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8.

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「はああああああ」
「ふぅ」

 二人同時に息を吐いた。しかし、ほっとしている場合ではない。

「おい、離せよ」

 狭い個室から出るには出たが、瑚志岐はまだ比良井塚に抱き締められたままだった。

「どうしましょうかねえ。これは予想外だったな」
「は? 何が予想外だって?」

 唇が触れてしまいそうな近距離からじっと顔を覗き込まれ、瑚志岐は思わず息を止める。

 比良井塚のことは、そこそこ整った顔立ちをしているから、女性にさぞかし持てるんだろうなと思っていたが、魅力はそれだけではないことを知った。
 真っ黒で何もかも見透かしてしまいそうな、奥深い色をした目。
 取り繕っても、あっという間に看破されてしまうような、自分が偽りの〈少女〉であることも、すぐに見破ってしまいそうな――?

 いやいや、さすがにそれはないか。よほど夢見がちな、妄想のやまいをこじらせたヤツでないと。
 少なくとも自分が知っている比良井塚にはそんな病の兆候はなく、生真面目で、たまにそれが鬱陶しくなるときもあるが、上の者にも堂々と自分の意見を述べるある意味ウザイ、怖いもの知らずの青年だ。

「まあ、今はこれでよしとしますか。あなた、可愛すぎです」
「はあ? かわ……」

 何を言われたのか意味を理解しようとしているうちに、瑚志岐は生まれて初めての感触を唇に覚えた。直後、最大級の冷却魔法で一瞬にして凍りついたかのごとく硬直する。それは比良井塚の唇が離れても効果を持続した。
 唇に唇が触れた。
 突発的な事故や偶然ではなく、比良井塚の意志によってという事実が、瑚志岐に混乱の拍車をかけていた。

「え? どうしたんですか?」

 比良井塚が、身じろぎ一つしないでいる瑚志に気づき、不思議そうにするりと頬を撫でる。
 そこでようやく瑚志岐は氷像化した魔法が解かれた。

「は、はじ、めて……なのに……」
「はじめて? 何がですか?」
「い、今、おまえが、オレに……、したこと」
「え、キスしただけですよ。初めてって、まさか、その年で――?」

 比良井塚があからさまに意外そうな顔をした。

「わ、悪いかっ!」

 彼女いない歴が年齢。相手がいないのだから、キスだってない。
 それが、今、何? トイレで!? いきなり男相手に?

 初キス!!

 頭の中は真っ白になってうまく思考がまとまらない。その上、きっと比良井塚は何気なく言ったのだと思いたい一言に引っかかる。

 比良井塚は、「その年で」と言った。聞き間違いではなく。
 自分は今、見た目は少女。十六、七の。と言うことは昨今の女子はそんなに経験が早いのか?
 何てことだ、こっちは三十すぎの今日まで、キスの経験すらなかったのに。何というか憮然としながら不公平感。

「本当に、今初めてだったんですか? ではまさか性交経験もない……?」

 比良井塚が信じられない、と言わんばかりに、追い打ち発言を食らわせてくれる。

「そうだよ!! ないよ!!  それが何か!? キスすらしたことないんだから、当たり前だろっ!」

 もう自棄になって叫ぶ。セイコウって成功じゃなくて性交。つまり、エッチ。要はセックス。

「……まいったな。まさかバージンなんて。前も後ろも、と言うことですよね」
「はあ!? 意味わからない。前も後ろもって何!?」

 それはいったい、何の確認だ。

「僕はどうやら相当ついているらしい。まさかあなたが、男も知らない純潔だったとは」
「お、男も知らないって――」

 だったら何なら知っていると言うのだ。そんなの知らなくて当たり前! こっちは正真正銘、男だ。ついさっきまでの話だけど。

「いいですか、そのバージン、何としても死守してください。僕が散らせるときまで」

 さすがにここまで好きに言われると、腹立ちも最高潮。瑚志岐は腕を振り上げた。

「なっ!! 何言いやがる、てめえっ!!」

 ふざけるなっ!! 何の宣言だ!!

 しかし比良井塚はあっさりかわし、瑚志岐の腕を取ると顔を近づけてきた。瑚志岐は、またもキスをされるのかと身構えたが、一向に唇は塞がれることはなく、代わりに耳元に囁きを落とされる。

「自分を『オレ』という女性も世の中にいますけど、せめて『ボク』にしませんか? ボクっ子は嫌いじゃないです」

 比良井塚の吐息がかかって、耳朶の奥がむずむず痺れてくる。

「っ!」

 瑚志岐は、首の後ろ辺りが火照ってくるのを感じた。

「ではまた。ウサ耳のお嬢さん」

 比良井塚がふわりと笑んでそう言うと、何ごともなかったように瑚志岐を残してトイレから出て行った。

「くそっ」

 初めて目にした比良井塚の笑顔にドキッとしたのは、きっと気のせいだ。何がウサ耳だ。何がお嬢さんだ。

 しかし視界の端に入った壁面の鏡に、映った自分の姿はそのとおり。
 頭の白い長い耳はウサギのよう。フリフリのコスチュームはミニ丈スカート。足は、膝上のハイソックでストラップシューズ。
 どこからどう見ても〈少女〉なのだった。
 そして腰のホルダーには――生々しくも男のアレが実物大でぶら下がっていた。

 これが、昨夜現れた自称妖精の珍妙な小動物〈パル〉の言っていた魔法少女〈ファッシネイター〉なのだろう。

「そ、そうだ、パ、パ、パァ――」
「呼んだですか?」

 目の前で、声とともにしゅるんと風が巻いたのとよく似た現象が起き、白い毛玉が現れる。左右から白くて長い扁平なものが出ていて、下からはもこっとしたリスの尾を思わせる物がついていた。

「お、お、おま、お前!! パパパパァ――」
「あの、ボクの名前は〈パル・スパル〉です。だから〈パル〉。パァじゃ……」
「んなことは、どうでもいいっ!! 何とかしろよ、これ!!」

 瑚志岐は現れた毛玉を引っつかむと、ぶんぶん縦に横に振り回した。

「あわわわわ、やーめーてー、目が、目が――、あーあー、い、いどーしますから」
「え? ああ?」

 あっと思ったときにはもう瑚志岐は、クッション素材に包まれて放り出されたような感覚を味わっていた。

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