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番外編
猟犬の魔術師と高飛車令嬢
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子爵邸事件の翌日。
ベリンダは別邸の私室にて寝込んでしまっていた。
原因は、海よりも深い自己嫌悪である。
昨夜は自分のみならず、大好きな双子の姉ウルリーカまで、危うく命を落とす所だった。義兄のデリクも大怪我を負い、姉の可愛がっていた猫も酷い目にあった。
デリクが言うに、猫はどうやら生きているらしいものの、怪我は深かったはずだ。
いくら相手がとんでもない古狸だったとはいえ、あんなに大勢の人がいる夜会で、なぜ自分は易々と罠にかけられてしまったのか。
貴族の社交場では、悪意や下心を持って近づく輩もいる。それを十分に承知していたのに、用心が足りなかったのではないか?
もっと気をつけていれば、回避する道はあったかもしれないのにと、後悔が次々に浮んでくる。
がっくりと気力が根こそぎ砕けてしまい、しゃべるのも億劫なほど身体中が重苦しい。
不幸中の幸いだったのは、母は違う理由から寝込んでいたために、娘達に起きた事件に、気付きもしなかったことだ。
父も別邸には来ていないので、魔術師団長から事情を聞いたのは家令だった。
そして男爵家に長年仕えてくれている家令は、母には体調を慮るという口実で何も伝えず、ベリンダが出席予定だった残り少ないシーズンの催しには全て欠席の手配をとり、ゆっり休むように勧めてくれたのだ。
(はぁ……)
ベリンダは薄く目を開けて、暗く静かな部屋の天井を見上げた。
昼下がりの空はよく晴れて、今日は絶好の散歩日和だそうだが、カーテンを開ける気にもなれなかった。
枕に頭を乗せても眠れず、昨日からずっと、ひたすら目を瞑って横たわっているだけ。
食欲もまるで無く、何も食べないベリンダを心配したメイドが、昼食に好物を色々と用意してくれたので、プディングをやっと一口だけ食べた。
日頃から、我侭な母によく仕えてくれている使用人たちに、ベリンダはきちんと感謝の念というものを持っている。
次期当主の身としても、あまり情けない姿を見せて彼らに心配をかけたくないのだが、どうしても気分は沈んだままだ。
頭の中に灰色の霧が渦巻いているようで、暗い後悔ばかりがこみ上げる。
一体、これからどうすればいいのかも解らず、目を閉じてじっとしていると、やがて扉が控えめにノックされた。
返事をすると、困惑した様子のメイドが寝台の傍まで来て、声を潜めて囁いた。
「ウルリーカ様が、ベリンダ様のお見舞いにと、いらっしゃったのですが……」
双子の姉の訪問は、ベリンダを十分すぎるほど驚かせた。
ここはウルリーカにとって実家の一部だし、彼女が夫と暮らす屋敷からも近い。本来なら訪ねてきても驚くことは何もないのだ。
だが、ウルリーカはこのシーズン中にも、一度もこの別邸を訪れることはなかった。
自業自得で寝込む羽目になった母は、あくまでも自分の非を認めず、あの夜会でウルリーカがもっと自分を弁護するべきだったのにと嘆き、腹を立てているからだ。
もっとも、使用人達はベリンダから事の真相を聞いているし、元からウルリーカを好いてもいる。本当に悪いのはどちらか、周囲はちゃんと知っているのだ。
それでもウルリーカは、もうこれ以上は母と話す気もないらしい。
いくら付き合っても、相手がこれより良くなるとは欠片も期待できないと判断し、全く関わらない事を選んだ。
本当に見捨てられるというのは、こういう事なのだろう。
もう姉は、何か特別な用事でもない限り、ここにも実家にも足を踏み入れることはないと思っていたのに……。
「私は大丈夫だから、すぐに通してちょうだい」
ベリンダは慌てて寝台に上体を起こし、寝巻きの肩にショールを羽織る。
ほどなく現れたウルリーカは、柳で出来た大きめのバスケットを抱えており、寝台の妹を痛ましげに見つめた。
「もしかして、気を落としているんじゃないかと思って……」
ウルリーカはそう言い、メイドが寝台の隣へ用意した椅子に腰をかけた。バスケットは相当大切なものを入れているのか、床ではなく膝に乗せて抱えている。
咄嗟に上手い返答が出来ず、ベリンダが押し黙っていると、ウルリーカは困ったように微笑んだ。
「ベリンダは何も悪くないと、魔術団長様もおっしゃっていたじゃない。それにヴィントだって、ほら」
ウルリーカがバスケットの蓋を外すと、燃えるような赤毛の猫が、ピョコンと顔を突き出した。
「あっ!」
ベリンダは思わず大声をあげそうになり、慌てて口を押さえた。
部屋の壁はそう薄くないが、何しろ隣室には母がいるのだ。
「デリク様もベリンダを心配して、ヴィントの無事な姿を見せられるようにと、預かってきてくれたの」
ウルリーカはにっこりと微笑み、赤毛猫を抱き上げるとバスケットを床に置き、声を潜めて囁いた。
「痛かったわよね……本当に、ごめんなさい」
ベリンダが震える声で呟くと、赤毛猫は前足を伸ばしてベリンダの手をポンと叩いた。
その仕草に、猫からまで励まされてしまったように感じた。
義兄のデリクからも昨日、猫が無事だとは教えられていたが、ふわふわした毛皮つきの、暖かい小さな前足に触れ、ようやく心から安堵できた。
「っ……ウルリーカにも、この子にも、一生許して貰えなくても仕方ないのに……」
鼻の奥がツンとして、ベリンダは小さくしゃくりあげた。
ウルリーカは自分を責めたりなどしないと、十分に承知している。
昔から姉は、お人よし過ぎるほど優しい人だ。
しかし、今にして思えば、ウルリーカが本当に優しくなったのは、デリクと出会うきっかけとなった、王宮の夜会を経てからだったような気もする。
それまでも姉は、確かに控えめで気配りのできる少女だったが、それは優しさと言うよりも、周囲にひたすら遠慮して息を潜めていたようだった。
だからその頃、何でもベリンダを優先して譲ってくれる姉に、本当は嫌われているのではないかと、薄々勘付いてはいたのだ。
目尻に涙を滲ませるベリンダへ、ウルリーカが苦笑した。
