6 / 7
第一章
白い花 ※ノク
しおりを挟む
冷たい空気が肺に入り、思わず咳き込む。
俺の様子を見ていたリセルが、不安そうに眉をひそめた。大丈夫だと伝えるように、軽く手を振る。
体はまだ思うように動かないが、じっとしていると落ち着かなかった。
何か手伝えることはないかと声をかけ、薪割りを任せてもらうことにした。
斧を振るたびに、余計な思考が静まっていく。
体を動かしていると、胸の奥で渦巻いていた不安や焦りが、少しだけ遠ざかっていく気がする。
窓の向こうでは、リセルが本を読んでいた。
机に身を乗り出すようにして、指先で丁寧にページをめくっている。肩にかかる銀色の髪が、隙間風に揺れ、陽の光を受けてところどころ淡く光っていた。
その横顔にはまだ幼さが残る。でも、瞳の奥に見える静かな意志が、彼女の年齢を忘れさせる。
何かを見つけたのか、菫色の瞳がぱっと輝いた。
あの日、目を覚ましたときも、彼女はその瞳で俺を覗き込んでいた。
覚えているのは、冷たい空気と薬草の匂い、そしてあの好奇心に満ちた瞳。それが、俺の最初の記憶だった。
リセルは名前をくれて、過去を失った俺をそのまま受け入れてくれた。
その優しさが、どれほど俺を救ったか……たぶん、彼女は知らない。
リセルは、自分の美しさに気づいていない。
飾り気もなく、服装も質素だけど、それでも隠しきれないものがある。
この厳しい土地で、真っ直ぐに生きる姿が、胸に焼きついて離れない。
よく食べて、よく笑って、ときどき寂しそうに目を伏せる。
そんな小さな表情ひとつひとつが、静かに心に積もっていく。
飾らない真っ直ぐさが、美しいと思う。それは見た目だけじゃない。
ただひたむきにここで生きている彼女の存在そのものに、心が惹かれる。
でも、それに気づくのは俺だけでいい。他の誰にも、知られたくない。
つい目で追いすぎて、慌てて視線を逸らした。
しばらくしてもう一度窓の方を見ると、リセルもこちらを見ていた。
目が合って、お互いにしばらく動けない。
その静かな時間に、胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じた。
作業を終えて戻ると、リセルが薬草茶を淹れてくれていた。
湯気とともに立ちのぼる香りに、記憶の底がわずかに揺れる。ああ、初めてここで目覚めたときに感じた香りはこれだったのか。
「ありがとう、ノク。おつかれさま」
彼女がそう言ってカップを差し出す。落とさないように両手でそれを受け取った。
「……ありがとう」
隣で湯をふーふーと冷ますリセルの横顔を、こっそり見た。
その仕草が子どもみたいで、思わず笑いそうになる。
「熱くない?」
「ちょうどいい。……いい香りがするな」
「これは頭がすっきりするから、疲れたときにいいんだよね」
「リセルは、いろんなことをよく知ってるんだな」
「ううん、まだまだだよ。おばあちゃんがたくさん教えてくれたの。でも全部は覚えきれなくて、まだ勉強中」
「それでも、すごいよ」
ふと口をついて出た言葉に、リセルは少し照れたように笑った。
その笑顔に、胸の奥が小さく、とくんと鳴る。目を離せなくなって、言葉が出てこなくなった。
沈黙は、俺にとって安心できる場所だった。
記憶のない今、無理に言葉を重ねることが、何かを壊しそうで怖かった。
でもリセルは、無理に聞いてこない。ただそっと隣にいてくれる。
俺は過去にも、こんなふうに誰かと過ごしたことがあったのだろうか。
記憶はないのに、なぜかそんな誰かはいなかったと分かる気がする。
たぶん、リセルが特別なんだ。
夜になると、いろいろな思いが頭に浮かんでくる。
そんなとき、リセルは必ずそばに来て、心配そうな目で俺を覗き込む。
その存在に、どれだけ救われているか言葉にできない。
「おやすみ、ノク」
「おやすみ」
リセルの声を聞きながら、毛布をかぶって目を閉じた。
小さくなった暖炉の火が、静かに揺れている。
その夜、夢を見た。
暗い夜道、剣と剣がぶつかる音、血の匂い。
誰かが俺を庇って倒れる。
振り返ることもできず、ただ必死に走っていた――
「ノク!」
体を揺さぶられて、目が覚める。
ひどく息が乱れていて、汗で背中が冷たい。
ここがどこなのか、すぐにはわからなかった。
「ノク? 大丈夫?」
リセルの声がする。肩に触れられた瞬間、体が反射的に跳ねた。
でもその手のぬくもりで、ゆっくりと現実の感覚が戻ってくる。
「……俺は……」
言葉にならず、頭を抱える。
記憶が、一気に洪水のように押し寄せてきた。
自分の過去――そのすべてを思い出した。
「大丈夫。ここには、私しかいないから」
「ね?」とリセルが言って、俺の手を握ってくれる。
小さな手は震えていたけれど、そのぬくもりには、俺を気づかう優しさが滲んでいた。
