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三.甲州上吉田
(三)
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長月二十六日、明七ツ時。
地を這うような靄がたゆたう未明の御師町に、がらり、という音が響いた。
一ノ鳥居のすぐ近く、塩谷平内左衛門の屋敷の裏口が開かれ、中から漏れ出た明かりが朝露に濡れた地面を照らしている。
まるで辺りを気遣うように、無言の男達が足音を忍ばせて歩み出てきた。
揃いの灰色の行衣を着込み、背には荷物を載せた背負子を負ぶった男達は皆、惹きつけられるように南の空を見上げている。今は靄の向こうに隠れているが、その視線の先には彼等の目指す富士の御山が、長々と裾を広げて屹立しているはずであった。
空を見上げる男達の中に一人、随分と背の高い者が混じっている。
他より頭一つ高い割に、身体つきはいささか細い。行衣の上から弁慶縞の角袖を羽織り、手には金剛杖、腰には雪上で草鞋に巻く荒縄が輪になって括りつけられている。
長い黒髪を後ろに撫で付けて一本に結い上げ、涼しげな瞳で暗い空を見上げている姿は、どこか市井で私塾を開いている若い蘭学者のような雰囲気があった。
言うまでもなく、辰である。
もしも初めてこの姿を見た者がいるのなら、本当は女であると知れば大層驚くに違いない。三志の一計で男に扮することになったが、これ程までに男の姿が似合っているとは自分でも予想していなかった。
昨晩、三志は呼び寄せた髪結いに幾ばくかの口止め料を握らせると、「こいつを男に見えるよう、仕立ててやっちゃくれねえか」と頼み込んだのだ。
何故だか喜び勇んだ髪結い婆は、辰を別室へと連れ込むや否や、あっという間に辰のあるか無しかの化粧を落とし、丸髷を解いて総髪に結い上げてしまった。
それだけでは飽きたらず平内左衛門の娘達に何枚も羽織を持ってこさせると、その中から弁慶縞の一枚を選んで、最早石仏のような気分を味わっていた辰に押し付けたのである。
「どうだい。あたしの自信作だよ!」
髪結い婆が満足げに言ったのも無理はない。
衆目に晒された辰の姿は疑いようもなく男で、身の丈に加えて見目もなまじ良いだけに、些か線の細い美丈夫にも思えてしまうのだ。本人としては、情けない事この上ない気分であったが。
でも、これも富士の御山の頂を目指すための関門のようなもの。
──姿を変えるだけで大願を果たせるというのなら、男だろうと化物だろうと幾らでもなってやる!
そんな少しばかりの覚悟を秘めて、いま辰は男の姿で靄の向こうの御山を見上げている。
ただ一つ、気になる事があった。万次郎の真意である。
──どうして万次郎さまは、こんなにも私を手伝ってくれたのだろう?
その理由が、知りたい。
一度考え始めるとそれは熾火のように燻り続けてしまい、いよいよ登拝決行となった今もなお心に引っ掛かったままだったのだ。
このまま御山へ向かって良いものだろうか。出来ればこの釈然としない思いを解消してから、心置きなく御山へ挑みたい。そう、辰は考えていた。
「今朝は随分と霞がかっていますね。どうぞ足元には気を付けて」
見送りに出た万次郎が、常と変わらぬ柔らかな、それでいてどこか案じる風が見てとれる笑顔を浮かべている。
やはり、この気分に整理を付けておくべきだ。
辰は、はっきりとそう思った。
「──三志さま!」
万次郎の袖を掴みながら、辰は冨士浅間社へ向けて歩きだした三志の背に呼びかけた。
「申し訳ございません。少しだけお時間をいただいて良いですか?」
先頭を行く三志が、肩越しに視線だけで振り向いた。
辰が許婚の袖を摘んでいることに何かを察したのか、ゆるりと頷く。
「……ああ、先に浅間社へ行ってる。後から追いついて来い」
「ありがとうございます!」
万次郎の手を引いて、その場を離れる。
これは二人だけの問題だ。三志にも、不二孝の男達にも、塩谷家の人々にも、出来れば聞かれたくはなかった。
辰は、少し離れた天水桶の陰に万次郎を引っ張り込む。ちらりと屋敷の方を見たが、これくらい離れていれば聞こえることはないだろう。
突然手を引かれて連れ出された事に、万次郎は目を白黒していた。
「ど、どうしましたか、お辰さん?」
「あの……」
いざとなると言葉が出てこない。
辰は二呼吸だけ時間を置いて頭を整理すると、噛み締めるように言葉を切り出した。
「一つ、お訊ねしたかったのです。どうして、私の富士登拝という大願にこれ程までお手伝いして下さったのか。それが本当に実現するとなれば、私との祝言が先延ばしになると判っていたでしょうに」
嫁になる女がいつまでも家に入らず、叶うかどうかも判らない大願に現を抜かしているというのは、どう考えても外聞が悪いはずなのだ。
万次郎が鎌倉屋を訪ねてきたあの日、もしも万次郎に「そんな夢物語など捨てて今すぐ家に入れ」と言われていたのなら、辰も渋々その言葉に従わざるを得なかっただろう。
それなのに万次郎は、最初からそうするのが当たり前のように様々な便宜を図り、遠方へ向かう際には無理を押して同行してくれた。ただ単に嫁となる者の願いを叶えるためだったと思うには、どうしても割り切れないものを感じるのである。
万次郎は、じっと辰の目を見ている。
まるで、こちらの心の内を見透かそうとしているかのよう。そう、辰が思ったところで。
