上 下
9 / 40

第九話 いつか、幸せな日々を

しおりを挟む
 
「なんだそんなことか。侍女などいくらでも……」

 ルーク様がシグルド様の後ろを覗き込み、わたしと目が合った。
 途端、ルーク様の空気が冷え込む。

「アンネローゼ……か」

 悲鳴が聞こえた。
 ルーク様の後ろから出てきたエスメラルダ様が両手を口元に当てている。
 なぜか奥様の顔は真っ青になっていた。

「…………あなた、なぜ生きて」
「?」
「それはどういう意味だ?」
「ひっ」

 シグルド様が問いかけると、エスメラルダ様は後ずさった。
 ふるふると首を振る彼女の顔は蒼白を通り越して土気色になっている。
 すごく震えてる。まるでライオンを前にした兎みたい。

「あ、いや、あの」
「貴様は何か知っているのか、エスメラルダ?」
「兄上! だからソレ・・を引っ込めろ! 気色悪くてたまらん!」

 ……さっきからルーク様は何を仰ってるんだろう?
 ソレってなに? シグルド様は別に何も出してないよね?

「少々脅しただけだ。理由は言わなくても分かると思うが」
「……っ、兄上が気にすることは何もない」

 ルーク様は毅然と言った。

「ここはオレの家だし、その女はオレの物だ。兄上にはやらん!」
「そうか。なら、私はここに滞在するとしよう」
「……は?」

 ルーク様の顔色が変わった。

「私もこの侍女が気に入ったからな。幸い、緊急の任務もないことだし」
「な……」
「元々、私の実家だ。構わないだろう?」
「それは……」

 ルーク様の中でわたしを手放すまいとする意志とシグルド様を遠ざけたい意志がせめぎ合っているのが分かる。苦虫を噛み潰したような顔になったルーク様だけど、エスメラルダ様の縋るような視線を受け、渋々といった様子で頷いた。

「分かった。但し、今すぐ発て。兄上に明朝まで居られると気分が悪い」
「そうさせてもらおう。私も腐った公爵家の匂いを嗅ぐのは我慢ならん」
「フン。とっとと行け! その役立たずをオレの視界に入れるな!」

 ……このお二人って仲が悪いのかな?

 軟派なルーク様と硬派なシグルド様だもの。
 見るからに相性が悪そうな二人ではあるけど。
 ちらほら見え隠れする因縁に好奇心が疼いたわたしは、いきなり手を引かれて困惑した。

「し、シグルド様?」
「話は聞いていただろう。今日から君は私の侍女とする」
「ほえ? あ、あの、本当に……?」

 わたしが振り向くと、ルーク様は忌々し気にこちらを見ていた。
 ふぇえ……怖いよ……。

「私が冗談を言うと思うか」
「それはそのぅ、あまり思わないですけど」
「放っておけば君は自分から不幸な場所に身を置きそうだからな。私が直接傍に置いておくべきだと判断した」
「そんなことは……」

 さっきの言動がアレなので否定してもアレなアレだった。
 いやだって、ねぇ。
 わたしなんかを働かせてくれるところって本当に貴重なんだもの……。
 どこ行っても虐められるし、シグルド様に連れて行かれても一緒だと思って……。

「ところでどこに向かっているのですか?」

 ピタリ、とシグルド様は立ち止まった。

「屋根裏だ」
「方向が真逆ですが……」

 シグルド様はしばらく沈黙していた。

「今、君に案内してもらおうと思っていた」
「なるほど。こうして手を引いていたのは旦那様たちから離れるためだったんですね」

 わたしが納得したように言うと、シグルド様はなぜか目を逸らした。
 何にしても、彼がここから連れ出してくれるのは本当みたいだ。
 ルーク様にも要らないって言われたし、この人について行くしかない……かな。

「それでは、案内しますね」

 使用人棟に行くと、メイドたちが扉の隙間からこっちを覗いているのが見えた。
 わたしを見て忌ま忌ましそうに顔を歪め、シグルド様を見て、サッと顔を引っ込める。シグルド様を先導するわたしは、虎の威を借りる狐みたいだった。