「どうしても気になるなら……ベリンダは昔、私の意地悪を許してくれたでしょう? これでお相子ということで良いかしら?」
「なにそれっ!? 子どもの嫌がらせと、命にかかわる大事件じゃ、天秤が釣り合わなすぎるわよ」
思わず呆れて、そう言ってしまったが、ウルリーカはきっぱりと首を振る。
「時間分の利息がついたと思ってくれればいいわ」
そう言った姉の顔は真剣そのものだった。
どうやら大昔のささやかな意地悪は、姉の喉へ小骨のように引っ掛かり続けていたらしい。
結局、それ以上ゴネても逆にウルリーカを困らせてしまいそうだったので、ベリンダはまだ多少の罪悪感を覚えながらも、引き下がらせてもらう事にした。
赤毛猫はウルリーカの膝の上で、そんな二人を満足そうに眺めている。
「ところで、この子を助けてくれたのは、誰なのかしら?」
ようやく気を取り直したベリンダは、手を伸ばして艶やかな赤毛を撫でると、気になっていたことを尋ねた。
「そ、それが……お名前はわからないそうなのよ……」
ウルリーカは困惑した様子で、膝に乗せた赤毛猫へと視線を下ろして話し始めた。
彼女がデリクから聞いた所によると、フェダーク子爵邸に不審な防音結界が張られていると、王宮に伝令魔法で匿名の通報があったらしい。
伝令魔法の形は人それぞれ違うので、送り主は簡単に特定できるのだが、魔法を二重に駆使することにより、雀に変化させて本来の形を隠すことも出来る。
王宮に寄越された伝令魔法も、そうして雀の形に変えられていたそうだ。
デリクが子爵邸に駆けつけた時、屋敷の前には猫だけがいて、傷は治癒魔法で塞がれていたという。
「だから、お義兄さまや兵たちが、あんなに都合よく来たのね」
もう一つの疑問が晴れて、ベリンダは頷いた。
考えてみれば、あそこは貴族の別邸が、特に集中している通り。
今、国中で最も魔法使いの集まっている場所なのだ。
発見者は、面倒に巻き込まれるのは御免だと思っても、せめて猫の治癒と匿名の通報をしてくれたのだろう。
「親切な人がいて、助かったわね」
ベリンダが言うと、ウルリーカの膝に大人しく納まっている猫は、同意するようにごく小さな声で鳴いた。二人がひそひそと話しているので、静かにしなくてはならないのと感じているのだろうか。
信じられないほど賢い猫だとは、ウルリーカに聞かされていたが、ベリンダは改めて感心した。
「ねぇ、私も少しだけ、ヴィントを抱いても良いかしら?」
ベリンダが一番好きなのは賢い大型犬だが、こんなに賢く可愛らしい猫ならば、つい抱きたくもなる。
「え!? ええと……ヴィント、どうかしら?」
ところが、やけにうろたえたウルリーカが赤毛猫に話し掛けると、猫は途端に、ふいっとベリンダから顔を逸らしてしまった。
さらに、ウルリーカの胸元へグリグリと頭を擦り付けつつ、ベリンダにチロッと流し目をくれて『すみませんね、俺は彼女専用なので』と言わんばかりに、パタンと尻尾を振って見せる。
―― え。なんなの、この見せつけられている感……。
ベリンダが唖然としていると、顔を真っ赤にしたウルリーカは、そろそろこの子を返さなくては……とモゴモゴ呟き、赤毛猫をバスケットに押し込んで帰ってしまった。
後に残されたベリンダは、しばし茫然としていたものの、気付けば先ほどまでの息苦しさは、嘘のように引いていた。
寝台から起き上がってカーテンを勢いよくあける。
薄く金色がかった夕刻の陽射しが王都を美しく照らし、屋敷の前から、ウルリーカを乗せた辻馬車が遠ざかっていくのが見えた。
ベリンダは窓から離れると、奥の衣裳部屋で普段使いの楽なドレスに着替えた。
「ベリンダ様、起きて宜しいのですか?」
鏡台に座って髪を梳かしていると、お茶のカップを片付けにきたメイドが驚きの声をあげた。
「ええ。ウルリーカのお見舞いのおかげで、すっかり元気になれたわ。少し庭に出て、外の空気でも吸おうかと思って」
「それはようございました」
ホッとした様子のメイドに、ベリンダもようやく笑顔で返事ができるようになった。
「お夕食はちゃんと頂くわね。とってもお腹が空いているから、多めにしてくれると嬉しいわ」
「はい! できるだけ急ぐようにコックへ伝えます」
メイドは嬉しそうに言うと、お盆を抱えて部屋を出て行き、ベリンダも夕食まで庭で過ごすことにした。
この別邸は、シーズンや王都に何か用事があった時に使うだけだが、管理人を雇っているので庭も手入れが行き届いている。
丁寧に刈り込まれた植え込みが庭を囲む垣根となっており、足元の花壇には夏の花が咲きみだれていた。
男爵家の次期当主として、本来なら社交にもっとも忙しいはずのシーズンの暮れに、一人でのんびりと花を眺めているなど、不思議な気分だった。
ぼんやりと足元の花壇を眺めて歩くうちに、ベリンダはいつのまにか、表門の傍まで出てしまっていた。
通りを一本向こうに行けば、賑やかな繁華街となるのだが、広めの屋敷が並ぶこの通りには、その喧騒も届かない。
周囲には他に人影もなく、近隣の屋敷からは夕食の準備をしているらしい音が聞こえ、食べ物の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
朝からろくに食べていない胃袋を刺激され、ベリンダのお腹が小さく鳴った。
(やだ。誰もいなくて良かった……)
ベリンダは頬を赤くして腹を押さえ、屋敷の中に戻ろうと踵を返した。
その時だった。
「ベリンダ嬢、もうお身体は大丈夫ですか?」
不意に後から聞こえた男の声に、ベリンダはぎょっとして振り向く。
誰もいないと思っていたのに、ちょうど死角の位置にいたのだろうか。
いつのまにか垣根のすぐ向こうには、少しくすんだ金髪を短く刈った、背の高い青年が立っていた。えんじ色のローブを着ているということは、王宮での勤め帰りかもしれない。
昨日、自分を抱き上げて運んでくれた宮廷魔術師の青年の姿に、ベリンダはしばし絶句して立ち尽くした。
「―――っ!! いっ、今の……」
あなた今、私のお腹が鳴ったのを聞いちゃった!? もしそうなら、すぐさま忘れてっ!!
