決まりきった挨拶を述べ、部屋を去る。
彼が去った後の居室で、ルーカスは窓の外を見て、にやりと笑った。
「あれは次世代の英雄の卵か、それとも既に英雄級の存在なのか。楽しみになってきたな──────」
そこへドタドタと騒がしい足音が廊下から聞こえてくる。
ルーカスが少年に関する思考を打ち切って表情を引き締めると、扉から部下が飛び込んできた。
当然の礼儀であるノックすらない。
ルーカスは顔をしかめた。
「なんだ、騒々しい」
うっとおしがる上官に対し、部下は切羽詰まったように叫ぶ。
「それどころではありません!戦争がはじまりました!帝国の侵攻です!」
これには歴戦の勇士であるルーカスもぎょっとする。
椅子から跳ね上がって言った。
「なんだと!? 元老院の連中は雁首揃えて一体何をやっていたのだ!?」
ルーカスは突然の凶報に驚愕し、慌てて装備を整え、領主へのあいさつをする暇もなく、早馬を駆って前線へと赴くことになった。
彼の頭は戦争のことでいっぱいになり、武功を挙げた少年のことはすっかり忘れ去られ、それを思い出すのはずっと先のことになる。
領主館、ルーカスに与えられた一室は、その館でも最高級のものであった。
田舎ではあるが、その土地らしい花々で飾り付けがなされ、領主の騎士団を歓迎しようという気持ちがにじみ出ている。
その居室で、仮の部屋の主は机を前にして座り、退屈そうな表情をしていた。
「なんだ、馬鹿正直に出て来たのか。つまらんな」
サルダ自治国、首長直属の騎士団を束ねる男はそうボヤいた。
「そりゃあ、団長の思うような面白いことなんてそうそうこの世に転がってないですよ」
机を挟んで上官の反対側に立つ男は、そう窘(たしな)める。
団長である上官を前にして、直立不動の姿勢を崩さないが、その表情はどこか呆れているようであった。
「……無自覚すぎるとすらいえるな」
団長ルーカスはぼそりと呟く。
聞き取れなかった部下は、聞き返すように言った。
「なんです?」
ルーカスは手の中のペンを弄びながら、応えた。
「あれほどの技を見せておいて、ノコノコ領主館まで出頭してくるとは、予想外だっただけだ。おかげで、計画がパーだな。さて、どれだけの壮士が出てくるか、場合によっては直卒として迎え入れてもいいだろう……」
まだ見ぬ強者を想像して悦に入っている上官を怪訝そうな目で見ながら、部下の男はそのまた部下の耳打ちを受けて報告する。
「その者が到着したようです」
「呼び入れろ」
ルーカスは豪奢な椅子にドカリと座り、どんなヤツが入ってくるだろうかと胸を高鳴らせていた。
入室を許され、現れたのは十にも満たないであろう少年だった。
「……この者か?」
「そうです」
配下の者はすまし顔で答えた。
「ありえん。調べなおせ。とんだ時間の無駄だったな」
男は手を振って、少年に退出を促す。
少年は頭を下げて、何も言わずに部屋を去ろうとした。
その伏せられた顔は喜色を湛えていたが、彼の思うようには事態は進展しない。
少年を連れて来た男は、これ幸いと退出しようとする少年の襟首を掴んで引き止めると、上官に向かって反論したのだ。
「団長、この者の業績は多くの証言が取れており、間違いないことかと」
配下は上官の不興を買うのも恐れず、強弁した。
余りに多くのものが口をそろえて、少年──ヒースクリフと言ったか──が盗賊を全滅させたのだと証言したため、彼はこの農家の倅を連れてきたのである。
彼もその証人たちの発言には半信半疑であったが、救われた者たちの彼への感謝の念と尊敬の感情が真に迫り過ぎていたため、嘘ではないと判断したのだ。
ここで引き下がっては、何のために連れて来たのか分からない。
「私は間違いないと判断しております、団長」
更に、部下の男は重ねて言った。
ルーカスはその部下の様子を見て、少年をもう一度眺めてみる。
やはり、只の農家の子供のようにしか見えない。
服は薄汚れた安物で、全身が良く日に焼けている。
だが、更によく観察すると、彼にもおかしい点があることに気づけた。
(いや、これは……?)
