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第五章

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 どこをどうやってここまで戻って来たのか、あまり記憶がない。ルーチンワークのなせるわざなのかも知れない。
 そして部屋の前に佇む人影にようやく帰って来たのだと実感を覚えた。
「妹尾……どうして……ここに……」
 体は鉛のように重く、頭も寝不足が続いたように痛み出していた。そんな鮎原を迎えたのは、一体いつからそこにいたのか妹尾だった。
「気になって、来てしまいました」
「気になって…て? 昨日のことならいいよ。俺は気にしてない」
 吐き捨てるように言った。昨日こいつは自分にキスをした。だから、わけが分からなくなって、自分は――。
 違うだろ、バカやろう。それが八つ当たりに過ぎないのは分かり切っている。
「鮎原さん」
 妹尾が名を呼ぶ。けれど返事なんてできない。こんなぐちゃぐちゃになった感情を抱えている自分を見ないでくれ。
「ひとりでいたいんだ。帰ってくれ」
 カギを取り出しドアを開ける。体を滑り込ませ、ドアを閉めようとした。
「待ってください」
 声と同時にがしっと鈍い音が上がる。
 肩をつかまれた。音は伸びた妹尾の腕がドアに挟まれて上がったものだった。
「妹尾っ、腕」
「っつう……。待って、ください。そんな顔をしているあなたを残して帰れな、いっ」
 腕の痛みにか顔を歪めて、しかし肩をつかんでいる手は離さず妹尾が中に入ってくる。そして鮎原を引き寄せて抱き締めた。
「帰れません。帰れるわけ、ない」
「妹、尾……」
 外から差し込む微かな明かりの中、余りに近すぎる距離で見つめ合う。背を抱く腕は強かった。きつく締めつけられ漏れる声は掠れる。息が止まる。
「大丈夫だから。離せ」
 人肌の温もりを知っている体が、安堵を求めて包む腕に委ねようとしていている。胸が押し潰されそうで苦しいのに、いつまでもこの腕の中に身をおいていたいと。だがそれは駄目だ。
「離しません」
「離せ、妹尾」
 認められない。この腕は温もりを教えてくれた腕とは違うのだ。
「嫌です」
「妹尾っ」
 頼むから、そんなに優しく包まないでくれ。
「いいえ。離すわけない。こんなにも辛そうな顔をしているあなたを離せるわけないでしょっ」
「どうして……お前は……こういうときに……」
 このままでは妹尾に縋ってしまいそうだった。欲しかったはずの、包まれたかった腕とは違うのに。
「傍にいるから。ずっと傍にいるから。あなたをひとりにしないから」
 ぐずぐずと膝が崩れていく。よくよく自分の膝は根性なしだ。すぐに萎えてしまう。なのに、そんな体でも妹尾は支えてくれる。
「だから、何なんだよ。どうしてお前はそんなに――」
 優しいのだろう。
 息がもう苦しくて、泣くまいと気張っていたのに胸の奥からせり上がってくる塊を吐き出してしまいたくて、鮎原は嗚咽を上げた。それはいっそう言葉を上手く綴れなくしたけれど。
 薄暗い中、抱きかかえられるようにして部屋の奥へ行く。座らされたのはベッドだ。明かりを点けないのは、泣き顔を見られたくない鮎原の気持ちを慮ってだったろうか。
「オレが傍にいるから、ずっといるから」
 とくとくと規則正しく脈打つ妹尾の鼓動を聞きながら、目を閉じる。包み込む温もりの中は心地よく、それは自然頬を濡らす涙が零れてしまうほどだった。



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