……と、思わず襟首を掴んで詰め寄りたい衝動にかられた。
「今の?」
だが幸いにも、首をかしげる彼には、なにも聞こえていなかったようで、ベリンダは慌てて首を振る。
「いっ! いいえ、何でも無いありませんわ! いきなり声をかけられたので、少し驚いて……」
必死に平静を装って答えると、長身の宮廷魔術師は苦笑して軽くお辞儀をした。
「見舞いを届けにきたのですが、お顔を見られるとは思わなかったので、つい」
小ぶりの可愛らしい花束を、垣根越しに差し出された。
「えっ……あ、ありがとう……ございます……」
ベリンダはしどろもどろに礼を言って花束を受け取り、できるだけ隠すように掲げ持った。
何しろ、ほんの少し外の空気を吸うだけのつもりで、誰かに出くわすなんて思ってもいなかった。髪もきちんと結っておらず、白粉すらはたいていない。
(っ……しかもこの人、ずっと私を避けてたのに! 見舞いに来るなんて、どうしちゃったのよ!?)
可憐な花々の隙間から見える宮廷魔術師のエミリオ・カロウスに、ベリンダは胸中に叫ぶ。
昨日、放心状態から覚めて、怪我をした自分を抱きかかえているのが彼だと気付いた時は驚愕したものだ。
エミリオとは、以前から夜会で何度か顔を合わせていたものの、一度も会話をした事はなかった。
彼はただでさえ上背があるし、いつも数人の華やかな女性に囲まれていたから、自然と目につく。
宮廷魔術師という職は、有能な者と証明されているも同然だ。
現在の女王アナスタシアは、自分と行動を共にする事の多い宮廷魔術師の選別には、特に厳しい。
面接と最終試験は女王が自ら行い、いくら名家の出でも、無能者は決して据えないと有名なのだから。
その難関な宮廷魔術師であり、さらに凛々しい顔立ちに長身と、見た目も申し分ないとなれば、女性に放って置かれないのも当然だった。
別に、それが悪いとは言わない。
ベリンダとて、エミリオの見た目はとても良いと思う。
ただ、夜会でいつも彼は、大勢の女性にチヤホヤされてとても楽しそうだったから、そういうのを好むなら、自分とは合わなそうだなと思い、特に話し掛けたりはしなかった。
そして恐らく、彼の方でもベリンダを苦手と見ていたのだろう。
何度か近くで目が合ったこともあるのに、一度も話し掛けようとはしなかったから。
ベリンダも、夜会では多くの男性と会話をするし、誘われればダンスの相手もする。
だがそれは、あくまで社交的なマナーとしてだ。
チュレク男爵家がいくら裕福だとしても、あくまでも爵位は下位である。他家とも上手くやっていかなければ、たちまち貴族社会のつまはじきとなり、事業も厳しくなってしまう。
ベリンダには次期当主として、社交面で家の顔を守る義務があるのだ。
なので、多少は苦手な相手にも、愛想よく振る舞うようにはしているものの、さすがに限度はあった。
下心丸出しで暗がりに連れ込もうとしてくる男を、こっぴどく振ったのは、一度や二度ではない。
その男たちは悔し紛れに、ベリンダを『高飛車令嬢』と、謗ったものだ。
美貌と実家の裕福さを鼻にかけ、幾多の男を弄んでは捨てた悪女だと、一部ではそう囁かれていることも知っている。
しかし、ろくでもない男に弄ばれるくらいなら、陰口の方がよほどマシというもの。
それに心ある人たちは、ベリンダときちんと会話をしてくれ、噂が根も葉もない誹謗中傷だと理解してくれる。
だから、もしエミリオがベリンダを悪女と信じて嫌悪しているとしても、勝手に信じさせておけば良いと思った。
彼に熱をあげるご令嬢は多くても、ベリンダは特に興味を持てなかったから。
―― なのに今。彼を前にして、ベリンダの心臓は、壊れそうなほど動悸を速めていた。
昨日、ベリンダは初めて彼に言葉をかけられた。
ほんの数言で、怪我人を労わる常套句のようなものだったが、ベリンダを運ぶ腕は慎重で優しかったし、真剣にこちらを案じてくれているのが、しっかりと伝わってきた。
初めて見た宮廷魔術師としての彼は、夜会で遠目に眺めていた時の軽薄そうな印象とは大違いで、不当な評価を決め付けていたのは自分の方だったのかもしれないと反省した。
それを思い出し、頬が熱くなっていく。
それでも、彼がベリンダに親切な態度だったのは、あくまで仕事だからだと思っていた。
こうしてわざわざ見舞いに来てくれるなど、全くの予想外。
胸の奥がきゅうと締め付けられるような気がして、小さな花束を持つ両手が震えてしまう。
男性から花を貰うなんて、それこそ日常茶飯事なのに……。
(こ、この人だって、女性に花束なんか日ごろから渡し慣れているわよ! もしかしたらお見舞いも、宮廷魔術師として、仕事の一環なのかもしれないし……)
心の中で、必死に自分へ言い聞かせ、ベリンダはできるだけ顔を隠しながら、そろそろと後すさり始めた。
「も、申し訳ありませんが、少し体調が……また熱が出てしまったようですので……っ、これにて失礼いたしますわごきげんようエミリオ様!!」
最後の方は、息継ぎもせずに早口で叫び、ベリンダは屋敷の中へと駆け込んだ。
「ベリンダ様、どうかなさいましたか!?」
驚いて奥から飛び出してきたメイドに、冷や汗まじりの笑みを浮かべて見せる。
「ちょっと、思わぬ相手に会っただけよ。何でもないわ」
「そうですか……あら、綺麗な花束ですこと」
ベリンダの手にしている花束に、メイドが目を留めた。
「……そうね」
改めて花束を眺め、ベリンダも思わず呟いた。
花束は決して大きくはなかったが、数種類の色鮮やかな花々から、包装紙にリボンまでどれも上質なものだ。そして花の組み合わせも、非常に絶妙で美しかった。
花束を日頃から貰い慣れているベリンダだからこそ、この花束の価値をより理解できた。
「ベリンダ様、お食事の用意が出来ておりますよ。このお花は、さっそくお部屋に飾ってまいりますね」
「ええ」
ベリンダは頷いたものの、食堂にすぐ向わず、花束を持って二階に上がって行くメイドの後ろ姿を、しばらく見送っていた。
エミリオに、夜会でまた顔を会わせてしまったら、果たして自分は平然としていられるだろうか……。
(っ……いられるに決まっているじゃない! 今日は体調が悪かっただけで、今度はもっとまともに会話して見せるわ! 絶対に話しかけるから、待っていなさい!)
