雪の記憶は君のもの

あめのあられ

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第一章

白い花 ※ノク

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 冷たい空気が肺に入り、思わず咳き込む。
 俺の様子を見ていたリセルが、不安そうに眉をひそめた。大丈夫だと伝えるように、軽く手を振る。

 体はまだ思うように動かないが、じっとしていると落ち着かなかった。
 何か手伝えることはないかと声をかけ、薪割りを任せてもらうことにした。

 斧を振るたびに、余計な思考が静まっていく。
 体を動かしていると、胸の奥で渦巻いていた不安や焦りが、少しだけ遠ざかっていく気がする。

 窓の向こうでは、リセルが本を読んでいた。
 机に身を乗り出すようにして、指先で丁寧にページをめくっている。肩にかかる銀色の髪が、隙間風に揺れ、陽の光を受けてところどころ淡く光っていた。

 その横顔にはまだ幼さが残る。でも、瞳の奥に見える静かな意志が、彼女の年齢を忘れさせる。
 何かを見つけたのか、菫色の瞳がぱっと輝いた。

 あの日、目を覚ましたときも、彼女はその瞳で俺を覗き込んでいた。
 覚えているのは、冷たい空気と薬草の匂い、そしてあの好奇心に満ちた瞳。それが、俺の最初の記憶だった。
 リセルは名前をくれて、過去を失った俺をそのまま受け入れてくれた。
 その優しさが、どれほど俺を救ったか……たぶん、彼女は知らない。

 リセルは、自分の美しさに気づいていない。
 飾り気もなく、服装も質素だけど、それでも隠しきれないものがある。
 この厳しい土地で、真っ直ぐに生きる姿が、胸に焼きついて離れない。
 よく食べて、よく笑って、ときどき寂しそうに目を伏せる。
 そんな小さな表情ひとつひとつが、静かに心に積もっていく。

 飾らない真っ直ぐさが、美しいと思う。それは見た目だけじゃない。
 ただひたむきにここで生きている彼女の存在そのものに、心が惹かれる。
 でも、それに気づくのは俺だけでいい。他の誰にも、知られたくない。

 つい目で追いすぎて、慌てて視線を逸らした。
 しばらくしてもう一度窓の方を見ると、リセルもこちらを見ていた。
 目が合って、お互いにしばらく動けない。
 その静かな時間に、胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じた。

 作業を終えて戻ると、リセルが薬草茶を淹れてくれていた。
 湯気とともに立ちのぼる香りに、記憶の底がわずかに揺れる。ああ、初めてここで目覚めたときに感じた香りはこれだったのか。

「ありがとう、ノク。おつかれさま」

 彼女がそう言ってカップを差し出す。落とさないように両手でそれを受け取った。

「……ありがとう」

 隣で湯をふーふーと冷ますリセルの横顔を、こっそり見た。
 その仕草が子どもみたいで、思わず笑いそうになる。

「熱くない?」

「ちょうどいい。……いい香りがするな」

「これは頭がすっきりするから、疲れたときにいいんだよね」

「リセルは、いろんなことをよく知ってるんだな」

「ううん、まだまだだよ。おばあちゃんがたくさん教えてくれたの。でも全部は覚えきれなくて、まだ勉強中」

「それでも、すごいよ」

 ふと口をついて出た言葉に、リセルは少し照れたように笑った。
 その笑顔に、胸の奥が小さく、とくんと鳴る。目を離せなくなって、言葉が出てこなくなった。

 沈黙は、俺にとって安心できる場所だった。
 記憶のない今、無理に言葉を重ねることが、何かを壊しそうで怖かった。
 でもリセルは、無理に聞いてこない。ただそっと隣にいてくれる。

 俺は過去にも、こんなふうに誰かと過ごしたことがあったのだろうか。
 記憶はないのに、なぜかそんな誰かはいなかったと分かる気がする。
 たぶん、リセルが特別なんだ。

 夜になると、いろいろな思いが頭に浮かんでくる。
 そんなとき、リセルは必ずそばに来て、心配そうな目で俺を覗き込む。
 その存在に、どれだけ救われているか言葉にできない。

「おやすみ、ノク」

「おやすみ」

 リセルの声を聞きながら、毛布をかぶって目を閉じた。
 小さくなった暖炉の火が、静かに揺れている。

 その夜、夢を見た。
 暗い夜道、剣と剣がぶつかる音、血の匂い。
 誰かが俺を庇って倒れる。
 振り返ることもできず、ただ必死に走っていた――

「ノク!」

 体を揺さぶられて、目が覚める。
 ひどく息が乱れていて、汗で背中が冷たい。
 ここがどこなのか、すぐにはわからなかった。

「ノク? 大丈夫?」

 リセルの声がする。肩に触れられた瞬間、体が反射的に跳ねた。
 でもその手のぬくもりで、ゆっくりと現実の感覚が戻ってくる。

「……俺は……」

 言葉にならず、頭を抱える。
 記憶が、一気に洪水のように押し寄せてきた。
 自分の過去――そのすべてを思い出した。

「大丈夫。ここには、私しかいないから」

 「ね?」とリセルが言って、俺の手を握ってくれる。
 小さな手は震えていたけれど、そのぬくもりには、俺を気づかう優しさが滲んでいた。
 それがじんわりと胸に広がっていく。

 俺は、この手を離したくないと思った。

「……リセルがいれば、それでいい」

 自然と口にしていた。
 言った瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。

 この場所で、リセルと穏やかに暮らしたい。
 すべてを捨てても、ここにいたい。

 ――でも、それが本当に許されるのだろうか。
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