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第三十話 前世の知識

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「今、違うと言ったのは!?」

 美人魔法教師は、教室を見渡して、興奮して言った。

 白磁のようだった頬には、朱がさしている。

「俺だ」

 ヒースクリフは不敵にも、ざわめくクラスメートを隠れ蓑に使うことを潔しとせず、挙手して返答する。

 それを見て、イリーナは興味深そうな声色を隠さずに、一言言った。

「名前を聞こうか?」

 すみれ色の髪を後ろでまとめた魔法教師の刺すような視線を前に、その少年は物おじせずに答える。

「ヒースクリフだ」

 彼女は少年のことを知っていたらしい。

「へえ、君が!」

 イリーナは期待を膨らめたように、教壇から身を乗り出さんばかりにして続ける。

「勧学院始まって以来の農奴階級出身の生徒だね! それにそれは当然、Sクラスでも初の生徒ということになる! では聞こう! 何が違うのかな!?」

 美貌の教師は、短杖を握りしめ、紫の髪を振り乱し、勢い込んで言った。

 ソフィアは教師の視線を一身に集め、それでも平然としている隣の席に座る少年を見つめた。

 ヒースクリの口元にはわずかに笑みさえ浮かんでいる。

 少女は、勧学院ではトップを楽々取れるだろうという当初の見込みが、誤りだったのではないかという疑念に囚われ始めていた。

 傍らの少年の返答に期待するイリーナ。

 自分には見せなかった、規格外の存在への熱望が、確かに彼女の瞳には籠っている。

 傍らの農奴であった少年が、入学試験で主席を取ったのは、偶然ではない?

 その疑惑は、確かにソフィアの心に根を張り、広がり続けている。

 今の教師の姿勢は、ソフィアの指摘に漏れがあったことを、何よりも克明に示していたからだ。

 そして、イリーナは今、こともあろうに農奴上がりの少年に、ソフィアのミスを指摘させようとしている。

 お願いだから間違えて! と、ソフィアはそう願わずにはいられなかった。

 そう願わなくては、これまで『剣聖家の剣姫』、音に聞く神童として扱われてきた自分はまるで道化ではないか。

 その期待に反し、ヒースクリフは自信にあふれた態度で口を開いた。

「ああ、それは剥製ではないし、模型にも更に程遠いな。その翼竜は『第三位階魔法 パラライズ』によって麻痺しているだけの、生きた個体だ。そうだろう?」

 ソフィアは生唾を飲み込んで、イリーナの反応を注視する。

「素晴らしい……!」

 イリーナの口から洩れたのは、ソフィアの暗い願いに反して、感嘆の声としか思えないものだった。

「これがドラゴンではなく、翼竜の一種であるという指摘は、一年生のレベルでは十分すぎるほど高度な知識の産物だ!」

 イリーナはソフィアの方にちらと目を遣り、フォローするように言った。

 だが、ヒースクリフに向き直ると、更に続ける。

「しかし、これが生きた個体であることを見抜き、それに留まらず動きを封じている魔法の種類まで正確に当てるとは……! 輪をかけて、素晴らしいことだよ!」

 しきりに頷いて、イリーナはふと我に返ったように教室全体に向かって、教師の役目を遂行し始めた。

「一年生のみんなのために解説しようか! 彼は、この翼竜──────レッドワイバーンと言うんだが──────が、本物の、それも生きている個体であることに気づいた! その種明かしをしよう! これに気が付くことが出来るだろうポイントはいくつかあるが、大方彼は、この檻に施されている意匠が、魔法陣を描いていることに気が付いたんだと思う! そうではないかい!?」

 ヒースクリフは教壇に置かれた檻を指さして、なんでもないように言った。

「そうだ。その檻に刻まれている文様は、単純にデザインのために彫ってあるわけではない。麻痺の魔法の魔法陣を形作っている。それに気が付きさえすれば、中の魔物は、実は本物なのではないかという推論を組み立てることはたやすいだろう?」