ベリンダは真っ赤に火照った頬を両手でぺちぺちと叩き、脳裏に浮ぶ長身の魔術師へ、キッと挑むのだった。
***
―― 一方で、男爵家の別邸を後にしたエミリオは……。
(やば……なんだあれ、可愛すぎるだろ)
早足で繁華街を歩きつつ、自然とニヤけてきてしまう口元を、慌てて片手で覆った。歩き慣れた石畳の道を、エミリオの足はやけにウキウキとした調子で踏む。
ベリンダ・チュレク男爵令嬢ならば、あんな小さな花束より、はるかに豪華な花束や贈り物を貰いなれているだろう。
てっきり、ツンとすました顔でソツなく受け取ると思っていたのに……。
頬を染めてうろたえていた可愛らしい姿が、目にしっかりと焼きついて離れない。
ベリンダが鼻持ちならない高飛車女など、陰口を真に受けたりはしなかったが、それでも夜会で見かける彼女は、いつも大勢の男をかしずかせた派手な女性で、エミリオからすれば容姿はともかく、苦手なタイプに見えた。
以前に彼女が夜会で、なりふり構わず姉の窮地を救ったと聞いた時は感心して好感を持ったが、その気持ちは恋愛感情とは少し違う。
今日の見舞いだって、求愛とかそんな甘いものじゃない。
子爵邸事件のように凄惨な状況では、大の男だって泣き喚いてパニック状態に陥っても不思議ではないのに、彼女は姉と共に窮地を乗り越えた。
最終的に百足を倒したのは、デリクや魔術師たちだが、彼女たちがしっかりしていなければ、助けが来る前に死体となっていただろう。
だから花束に込めた気持ちは恋愛感情ではなく、勇敢な健闘を称える賞賛だった。
それに彼女の方でも、以前からエミリオへ、あまり好感を抱いていないようだと感じていた。
夜会でたまに目が合ったりすると、すぐ背けられてしまうし、彼女の自分を見る目には、なんとなく『軽薄男』と書かれているような気がするのだ。
そして多分それは、思い違いではないはずだ。
エミリオは探査魔法が得意なことから、『猟犬魔術師』などというあだ名をつけられているが、魔法だけでなく生まれつきに勘も鋭かった。
特に、どんなに上手く取り繕われようと、相手が自分をどう見ているかなどは、すぐに感じ取れる。
そんなエミリオを、親友のデリクは「鼻が利く」と、評価するのだ。
だから今日も本当は、本人には会わず、玄関先で使用人に花束だけ渡すだけのつもりだった。
けれど、男爵家の別邸に着いたら、庭先にはいつも見かける派手な女ではなく、穏かな微笑みを湛えた可憐な女性がいて……つい、そのまま声をかけてしまったのだ。
(っ……まったく……いつもと全然違うんだもんなぁ)
さっきのベリンダは、今までに出会った女性の中で断トツに可愛らしかったと、エミリオは胸中で頷く。
エミリオの父は、まだ三人の子どもが幼いうちに亡くなった。
伯母であるカロウス辺境伯の援助を受けられなければ、末端貴族の母は、とても子ども達を育てられなかっただろう。
カロウス辺境伯は非常に交友関係が幅広く、王都にも多数の知人がいる。エミリオが宮廷魔術師の試験に合格した時は大喜びしてくれ、各所に知らせ回った。
それでエミリオは、辺境から一人でこちらに出て来たものの、あちこちの家から夜会などの催し物によく呼ばれるのだ。
正直に言えば、夜会はそれほど得意でもなかったのだが、魔力の高いエミリオには、あの忌々しい婚姻期限がある。
お気に入りの甥が良い結婚相手を見つけられるように、多くの女性との出会いを設けてやりたいという、伯母の好意を無にするわけにもいかない。
そう思って、できるだけ色々な女性と会話をしたが、ある程度の好意は持てても、結婚したいとまで惹かれる女性には巡り会えずにいたのだ。
それが今日。
なんとその相手は、とっくに見知っていた女性の中に、上手く隠れていたのだと判明した。
「……決めた!!」
思わず心の内を声に出してしまい、すれ違う何人かがエミリオを振り返った。
(……っと)
エミリオは慌てて口をつぐみ、緩みかけていた口元を引き結ぶ。
全く。これではもう、デリクの浮かれぶりを、からかえなくなるというものだ。
(強敵そうだが……ま、やってみるさ)
エミリオは29歳の誕生日をもう迎えてしまったから、本来ならあと数ヶ月以内に妻を決めなくてはならない。
しかし、役所で簡単な手続きをして金貨5枚の罰金を払えば、一年間の婚期延長が三回まで認められるのだ。
なかなかの大金ではあるが、これから先の人生を幸せなものにする投資となら、ぜひともかける価値がある。
妥協して適当な相手と結婚するのは御免だ。相手にもこんな失礼なことはない。
早く嫁を見せてくれとせっつく伯母には申し訳ないが、金貨五枚を払って婚期を一年延長しようと、エミリオは決意した。
来年のシーズンまでにも、夜会は年間を通して細々と開かれ、ベリンダと会う機会も何度かあるはずだ。
―― ベリンダ嬢! 次の夜会で会うのが楽しみです、俺は貴女を落とせるよう、全力で挑みますからね!