体つき、特に筋肉の付き方が、武をたしなむ者のそれだったのである。
たたずまいは意図的に隙だらけにしているようだが、それでも鍛え上げた筋肉はごまかせない。
「手を見せてみよ」
少年は一瞬躊躇ったが、何も言わず、渋々手のひらを差し出した、
「むっ」
その手のひらは、明らかに農作業に従事する者の手ではなかった。
数えきれない回数の剣を振っただろう手のひらは硬く節くれだっており、只の八歳児ではありえない、剣を振るうものの手となっている。
それを見て、自分の剣に捧げた青春を思い出し、目を細めたルーカスは、急に背筋を伸ばして少年に向き直って言った。
「無礼を詫びよう。若き英雄よ。私の目は曇っていたようだ」
騎士団長という雲の上の人物に称えられたにも関わらず、少年は嬉しそうではない。
ただの農民として侮られ、部屋をたたき出されなかったことに、うんざりしている様子ですらあった。
それに部屋の端々に目を遣る様子は、どこか警戒しているようでもある。
ルーカスは少年のあちこちに飛んで定まらない目を見て、安心させるように言った。
「私は顔が怖いとよく言われるが、全く怒っているわけではないのだ。しかし、お前くらいの歳の童子が、無法者共を片端から切り殺したとは、真信じがたい話でもある。故に、お前自身の口からききたい。お前がイーソン村の賊を壊滅させたというのは本当か?」
少年はルーカスの目をまっすぐに見つめたまま、押し黙った。
部屋の男たちは各々、口を開く様子を見せず、沈黙が居室を満たす。
ルーカスは何かを考えているらしい少年を、急かすことはしなかった。
窓の外で夏虫が五月蠅(うるさ)く鳴いている声だけが、蒸し暑い部屋のBGMとなっている。
「……左様です。武官様」
逡巡の果て、少年はそう答えた。
ルーカスは彼のその迷いから、返答が真実であることを直感する。
誰かの手柄を横取りしようと出頭した人間であれば、ここで迷うのは致命の悪手でしかないからだ。
彼は真実を言っている。
ルーカスは頷き、それを前提として話を進めることにした。
「まずは村への貢献を感謝しよう。今、報奨金を準備させる」
そう言うと部屋の入口に控えていた部下に合図し、彼は部屋を出ていった。
ヒースクリフはそれを横目で見ながら、居心地悪そうに頭を掻く。
「お前はイーソン村に住む農奴の子ヒースクリフ、これは正しいか?」
「左様です。武官様」
少年は定型文を繰り返した。
これは学の無いものにはよくあることで、無礼を避けるために、あえて決まった文章しか言わないようにしているのだ。
だが、その割に彼には身分の高いものに対面しているという、緊張の色が全くなかった。
ルーカスは顎髭をなぞって、興味深く思う。
(農奴の子がこんな部屋に呼ばれて、きわめて自然体のままだ。これは大物なのか、それともどこかの密偵の可能性もあるのか……)
しかし、彼は脳内でその可能性を否定した。
(あまりに幼すぎる。それに農奴の子というカバーで潜入して、盗賊団を壊滅させるなど、密偵としてはありえん行為だろう)
「惜しいな……」
ルーカスは少年をジロジロとみて、唸った。
(これほどの才能を埋もれさせておく手はない。しかし、農奴階級とは。自由民であれば、躊躇いなく登用するところなのだが……)
サルダ自治国では、人々の身分は貴族・平民・奴隷に大別されている。
平民の中にも、自由民と、農奴などの不自由身分が分かれて存在しており、その差は大きい。
自由民であれば、財を成して貴族に成り上がることがあったが、農奴身分であればそれは極めて難しくなる。
(いきなり農奴身分の者を登用しては、貴族共のいらん批判を受けることは避けられないだろうな……)
ルーカスはしばらく目を閉じて、目の前の少年を手元に置く方法を考えていた。
この少年は農奴でありながら、技を鍛え、戦闘を生業とする男たちを切り伏せたのである。
どこぞの英雄冒険譚の序章のようなエピソードではないか。
(この国に新たな英雄が生まれるのも近いかもしれない)
彼はヒースクリフの才能を、専門の機関でしっかり伸ばした場合について夢想し、一人悦に入っていた。
暫く沈黙が続いたのを見て、少年が口を開く。
「武官様、よろしいでしょうか?」
定型文を外れた彼の声色は、穏やかな物腰である。
その発音の流麗さは、とても農奴のものとは思えなかった。
イントネーションによって、その者の出身身分は推し量ることが出来る。
王室に連なる最高身分の方々の、ロイヤル・アクセントなどは有名だ。
目の前の小汚い少年の発音は、この辺りでよく聞く辺境訛りでは決してなかった。
どちらかというと──────
(これは……タルシス宮殿式のアクセントか?)
