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89.おかえりなさい

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 翌日。
 1人しかいない彼の寝室で、私はただならぬ緊張感に身を固めていた。

 この部屋に来て彼を待つ目的は一つだからだ。

 ガチャ……

「あ…………」

 玄関にある靴で気付かれているはずなのに、音で分かってたはずなのに。
 いざ部屋のドアが開かれ、その姿が現れた途端、声が漏れてしまった。

 1週間ぶりに目を合わせた黒いパーカーフードの男性。
 陰から覗く美しい漆黒の瞳が、窓から溢れる夕闇に僅かに煌めいて、ドキッとする。

 椅子が無いため、どこに居ようか悩んだ結果、申し訳なく座らせてもらっていたベッドの端で、私は手に汗を握りながらどう声をかけていいか悩み、思わず声を震わせた。

「お、おかえり…なさい……?」

 赤面したのは言わずもがなだった。
 鍵を受け取っていたから彼の帰宅よりも先に部屋にいただけのこと。
 まして彼の部屋であり、彼の家なので、私がそれを言うのはおかしい。
 それがまるで夫婦の会話のようだと思ってしまったのだ。

 不快に思われてしまっては無いだろうか。
 ただ鍵を貸しただけの、部分的な彼女でしか無い私に、こんなことを言われて。
 今は目を合わせたとはいえ、偶然目の前にいたという不可抗力なのかもしれないし、まだ“彼女の時間”ではないかもしれないというのに……。

 そんな事を高速で考えつつ、彼から目を逸らさずにいるも、彼の視線がフッと途切れたので、その熱を下げるのは一瞬だった。

 あ……。

「……夜に来るって聞いてたけど」

 ドクンと、心臓が凍るように感じた。
 
 彼はフードを外し、髪をササっと掻いて整えると、カバンを床に下ろした。

「あ…はい……。
そのつもりでしたが…準備が早く終わって…時間も余ったので……」

 高ぶった感情が少しずつ平常よりも下がっていくのと同時に、視線も降りていく。
 まるで尋問を受けているかのようだ。

 予定の時間を細かく示した訳ではないが、日が落ちるよりも先に、なんなら午後4時からこの部屋に来ていたのだ。

 何をするわけでもなく、ただベッドの端に座り、彼の帰りを待っていた。

 何故ならこの部屋に来るな理由は、彼に会い子作りをする為なのだから。
 でも、彼は時折その条件を無視することもある。

 今はまさに、その時なのかもしれない。
 彼の態度が少し不服そうなのも、その時折発現するパターンに当てはまっているように感じる。

 思えば出会った後はほぼ毎日顔を合わせていたけど、私がに入った後は大学の授業のみでお互い目すらも合わせなかった。
 その講義も全て同じではない為、約1週間のうち会った回数で数えればほんの数回程度だ。

 今までどんな風に会話を切り出したかもよく分からない。
 もともと寡黙な方であろうシンと、どうして会話が成り立っていたのか。

 思い返してみれば、行為の話や課題、あとは浅井さんの話しか思い出せなかった。

 そう考えてあの出来事を思い出して臆し、悔しさにロングスカートの上に置いたままの手をギュッと握った。
 シンと一緒にいた女の人とは、もっときっと会話を楽しむのだろう。
 私はそういう関係にはなれない。
 もっと一線を引いた関係。

 会話をしたいだなんて、ましてや夫婦のようだなんて。
 
 そんなわけ、ないのに。
 
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