ふふっ、と万次郎は小さく笑った。
「──お辰さんは、高山右近重友、という人物をご存知ですか」
地を這うような靄がたゆたう未明の御師町に、がらり、という音が響いた。
一ノ鳥居のすぐ近く、塩谷平内左衛門の屋敷の裏口が開かれ、中から漏れ出た明かりが朝露に濡れた地面を照らしている。
まるで辺りを気遣うように、無言の男達が足音を忍ばせて歩み出てきた。
揃いの灰色の行衣を着込み、背には荷物を載せた背負子を負ぶった男達は皆、惹きつけられるように南の空を見上げている。今は靄の向こうに隠れているが、その視線の先には彼等の目指す富士の御山が、長々と裾を広げて屹立しているはずであった。
空を見上げる男達の中に一人、随分と背の高い者が混じっている。
他より頭一つ高い割に、身体つきはいささか細い。行衣の上から弁慶縞の角袖を羽織り、手には金剛杖、腰には雪上で草鞋に巻く荒縄が輪になって括りつけられている。
長い黒髪を後ろに撫で付けて一本に結い上げ、涼しげな瞳で暗い空を見上げている姿は、どこか市井で私塾を開いている若い蘭学者のような雰囲気があった。
言うまでもなく、辰である。
もしも初めてこの姿を見た者がいるのなら、本当は女であると知れば大層驚くに違いない。三志の一計で男に扮することになったが、これ程までに男の姿が似合っているとは自分でも予想していなかった。
昨晩、三志は呼び寄せた髪結いに幾ばくかの口止め料を握らせると、「こいつを男に見えるよう、仕立ててやっちゃくれねえか」と頼み込んだのだ。
何故だか喜び勇んだ髪結い婆は、辰を別室へと連れ込むや否や、あっという間に辰のあるか無しかの化粧を落とし、丸髷を解いて総髪に結い上げてしまった。
それだけでは飽きたらず平内左衛門の娘達に何枚も羽織を持ってこさせると、その中から弁慶縞の一枚を選んで、最早石仏のような気分を味わっていた辰に押し付けたのである。
「どうだい。あたしの自信作だよ!」
髪結い婆が満足げに言ったのも無理はない。
衆目に晒された辰の姿は疑いようもなく男で、身の丈に加えて見目もなまじ良いだけに、些か線の細い美丈夫にも思えてしまうのだ。本人としては、情けない事この上ない気分であったが。
でも、これも富士の御山の頂を目指すための関門のようなもの。
──姿を変えるだけで大願を果たせるというのなら、男だろうと化物だろうと幾らでもなってやる!
そんな少しばかりの覚悟を秘めて、いま辰は男の姿で靄の向こうの御山を見上げている。
ただ一つ、気になる事があった。万次郎の真意である。
──どうして万次郎さまは、こんなにも私を手伝ってくれたのだろう?
その理由が、知りたい。
一度考え始めるとそれは熾火のように燻り続けてしまい、いよいよ登拝決行となった今もなお心に引っ掛かったままだったのだ。
このまま御山へ向かって良いものだろうか。出来ればこの釈然としない思いを解消してから、心置きなく御山へ挑みたい。そう、辰は考えていた。
「今朝は随分と霞がかっていますね。どうぞ足元には気を付けて」
見送りに出た万次郎が、常と変わらぬ柔らかな、それでいてどこか案じる風が見てとれる笑顔を浮かべている。
やはり、この気分に整理を付けておくべきだ。
辰は、はっきりとそう思った。
「──三志さま!」
万次郎の袖を掴みながら、辰は冨士浅間社へ向けて歩きだした三志の背に呼びかけた。
「申し訳ございません。少しだけお時間をいただいて良いですか?」
先頭を行く三志が、肩越しに視線だけで振り向いた。
辰が許婚の袖を摘んでいることに何かを察したのか、ゆるりと頷く。
「……ああ、先に浅間社へ行ってる。後から追いついて来い」
「ありがとうございます!」
万次郎の手を引いて、その場を離れる。
これは二人だけの問題だ。三志にも、不二孝の男達にも、塩谷家の人々にも、出来れば聞かれたくはなかった。
辰は、少し離れた天水桶の陰に万次郎を引っ張り込む。ちらりと屋敷の方を見たが、これくらい離れていれば聞こえることはないだろう。
突然手を引かれて連れ出された事に、万次郎は目を白黒していた。
「ど、どうしましたか、お辰さん?」
「あの……」
いざとなると言葉が出てこない。
辰は二呼吸だけ時間を置いて頭を整理すると、噛み締めるように言葉を切り出した。
「一つ、お訊ねしたかったのです。どうして、私の富士登拝という大願にこれ程までお手伝いして下さったのか。それが本当に実現するとなれば、私との祝言が先延ばしになると判っていたでしょうに」
嫁になる女がいつまでも家に入らず、叶うかどうかも判らない大願に現を抜かしているというのは、どう考えても外聞が悪いはずなのだ。
万次郎が鎌倉屋を訪ねてきたあの日、もしも万次郎に「そんな夢物語など捨てて今すぐ家に入れ」と言われていたのなら、辰も渋々その言葉に従わざるを得なかっただろう。
それなのに万次郎は、最初からそうするのが当たり前のように様々な便宜を図り、遠方へ向かう際には無理を押して同行してくれた。ただ単に嫁となる者の願いを叶えるためだったと思うには、どうしても割り切れないものを感じるのである。
万次郎は、じっと辰の目を見ている。
まるで、こちらの心の内を見透かそうとしているかのよう。そう、辰が思ったところで。
ふふっ、と万次郎は小さく笑った。
「──お辰さんは、高山右近重友、という人物をご存知ですか」
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