夕暮れの街の中。
長年探していた獲物をようやく見つけた猟犬魔術師は、脳裏に浮ぶ強気で可憐な男爵令嬢へ、高らかに宣言した。
終
ベリンダは別邸の私室にて寝込んでしまっていた。
原因は、海よりも深い自己嫌悪である。
昨夜は自分のみならず、大好きな双子の姉ウルリーカまで、危うく命を落とす所だった。義兄のデリクも大怪我を負い、姉の可愛がっていた猫も酷い目にあった。
デリクが言うに、猫はどうやら生きているらしいものの、怪我は深かったはずだ。
いくら相手がとんでもない古狸だったとはいえ、あんなに大勢の人がいる夜会で、なぜ自分は易々と罠にかけられてしまったのか。
貴族の社交場では、悪意や下心を持って近づく輩もいる。それを十分に承知していたのに、用心が足りなかったのではないか?
もっと気をつけていれば、回避する道はあったかもしれないのにと、後悔が次々に浮んでくる。
がっくりと気力が根こそぎ砕けてしまい、しゃべるのも億劫なほど身体中が重苦しい。
不幸中の幸いだったのは、母は違う理由から寝込んでいたために、娘達に起きた事件に、気付きもしなかったことだ。
父も別邸には来ていないので、魔術師団長から事情を聞いたのは家令だった。
そして男爵家に長年仕えてくれている家令は、母には体調を慮るという口実で何も伝えず、ベリンダが出席予定だった残り少ないシーズンの催しには全て欠席の手配をとり、ゆっり休むように勧めてくれたのだ。
(はぁ……)
ベリンダは薄く目を開けて、暗く静かな部屋の天井を見上げた。
昼下がりの空はよく晴れて、今日は絶好の散歩日和だそうだが、カーテンを開ける気にもなれなかった。
枕に頭を乗せても眠れず、昨日からずっと、ひたすら目を瞑って横たわっているだけ。
食欲もまるで無く、何も食べないベリンダを心配したメイドが、昼食に好物を色々と用意してくれたので、プディングをやっと一口だけ食べた。
日頃から、我侭な母によく仕えてくれている使用人たちに、ベリンダはきちんと感謝の念というものを持っている。
次期当主の身としても、あまり情けない姿を見せて彼らに心配をかけたくないのだが、どうしても気分は沈んだままだ。
頭の中に灰色の霧が渦巻いているようで、暗い後悔ばかりがこみ上げる。
一体、これからどうすればいいのかも解らず、目を閉じてじっとしていると、やがて扉が控えめにノックされた。
返事をすると、困惑した様子のメイドが寝台の傍まで来て、声を潜めて囁いた。
「ウルリーカ様が、ベリンダ様のお見舞いにと、いらっしゃったのですが……」
双子の姉の訪問は、ベリンダを十分すぎるほど驚かせた。
ここはウルリーカにとって実家の一部だし、彼女が夫と暮らす屋敷からも近い。本来なら訪ねてきても驚くことは何もないのだ。
だが、ウルリーカはこのシーズン中にも、一度もこの別邸を訪れることはなかった。
自業自得で寝込む羽目になった母は、あくまでも自分の非を認めず、あの夜会でウルリーカがもっと自分を弁護するべきだったのにと嘆き、腹を立てているからだ。
もっとも、使用人達はベリンダから事の真相を聞いているし、元からウルリーカを好いてもいる。本当に悪いのはどちらか、周囲はちゃんと知っているのだ。
それでもウルリーカは、もうこれ以上は母と話す気もないらしい。
いくら付き合っても、相手がこれより良くなるとは欠片も期待できないと判断し、全く関わらない事を選んだ。
本当に見捨てられるというのは、こういう事なのだろう。
もう姉は、何か特別な用事でもない限り、ここにも実家にも足を踏み入れることはないと思っていたのに……。
「私は大丈夫だから、すぐに通してちょうだい」
ベリンダは慌てて寝台に上体を起こし、寝巻きの肩にショールを羽織る。
ほどなく現れたウルリーカは、柳で出来た大きめのバスケットを抱えており、寝台の妹を痛ましげに見つめた。
「もしかして、気を落としているんじゃないかと思って……」
ウルリーカはそう言い、メイドが寝台の隣へ用意した椅子に腰をかけた。バスケットは相当大切なものを入れているのか、床ではなく膝に乗せて抱えている。
咄嗟に上手い返答が出来ず、ベリンダが押し黙っていると、ウルリーカは困ったように微笑んだ。
「ベリンダは何も悪くないと、魔術団長様もおっしゃっていたじゃない。それにヴィントだって、ほら」
ウルリーカがバスケットの蓋を外すと、燃えるような赤毛の猫が、ピョコンと顔を突き出した。
「あっ!」
ベリンダは思わず大声をあげそうになり、慌てて口を押さえた。
部屋の壁はそう薄くないが、何しろ隣室には母がいるのだ。
「デリク様もベリンダを心配して、ヴィントの無事な姿を見せられるようにと、預かってきてくれたの」
ウルリーカはにっこりと微笑み、赤毛猫を抱き上げるとバスケットを床に置き、声を潜めて囁いた。
「痛かったわよね……本当に、ごめんなさい」
ベリンダが震える声で呟くと、赤毛猫は前足を伸ばしてベリンダの手をポンと叩いた。
その仕草に、猫からまで励まされてしまったように感じた。
義兄のデリクからも昨日、猫が無事だとは教えられていたが、ふわふわした毛皮つきの、暖かい小さな前足に触れ、ようやく心から安堵できた。
「っ……ウルリーカにも、この子にも、一生許して貰えなくても仕方ないのに……」
鼻の奥がツンとして、ベリンダは小さくしゃくりあげた。
ウルリーカは自分を責めたりなどしないと、十分に承知している。
昔から姉は、お人よし過ぎるほど優しい人だ。
しかし、今にして思えば、ウルリーカが本当に優しくなったのは、デリクと出会うきっかけとなった、王宮の夜会を経てからだったような気もする。
それまでも姉は、確かに控えめで気配りのできる少女だったが、それは優しさと言うよりも、周囲にひたすら遠慮して息を潜めていたようだった。
だからその頃、何でもベリンダを優先して譲ってくれる姉に、本当は嫌われているのではないかと、薄々勘付いてはいたのだ。
目尻に涙を滲ませるベリンダへ、ウルリーカが苦笑した。