「まあ、魔法陣の知識を全く習っていないだろう一年生に課すべきでない課題になって、申し訳ないとは思っているがね……」

 イリーナが付け加えるように言った。

 その慰めを聞いても、悔しさの波は引かず、ソフィアは唇を噛みしめる。

 彼女を越えた洞察力と知識を見せた少年が、同世代に居ることが余りにも悔しかったのだ。

 ソフィアは、武力の象徴たる剣聖の血を引く令嬢として、これまでこの国でも最高水準の教育を受け、鍛錬を積んできた。

 一介の農奴に過ぎなかった少年に、文の面で劣るのは受け入れがたい思いだった。

 ソフィアは、そんな劣等感を与えてくる諸悪の根源とも言える、ヒースクリフをちらっと見た。

 入学してそうそう、教師から手放しで褒められ、さぞ得意げだろう面を拝んでやろうと思いながら。

 だが、彼女の予想に反して、隣に座るヒースクリフは、得意げな様子ではなかった。

 イリーナの掛け値なしといった賛辞の言葉を受けても、平素の様子と何ら変わるところが無かったのだ。

 ソフィアの顔が青くなり、額からは脂汗が滲み出、その華奢な体は震えてい始めさえした。

 何故か?

 それは、普段と何も変わらないヒースクリフの反応は、得意げな顔をされるよりも、もっとずっとソフィアの心にダメージを与える反応だったからだ。

(彼は、一年生を遥かに超えた知識を披露しても、まったく当然だと思ってるんだ……!)

 ソフィアはそう理解した。

(自分なんかが、勝負になる相手ではない……!?)

 彼女は一瞬そう考えてしまい、慌てて思い直す。

(違う! 今は、ヒースクリフの知識が上回っているだけ! そのうち追い抜いて見せるんだから!)

 ソフィアは自分自身をそう鼓舞したが、彼女の心の声に過ぎないその言葉は、やけに嘘っぽく響いた。

(農奴暮らしをしてきてすら、そのレベルの知識を身に着けた相手に、これから勝てる見込みはあるの?)

 彼女は自分にそう問いかけざるを得なかったが、答えは出ない。

 ソフィアは無為にしかならない自問自答を諦め、むくむくと湧いてきた疑念について取り掛かることにした。

(なぜ、農奴だったはずのヒースクリフが、私よりも学業への理解が深いの?)

 彼女は、隣に座る少年に、それを直接尋ねたいくらいに、気になった。

 しかし、授業中であることを思い出すと、なんとか自制心を働かせる。

 彼女は、勧学院での生活の始まりを告げる、その授業が始まったばかりにも関わらず、授業終了の鐘が鳴るのを心待ちにして、講義時間を悶々と過ごした。



 時は戻り、イリーナが教室に入って来たところ。

 教師が、入室してからというもの、ヒースクリフは、全く油断せずに、彼女の動向を眺めていた。

 召喚されたのが、麻痺させられているだけの、生きたレッドワイバーンであることに気づいたのは、彼からすれば当然のことだった。

 その洞察眼に、教師からお褒めの言葉がかかる。

 加えて、イリーナからは一年生のレベルではないというお墨付きを貰ったが、実際一年生よりも遥かに経験を積んでいるのだから、それは誉め言葉にすらならない。

(ここでトップをとり、アカデミーに入る。それすら通過点に過ぎん)

(だが、決して奢っていけない……!)

 彼は自分にそう言い聞かせる。

(今は確かに、この教室にいる者たちはひよっこだ。だが、前世で最後には俺を倒したメルヴィルのように、化ける者が出てこないとどうして言い切れる?)

 ヒースクリフは、そこで、タルシス王国について思い出す。

(そもそも、タルシス王国にも、剣技だけなら俺を上回った剣聖アレクサンドルや、魔術の腕では俺すら引き付けなかった賢者ムイシキンが居た。俺は総合力で奴らを上回っていたにすぎないではないか)

 ヒースクリフは、こちらをなにやら凝視してくる隣の少女を横目に、自分を戒めた。

 彼のその決意を嘲笑うかのように、それからの授業は単調かつ退屈だった。

 その日の残りの授業は、簡単な火魔法の使い方について教わるだけ。

 Sクラスの面々に、火魔法を使えないものなど────一人を除いて────いなかったため、大体の生徒にとっては、つまらない内容であったろう。

 だが、これを極めることが一番の上達への近道なのよ! と口を酸っぱくして言い張るイリーナは、断じてこの練習を飛ばそうとはしなかった。

 そのうち、終業の鐘が鳴り響き、イリーナは名残惜しそうにしながらも退出する。

 魔術の実践課題を出すことは忘れなかったが。

 ヒースクリフも立ち上がって、次の授業に向かおうとしたが、横の少女はそれを許さなかった。

 少年の肩にやさしく、しかし決して逃がさないという決意を込めて、手を置くと、告げる。

「ヒースクリフさん、あなた何者ですの?」

 ソフィアのその遠慮無用の質問に、教室に緊張が走った。
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