 屋根裏部屋に行き、荷物を取る。
 着替えが一着と、洗面用具、前庭師のサムがくれたスコップだけ。

「お待たせしました」
「これだけか?」

 シグルド様はわたしの荷物を凝視している。
 あぅ……やっぱり見苦しいわよね。

「す、すみません」
「謝ってほしいわけじゃない。鞄はどうした」
「何もないです。わたし、お給金を貰ってないので」
「は?」

 しまった、誤解させちゃったかしら。

「あ、でも大丈夫です。三食ご飯はありますし、お風呂も入れます。何より雨露を凌げるところがいいです。ネズミさんが虫さんを食べてくれるから、肌に虫が這うこともないですし……すごく好待遇なのです」
「……」

 シグルド様が眉間に皺を深く刻んだ。
 その瞬間、屋敷のあちこちから悲鳴が上がった。

 ──……ぱりん!

 きゃ!? ま、窓ガラスが割れた!? 
 なんで!? 突風かしら!?

「ふぅ──……」

 シグルド様が深く呼吸すると、騒ぎは収まった。
 もしかして、シグルド様には公爵家の人間に悲鳴をあげさせる力があるのかしら。それはそれとして、悲鳴を上げた人たちは大丈夫かしら?

「どうにも……ここまで腐っていたとはな」
「シグルド様?」
「いや、今はいい。さっさとこの家から出て行くとしよう」
「えっと……でも、手段は? 今は真夜中ですし……」
「緊急事態ゆえ、騎士団の屯所にある転移陣を使わせてもらう」
「そうですか……分かりました」

 そういうことになった。
 今朝までエスメラルダ様に意地悪されていたのに、公爵家当主のお兄様のところで働くことになるなんて、人生分からないものだ。

 屋敷の外は静まり返っていた。門を出る前に振り返ると、屋敷の面々がわたしをじっと見ているのが伝わって来た。その顔は暗くてよく見えなかったけど、こんなわたしをここに置いてくれたことは確かだから、わたしは立ち止まって、「ありがとうございました」とお辞儀する。また会うこともあるのかしら。もし会うなら、今度は意地悪されないといいな。

「もういいか?」
「はいっ」

 わたしたちは魔照石の照らす街灯の下を歩いていく。

「あの……シグルド様。お願いがあります」
「なんだ」
「どうかわたしを捨てる時は、一言おっしゃってくださいね」
「……」

 シグルド様は立ち止まった。
 あぅ……危うくぶつかりそうになったわ。
 わたしは一歩下がりながらシグルド様を見上げる。

「えっと、嫌いになったり、嫌気が差したりしたら、どうか遠慮なくお捨てください。あなたのような人に助けられただけで、わたしは十分ですから……」

 本当に十分だった。
 世の中、こんな絵本の中から出てきたみたいな騎士さまが居るのかと思ったほどだ。

 幼い頃、お父様やお母様のような立派な騎士になりたかった。
 二人はとっても厳しくて、わたしを褒めてくれたことはないけど……。
 シグルド様はわたしが目指した騎士像そのもので、そんな彼に捨てられるなら、もうしょうがない。

(その時は──)

 シグルド様はしばらく黙ったあと、言った。

「……君が」

 お顔は影になっていて、どんな顔をしているのか分からなかった。

「君が幸せな願いを口に出来るようにする。それが騎士の務めだ」

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたを愛する心は珠の中

恋愛 / 完結 24h.ポイント:369pt お気に入り:1,969

傾国の美女は表舞台をひた走る

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:346

誰からも愛される妹は、魅了魔法を撒き散らしていたようです

恋愛 / 完結 24h.ポイント:213pt お気に入り:128

【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:184pt お気に入り:2,585

貴方達から離れたら思った以上に幸せです!

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:201,584pt お気に入り:12,081

わたくしは悪役令嬢ですので、どうぞお気になさらずに

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,242pt お気に入り:95

王妃となったアンゼリカ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:169,393pt お気に入り:7,832

処理中です...