「どうしても気になるなら……ベリンダは昔、私の意地悪を許してくれたでしょう? これでお相子ということで良いかしら?」
「なにそれっ!? 子どもの嫌がらせと、命にかかわる大事件じゃ、天秤が釣り合わなすぎるわよ」
思わず呆れて、そう言ってしまったが、ウルリーカはきっぱりと首を振る。
「時間分の利息がついたと思ってくれればいいわ」
そう言った姉の顔は真剣そのものだった。
どうやら大昔のささやかな意地悪は、姉の喉へ小骨のように引っ掛かり続けていたらしい。
結局、それ以上ゴネても逆にウルリーカを困らせてしまいそうだったので、ベリンダはまだ多少の罪悪感を覚えながらも、引き下がらせてもらう事にした。
赤毛猫はウルリーカの膝の上で、そんな二人を満足そうに眺めている。
「ところで、この子を助けてくれたのは、誰なのかしら?」
ようやく気を取り直したベリンダは、手を伸ばして艶やかな赤毛を撫でると、気になっていたことを尋ねた。
「そ、それが……お名前はわからないそうなのよ……」
ウルリーカは困惑した様子で、膝に乗せた赤毛猫へと視線を下ろして話し始めた。
彼女がデリクから聞いた所によると、フェダーク子爵邸に不審な防音結界が張られていると、王宮に伝令魔法で匿名の通報があったらしい。
伝令魔法の形は人それぞれ違うので、送り主は簡単に特定できるのだが、魔法を二重に駆使することにより、雀に変化させて本来の形を隠すことも出来る。
王宮に寄越された伝令魔法も、そうして雀の形に変えられていたそうだ。
デリクが子爵邸に駆けつけた時、屋敷の前には猫だけがいて、傷は治癒魔法で塞がれていたという。
「だから、お義兄さまや兵たちが、あんなに都合よく来たのね」
もう一つの疑問が晴れて、ベリンダは頷いた。
考えてみれば、あそこは貴族の別邸が、特に集中している通り。
今、国中で最も魔法使いの集まっている場所なのだ。
発見者は、面倒に巻き込まれるのは御免だと思っても、せめて猫の治癒と匿名の通報をしてくれたのだろう。
「親切な人がいて、助かったわね」
ベリンダが言うと、ウルリーカの膝に大人しく納まっている猫は、同意するようにごく小さな声で鳴いた。二人がひそひそと話しているので、静かにしなくてはならないのと感じているのだろうか。
信じられないほど賢い猫だとは、ウルリーカに聞かされていたが、ベリンダは改めて感心した。
「ねぇ、私も少しだけ、ヴィントを抱いても良いかしら?」
ベリンダが一番好きなのは賢い大型犬だが、こんなに賢く可愛らしい猫ならば、つい抱きたくもなる。
「え!? ええと……ヴィント、どうかしら?」
ところが、やけにうろたえたウルリーカが赤毛猫に話し掛けると、猫は途端に、ふいっとベリンダから顔を逸らしてしまった。
さらに、ウルリーカの胸元へグリグリと頭を擦り付けつつ、ベリンダにチロッと流し目をくれて『すみませんね、俺は彼女専用なので』と言わんばかりに、パタンと尻尾を振って見せる。
―― え。なんなの、この見せつけられている感……。
ベリンダが唖然としていると、顔を真っ赤にしたウルリーカは、そろそろこの子を返さなくては……とモゴモゴ呟き、赤毛猫をバスケットに押し込んで帰ってしまった。
後に残されたベリンダは、しばし茫然としていたものの、気付けば先ほどまでの息苦しさは、嘘のように引いていた。
寝台から起き上がってカーテンを勢いよくあける。
薄く金色がかった夕刻の陽射しが王都を美しく照らし、屋敷の前から、ウルリーカを乗せた辻馬車が遠ざかっていくのが見えた。
ベリンダは窓から離れると、奥の衣裳部屋で普段使いの楽なドレスに着替えた。
「ベリンダ様、起きて宜しいのですか?」
鏡台に座って髪を梳かしていると、お茶のカップを片付けにきたメイドが驚きの声をあげた。
「ええ。ウルリーカのお見舞いのおかげで、すっかり元気になれたわ。少し庭に出て、外の空気でも吸おうかと思って」
「それはようございました」
ホッとした様子のメイドに、ベリンダもようやく笑顔で返事ができるようになった。
「お夕食はちゃんと頂くわね。とってもお腹が空いているから、多めにしてくれると嬉しいわ」
「はい! できるだけ急ぐようにコックへ伝えます」
メイドは嬉しそうに言うと、お盆を抱えて部屋を出て行き、ベリンダも夕食まで庭で過ごすことにした。
この別邸は、シーズンや王都に何か用事があった時に使うだけだが、管理人を雇っているので庭も手入れが行き届いている。
丁寧に刈り込まれた植え込みが庭を囲む垣根となっており、足元の花壇には夏の花が咲きみだれていた。
男爵家の次期当主として、本来なら社交にもっとも忙しいはずのシーズンの暮れに、一人でのんびりと花を眺めているなど、不思議な気分だった。
ぼんやりと足元の花壇を眺めて歩くうちに、ベリンダはいつのまにか、表門の傍まで出てしまっていた。
通りを一本向こうに行けば、賑やかな繁華街となるのだが、広めの屋敷が並ぶこの通りには、その喧騒も届かない。
周囲には他に人影もなく、近隣の屋敷からは夕食の準備をしているらしい音が聞こえ、食べ物の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
朝からろくに食べていない胃袋を刺激され、ベリンダのお腹が小さく鳴った。
(やだ。誰もいなくて良かった……)
ベリンダは頬を赤くして腹を押さえ、屋敷の中に戻ろうと踵を返した。
その時だった。
「ベリンダ嬢、もうお身体は大丈夫ですか?」
不意に後から聞こえた男の声に、ベリンダはぎょっとして振り向く。
誰もいないと思っていたのに、ちょうど死角の位置にいたのだろうか。
いつのまにか垣根のすぐ向こうには、少しくすんだ金髪を短く刈った、背の高い青年が立っていた。えんじ色のローブを着ているということは、王宮での勤め帰りかもしれない。
昨日、自分を抱き上げて運んでくれた宮廷魔術師の青年の姿に、ベリンダはしばし絶句して立ち尽くした。
「―――っ!! いっ、今の……」
あなた今、私のお腹が鳴ったのを聞いちゃった!? もしそうなら、すぐさま忘れてっ!!
