富嶽を駆けよ

有馬桓次郎

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一.江戸神田豊島町

(三)

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 障子の前で膝を付き、軽く咳払い。

「父さま、辰です」
「入りなさい」

 恐る恐る障子を開けると、中では十兵衛と万次郎が火鉢を挟んで座していた。

 十兵衛は、積み上げた本を脇息にして座っている。麻の浴衣をざっくりと着流し、上から綿入れを羽織った姿はどう見ても病人のそれだが、これがいつもの十兵衛の装いである。
 齢四十となってわずかに皺走るようになったが、それでも三十そこそこといっても良い若々しさだった。

 対して万次郎は、一言でいうなら頼りない。歳は辰と同じ二十五、顔の作りこそ涼やかと思えるのだが、その下は牛蒡のような肉付きである。とても普段から田畑を見回っている庄屋の者とは思えず、昔に大病をしたことがあるのかと聞いたこともあるが、これで童の頃から風邪一つ引いたことがないという。
 横に一振りの長脇差を置き、手甲と脚絆が重ね置かれているのは、何処か遠方へ出立する予定でもあるのだろうか。

「また、性懲りもなく富士の話か」

 溜息混じりに言う十兵衛に、辰は大きく頷いた。

「私が、どうしても叶えたい願いですので」
「何度も言っているだろう。富士の山は、女のお前には登ることは出来ないのだ」
女人禁足にょにんきんそく。月の物がある女は不浄で、また女である山神様が嫉妬なさるが故、霊山である富士には登ることが出来ないと。それはもう耳にタコが出来るくらいに」
「だったら、どうしてそう頂へ立つことにこだわるのだ。富士講ふじこうの行者になった訳でもあるまいに、浅間せんげん神社へ詣でるだけではいかんのか」

 富士講とは、富士そのものを御神体とする山岳信仰の諸派、並びにその信者の集まりを指す。
 その内、江戸市中で流行した富士講は永禄年間に角行東覚かくぎょうとうかくが開いた富士信仰を祖とし、後の享保年間になって角行の法脈を受け継ぐ村上光清むらかみみつきよの「法家ほうけ派」と、加持祈祷を否定し日々の実践に重きを置く食行身禄じきぎょうみろくの「身禄みろく派」に分派していた。
 主に武家や公家衆に信奉された法家派に対して、庶民層に支持を得た身禄派は江戸を中心とする関東一円で爆発的な広がりを見せ、当時は『江戸八百八講、講中八万人』と謳われるほど数多くの富士講の講社が市中に林立していた。

「自分でも理由は判りません。ただ、登りたいから登る。それだけではいけませんか」
「いけないから言っておる。そも、女人禁足は幕府のお触れぞ。それをすり抜けられる何らの方策がお前にはあるのか」
「そこはほら、家業どころか家そのものが傾くくらい、万物に知見を開く父さまなら上手な手の一つや二つ……」
「この父に、御上の禁令を破る手伝いをせよというか!!」

 激高しかける十兵衛を、横から万次郎が「まあまあ」と諫めた。
 可笑しそうに口元を歪めながら、

「今日は、そのことで来たのです。お辰さんが富士の山に登りたがっていると聞いて、もしかしたらその手伝いが出来るやもと」

 万次郎の言葉に、十兵衛は「そうであったそうであった」と自らの頭を叩いた。父娘の口喧嘩を、その娘の婚約者の前でやらかしたことに恥ずかしくなったらしい。

「辰。これから万次郎どのに供だって相州大磯の宿へ行け」
「大磯、ですか。そこに何が……」
小谷三志こたにさんしという人物に会っていただきます。事前に文を出しておいたのですが、明日の夜に大磯宿でなら話が出来る、と飛脚で知らせてきました」

 聞けば、小谷三志という男は食行身禄の教えを受け継ぐ大先達であり、辰の富士登拝という大望についても必ずや相談にのってくれるはずだ、という。

 それよりも辰は、明日の夜までに大磯宿へ行かねばならない、という話のほうに驚いた。
 相州大磯宿は、日本橋から東海道を通っておよそ十六里の彼方にある。少しばかり距離が短い脇往還の中原街道を使ったとしても、今から出発して夜通し歩き続け、ようやく明日の昼頃に辿り着けるかどうか、という距離であった。
 その途方も無さに目を丸くしている辰へ、十兵衛はにやりと笑う。

「何だ。女性の身ながら富士の頂を究めんとする者が、これくらいの事で音をあげるというか」

 自分は店に出ることもなく日がな一日折本に埋もれて書き物へ精を出しているくせに、この言い草である。
 その馬鹿にしたような言葉に、辰は発憤した。

「行ってみせますとも! えぇもう、大磯どころか箱根を越えて三島なり沼津なり、どこへなりと!!」
「よう言うた、足が痛い等と言うて途中で引き返してくるでないぞ!!」
「まあまあまあ。私が大磯まで同道致しますので、道中についてはご案じ下さいますな」

 またも口喧嘩を始めそうな気配の父娘へ、万次郎が取りなすように言う。元来、根の優しい男なのである。
 十兵衛は、ぼふぅ、と音を立てて息をついた。

「……万次郎どのがお膳立てしたからには、もう止めはせん。富士なり何なり、お前の好きに登るが良い」
「父さま! ありが……」
「ただーし!!」

 頭を下げようとする辰を、十兵衛の鋭い声が押し留めた。

「期限は、今日から一年だ。その間に頂を踏むことが無くとも、一年後には万次郎どのの元へ嫁に行って貰う」
「い、一年ですか!?」
「これは万次郎どのと話し合って決めたことだ。お前も万次郎どのを待たせて申し訳ないと思っているなら、これだけは天に誓って守ってもらおう。良いな」

 富士の夏は、とても短い。
 毎年、水無月の声が聞こえると吉田の冨士浅間神社で山開きを告げる「御道開き」の神事が行われ、文月末の火祭りをもって山が閉じられる。
 この、わずか二ヶ月しかない期間に富士講の人々はこぞって山頂を目指し、富士の登拝道は浅草仲見世もかくやと思えるほどの賑わいを見せる。
 だが、これ以外の時季はほぼ雪と氷と暴風に閉ざされ、人跡の途絶えた富士は元の静けさを取り戻すのだ。

 つまり、十兵衛が突きつけた『富士の頂への挑戦は一年のみ』という条件は、実質的にこの夏の二ヶ月間だけを指しているに等しい。時間的にも金子的にも、ただ一度きりの挑戦となることは間違いなかった。

 腹の中に煮え立つものを感じる。
 富士に登ることが出来るのは夏のわずか二ヶ月のみ、という事実を養父が知らないはずは無い。御上の禁制を破ってまで、この短い期間に登ることは出来ぬと高を括っているのだ。

 ──絶対に、頂に立ってやる!!

 辰は、奮い立った。
 もしかするとこの瞬間こそが、本当の意味で彼女の富士挑戦が始まった瞬間なのかも知れない。
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