騎士団長ルーカスは少年の発音の習得場所について疑問に思ったが、それをおくびにも出さない。
そもそも、発音などというものは、訓練して矯正すれば如何様にでも変更できる。
芝居小屋ででもタルシス風アクセントを覚えたのだろうとルーカスは考え、その疑念を振り払って答える。
「ああ、いいぞ。それに俺に対して、そんな大層な口を利く必要はない。ここは公式の場ではないし、俺もここではただ飯ぐらいの一人でしかないからな」
そう言ってにやりと笑った。
笑みを浮かべたまま、少年の反応を見る。
こう言われても、少年は無愛想な表情を変えもせず、態度を崩さなかった。
(やはり、普通のガキとは違うな……)
ルーカスがそう考えていることも知らず、少年は発言の許可を受けて述べる。
「武官様。お願いがございます」
「ほう、願いか。言ってみろ」
ルーカスは少年の方から褒美をねだってきたことを意外に思いながら、続きを促した。
「はい。私は、タルシス王国への入国許可を頂きたいのです」
少年は自分の願いを、身分制における遥かな上位者に向かって、単刀直入に述べた。
(いや、やはりタルシスに縁のある者なのか? よく分からんな)
そう考えながら、ルーカスは問い返す。
「農奴身分では出国は出来ないのは知っているか?」
「はい、武官様」
「ふむ。つまり、お前の願いは農奴身分を脱し、自由民となることだということか?」
騎士団長は少年の迂遠な願いを、直接的に言い換えた。
「……その通りです。武官様」
少年は答えた。
ルーカスは考えもせずに、当然の事実を告げる。
「ありていに言って、俺にはこの領地の民の裁量は、預けられていない。だから、その願いをかなえることは出来んな」
ヒースクリフの顔に失望が広がる。
だが、ルーカスの言葉は続いた。
「しかし、裁量権のある領主に頼むことくらいはできるし、彼も俺の頼みを断らないだろうな。お前と同じように俺も、この戦いでそこそこの働きを見せたのだ。農奴一人の処遇程度なら、褒美の一部にすらならん」
「それじゃあ……」
ヒースクリフの騎士団長を見る目に、希望が戻ってくる。
「頼むくらいはしてやるさ。お前は領民の多くを救ったのだから、領主もその程度の願いなら、もともと叶えてやるつもりだっただろうしな」
少年は目を伏せて、感謝を伝えた。
「感謝いたします。武官様」
ヒースクリフの話が終わったことを察したルーカスは、片手を挙げて今度こそ退出を促した。
少年は辞去の決まりきった挨拶を述べ、部屋を去る。
彼が去った後の居室で、ルーカスは窓の外を見て、にやりと笑った。
「あれは次世代の英雄の卵か、それとも既に英雄級の存在なのか。楽しみになってきたな──────」
そこへドタドタと騒がしい足音が廊下から聞こえてくる。
ルーカスが少年に関する思考を打ち切って表情を引き締めると、扉から部下が飛び込んできた。
当然の礼儀であるノックすらない。
ルーカスは顔をしかめた。
「なんだ、騒々しい」
うっとおしがる上官に対し、部下は切羽詰まったように叫ぶ。
「それどころではありません!戦争がはじまりました!帝国の侵攻です!」
これには歴戦の勇士であるルーカスもぎょっとする。
椅子から跳ね上がって言った。
「なんだと!? 元老院の連中は雁首揃えて一体何をやっていたのだ!?」
ルーカスは突然の凶報に驚愕し、慌てて装備を整え、領主へのあいさつをする暇もなく、早馬を駆って前線へと赴くことになった。
彼の頭は戦争のことでいっぱいになり、武功を挙げた少年のことはすっかり忘れ去られ、それを思い出すのはずっと先のことになる。
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