……と、思わず襟首を掴んで詰め寄りたい衝動にかられた。
「今の?」
だが幸いにも、首をかしげる彼には、なにも聞こえていなかったようで、ベリンダは慌てて首を振る。
「いっ! いいえ、何でも無いありませんわ! いきなり声をかけられたので、少し驚いて……」
必死に平静を装って答えると、長身の宮廷魔術師は苦笑して軽くお辞儀をした。
「見舞いを届けにきたのですが、お顔を見られるとは思わなかったので、つい」
小ぶりの可愛らしい花束を、垣根越しに差し出された。
「えっ……あ、ありがとう……ございます……」
ベリンダはしどろもどろに礼を言って花束を受け取り、できるだけ隠すように掲げ持った。
何しろ、ほんの少し外の空気を吸うだけのつもりで、誰かに出くわすなんて思ってもいなかった。髪もきちんと結っておらず、白粉すらはたいていない。
(っ……しかもこの人、ずっと私を避けてたのに! 見舞いに来るなんて、どうしちゃったのよ!?)
可憐な花々の隙間から見える宮廷魔術師のエミリオ・カロウスに、ベリンダは胸中に叫ぶ。
昨日、放心状態から覚めて、怪我をした自分を抱きかかえているのが彼だと気付いた時は驚愕したものだ。
エミリオとは、以前から夜会で何度か顔を合わせていたものの、一度も会話をした事はなかった。
彼はただでさえ上背があるし、いつも数人の華やかな女性に囲まれていたから、自然と目につく。
宮廷魔術師という職は、有能な者と証明されているも同然だ。
現在の女王アナスタシアは、自分と行動を共にする事の多い宮廷魔術師の選別には、特に厳しい。
面接と最終試験は女王が自ら行い、いくら名家の出でも、無能者は決して据えないと有名なのだから。
その難関な宮廷魔術師であり、さらに凛々しい顔立ちに長身と、見た目も申し分ないとなれば、女性に放って置かれないのも当然だった。
別に、それが悪いとは言わない。
ベリンダとて、エミリオの見た目はとても良いと思う。
ただ、夜会でいつも彼は、大勢の女性にチヤホヤされてとても楽しそうだったから、そういうのを好むなら、自分とは合わなそうだなと思い、特に話し掛けたりはしなかった。
そして恐らく、彼の方でもベリンダを苦手と見ていたのだろう。
何度か近くで目が合ったこともあるのに、一度も話し掛けようとはしなかったから。
ベリンダも、夜会では多くの男性と会話をするし、誘われればダンスの相手もする。
だがそれは、あくまで社交的なマナーとしてだ。
チュレク男爵家がいくら裕福だとしても、あくまでも爵位は下位である。他家とも上手くやっていかなければ、たちまち貴族社会のつまはじきとなり、事業も厳しくなってしまう。
ベリンダには次期当主として、社交面で家の顔を守る義務があるのだ。
なので、多少は苦手な相手にも、愛想よく振る舞うようにはしているものの、さすがに限度はあった。
下心丸出しで暗がりに連れ込もうとしてくる男を、こっぴどく振ったのは、一度や二度ではない。
その男たちは悔し紛れに、ベリンダを『高飛車令嬢』と、謗ったものだ。
美貌と実家の裕福さを鼻にかけ、幾多の男を弄んでは捨てた悪女だと、一部ではそう囁かれていることも知っている。
しかし、ろくでもない男に弄ばれるくらいなら、陰口の方がよほどマシというもの。
それに心ある人たちは、ベリンダときちんと会話をしてくれ、噂が根も葉もない誹謗中傷だと理解してくれる。
だから、もしエミリオがベリンダを悪女と信じて嫌悪しているとしても、勝手に信じさせておけば良いと思った。
彼に熱をあげるご令嬢は多くても、ベリンダは特に興味を持てなかったから。
―― なのに今。彼を前にして、ベリンダの心臓は、壊れそうなほど動悸を速めていた。
昨日、ベリンダは初めて彼に言葉をかけられた。
ほんの数言で、怪我人を労わる常套句のようなものだったが、ベリンダを運ぶ腕は慎重で優しかったし、真剣にこちらを案じてくれているのが、しっかりと伝わってきた。
初めて見た宮廷魔術師としての彼は、夜会で遠目に眺めていた時の軽薄そうな印象とは大違いで、不当な評価を決め付けていたのは自分の方だったのかもしれないと反省した。
それを思い出し、頬が熱くなっていく。
それでも、彼がベリンダに親切な態度だったのは、あくまで仕事だからだと思っていた。
こうしてわざわざ見舞いに来てくれるなど、全くの予想外。
胸の奥がきゅうと締め付けられるような気がして、小さな花束を持つ両手が震えてしまう。
男性から花を貰うなんて、それこそ日常茶飯事なのに……。
(こ、この人だって、女性に花束なんか日ごろから渡し慣れているわよ! もしかしたらお見舞いも、宮廷魔術師として、仕事の一環なのかもしれないし……)
心の中で、必死に自分へ言い聞かせ、ベリンダはできるだけ顔を隠しながら、そろそろと後すさり始めた。
「も、申し訳ありませんが、少し体調が……また熱が出てしまったようですので……っ、これにて失礼いたしますわごきげんようエミリオ様!!」
最後の方は、息継ぎもせずに早口で叫び、ベリンダは屋敷の中へと駆け込んだ。
「ベリンダ様、どうかなさいましたか!?」
驚いて奥から飛び出してきたメイドに、冷や汗まじりの笑みを浮かべて見せる。
「ちょっと、思わぬ相手に会っただけよ。何でもないわ」
「そうですか……あら、綺麗な花束ですこと」
ベリンダの手にしている花束に、メイドが目を留めた。
「……そうね」
改めて花束を眺め、ベリンダも思わず呟いた。
花束は決して大きくはなかったが、数種類の色鮮やかな花々から、包装紙にリボンまでどれも上質なものだ。そして花の組み合わせも、非常に絶妙で美しかった。
花束を日頃から貰い慣れているベリンダだからこそ、この花束の価値をより理解できた。
「ベリンダ様、お食事の用意が出来ておりますよ。このお花は、さっそくお部屋に飾ってまいりますね」
「ええ」
ベリンダは頷いたものの、食堂にすぐ向わず、花束を持って二階に上がって行くメイドの後ろ姿を、しばらく見送っていた。
エミリオに、夜会でまた顔を会わせてしまったら、果たして自分は平然としていられるだろうか……。
(っ……いられるに決まっているじゃない! 今日は体調が悪かっただけで、今度はもっとまともに会話して見せるわ! 絶対に話しかけるから、待っていなさい!)
ベリンダは真っ赤に火照った頬を両手でぺちぺちと叩き、脳裏に浮ぶ長身の魔術師へ、キッと挑むのだった。
***
―― 一方で、男爵家の別邸を後にしたエミリオは……。
(やば……なんだあれ、可愛すぎるだろ)
早足で繁華街を歩きつつ、自然とニヤけてきてしまう口元を、慌てて片手で覆った。歩き慣れた石畳の道を、エミリオの足はやけにウキウキとした調子で踏む。
ベリンダ・チュレク男爵令嬢ならば、あんな小さな花束より、はるかに豪華な花束や贈り物を貰いなれているだろう。
てっきり、ツンとすました顔でソツなく受け取ると思っていたのに……。
頬を染めてうろたえていた可愛らしい姿が、目にしっかりと焼きついて離れない。
ベリンダが鼻持ちならない高飛車女など、陰口を真に受けたりはしなかったが、それでも夜会で見かける彼女は、いつも大勢の男をかしずかせた派手な女性で、エミリオからすれば容姿はともかく、苦手なタイプに見えた。
以前に彼女が夜会で、なりふり構わず姉の窮地を救ったと聞いた時は感心して好感を持ったが、その気持ちは恋愛感情とは少し違う。
今日の見舞いだって、求愛とかそんな甘いものじゃない。
子爵邸事件のように凄惨な状況では、大の男だって泣き喚いてパニック状態に陥っても不思議ではないのに、彼女は姉と共に窮地を乗り越えた。
最終的に百足を倒したのは、デリクや魔術師たちだが、彼女たちがしっかりしていなければ、助けが来る前に死体となっていただろう。
だから花束に込めた気持ちは恋愛感情ではなく、勇敢な健闘を称える賞賛だった。
それに彼女の方でも、以前からエミリオへ、あまり好感を抱いていないようだと感じていた。
夜会でたまに目が合ったりすると、すぐ背けられてしまうし、彼女の自分を見る目には、なんとなく『軽薄男』と書かれているような気がするのだ。
そして多分それは、思い違いではないはずだ。
エミリオは探査魔法が得意なことから、『猟犬魔術師』などというあだ名をつけられているが、魔法だけでなく生まれつきに勘も鋭かった。
特に、どんなに上手く取り繕われようと、相手が自分をどう見ているかなどは、すぐに感じ取れる。
そんなエミリオを、親友のデリクは「鼻が利く」と、評価するのだ。
だから今日も本当は、本人には会わず、玄関先で使用人に花束だけ渡すだけのつもりだった。
けれど、男爵家の別邸に着いたら、庭先にはいつも見かける派手な女ではなく、穏かな微笑みを湛えた可憐な女性がいて……つい、そのまま声をかけてしまったのだ。
(っ……まったく……いつもと全然違うんだもんなぁ)
さっきのベリンダは、今までに出会った女性の中で断トツに可愛らしかったと、エミリオは胸中で頷く。
エミリオの父は、まだ三人の子どもが幼いうちに亡くなった。
伯母であるカロウス辺境伯の援助を受けられなければ、末端貴族の母は、とても子ども達を育てられなかっただろう。
カロウス辺境伯は非常に交友関係が幅広く、王都にも多数の知人がいる。エミリオが宮廷魔術師の試験に合格した時は大喜びしてくれ、各所に知らせ回った。
それでエミリオは、辺境から一人でこちらに出て来たものの、あちこちの家から夜会などの催し物によく呼ばれるのだ。
正直に言えば、夜会はそれほど得意でもなかったのだが、魔力の高いエミリオには、あの忌々しい婚姻期限がある。
お気に入りの甥が良い結婚相手を見つけられるように、多くの女性との出会いを設けてやりたいという、伯母の好意を無にするわけにもいかない。
そう思って、できるだけ色々な女性と会話をしたが、ある程度の好意は持てても、結婚したいとまで惹かれる女性には巡り会えずにいたのだ。
それが今日。
なんとその相手は、とっくに見知っていた女性の中に、上手く隠れていたのだと判明した。
「……決めた!!」
思わず心の内を声に出してしまい、すれ違う何人かがエミリオを振り返った。
(……っと)
エミリオは慌てて口をつぐみ、緩みかけていた口元を引き結ぶ。
全く。これではもう、デリクの浮かれぶりを、からかえなくなるというものだ。
(強敵そうだが……ま、やってみるさ)
エミリオは29歳の誕生日をもう迎えてしまったから、本来ならあと数ヶ月以内に妻を決めなくてはならない。
しかし、役所で簡単な手続きをして金貨5枚の罰金を払えば、一年間の婚期延長が三回まで認められるのだ。
なかなかの大金ではあるが、これから先の人生を幸せなものにする投資となら、ぜひともかける価値がある。
妥協して適当な相手と結婚するのは御免だ。相手にもこんな失礼なことはない。
早く嫁を見せてくれとせっつく伯母には申し訳ないが、金貨五枚を払って婚期を一年延長しようと、エミリオは決意した。
来年のシーズンまでにも、夜会は年間を通して細々と開かれ、ベリンダと会う機会も何度かあるはずだ。
―― ベリンダ嬢! 次の夜会で会うのが楽しみです、俺は貴女を落とせるよう、全力で挑みますからね!
夕暮れの街の中。
長年探していた獲物をようやく見つけた猟犬魔術師は、脳裏に浮ぶ強気で可憐な男爵令嬢へ、高らかに宣言した。
終
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