それがじんわりと胸に広がっていく。
俺は、この手を離したくないと思った。
「……リセルがいれば、それでいい」
自然と口にしていた。
言った瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
この場所で、リセルと穏やかに暮らしたい。
すべてを捨てても、ここにいたい。
――でも、それが本当に許されるのだろうか。
俺の様子を見ていたリセルが、不安そうに眉をひそめた。大丈夫だと伝えるように、軽く手を振る。
体はまだ思うように動かないが、じっとしていると落ち着かなかった。
何か手伝えることはないかと声をかけ、薪割りを任せてもらうことにした。
斧を振るたびに、余計な思考が静まっていく。
体を動かしていると、胸の奥で渦巻いていた不安や焦りが、少しだけ遠ざかっていく気がする。
窓の向こうでは、リセルが本を読んでいた。
机に身を乗り出すようにして、指先で丁寧にページをめくっている。肩にかかる銀色の髪が、隙間風に揺れ、陽の光を受けてところどころ淡く光っていた。
その横顔にはまだ幼さが残る。でも、瞳の奥に見える静かな意志が、彼女の年齢を忘れさせる。
何かを見つけたのか、菫色の瞳がぱっと輝いた。
あの日、目を覚ましたときも、彼女はその瞳で俺を覗き込んでいた。
覚えているのは、冷たい空気と薬草の匂い、そしてあの好奇心に満ちた瞳。それが、俺の最初の記憶だった。
リセルは名前をくれて、過去を失った俺をそのまま受け入れてくれた。
その優しさが、どれほど俺を救ったか……たぶん、彼女は知らない。
リセルは、自分の美しさに気づいていない。
飾り気もなく、服装も質素だけど、それでも隠しきれないものがある。
この厳しい土地で、真っ直ぐに生きる姿が、胸に焼きついて離れない。
よく食べて、よく笑って、ときどき寂しそうに目を伏せる。
そんな小さな表情ひとつひとつが、静かに心に積もっていく。
飾らない真っ直ぐさが、美しいと思う。それは見た目だけじゃない。
ただひたむきにここで生きている彼女の存在そのものに、心が惹かれる。
でも、それに気づくのは俺だけでいい。他の誰にも、知られたくない。
つい目で追いすぎて、慌てて視線を逸らした。
しばらくしてもう一度窓の方を見ると、リセルもこちらを見ていた。
目が合って、お互いにしばらく動けない。
その静かな時間に、胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じた。
作業を終えて戻ると、リセルが薬草茶を淹れてくれていた。
湯気とともに立ちのぼる香りに、記憶の底がわずかに揺れる。ああ、初めてここで目覚めたときに感じた香りはこれだったのか。
「ありがとう、ノク。おつかれさま」
彼女がそう言ってカップを差し出す。落とさないように両手でそれを受け取った。
「……ありがとう」
隣で湯をふーふーと冷ますリセルの横顔を、こっそり見た。
その仕草が子どもみたいで、思わず笑いそうになる。
「熱くない?」
「ちょうどいい。……いい香りがするな」
「これは頭がすっきりするから、疲れたときにいいんだよね」
「リセルは、いろんなことをよく知ってるんだな」
「ううん、まだまだだよ。おばあちゃんがたくさん教えてくれたの。でも全部は覚えきれなくて、まだ勉強中」
「それでも、すごいよ」
ふと口をついて出た言葉に、リセルは少し照れたように笑った。
その笑顔に、胸の奥が小さく、とくんと鳴る。目を離せなくなって、言葉が出てこなくなった。
沈黙は、俺にとって安心できる場所だった。
記憶のない今、無理に言葉を重ねることが、何かを壊しそうで怖かった。
でもリセルは、無理に聞いてこない。ただそっと隣にいてくれる。
俺は過去にも、こんなふうに誰かと過ごしたことがあったのだろうか。
記憶はないのに、なぜかそんな誰かはいなかったと分かる気がする。
たぶん、リセルが特別なんだ。
夜になると、いろいろな思いが頭に浮かんでくる。
そんなとき、リセルは必ずそばに来て、心配そうな目で俺を覗き込む。
その存在に、どれだけ救われているか言葉にできない。
「おやすみ、ノク」
「おやすみ」
リセルの声を聞きながら、毛布をかぶって目を閉じた。
小さくなった暖炉の火が、静かに揺れている。
その夜、夢を見た。
暗い夜道、剣と剣がぶつかる音、血の匂い。
誰かが俺を庇って倒れる。
振り返ることもできず、ただ必死に走っていた――
「ノク!」
体を揺さぶられて、目が覚める。
ひどく息が乱れていて、汗で背中が冷たい。
ここがどこなのか、すぐにはわからなかった。
「ノク? 大丈夫?」
リセルの声がする。肩に触れられた瞬間、体が反射的に跳ねた。
でもその手のぬくもりで、ゆっくりと現実の感覚が戻ってくる。
「……俺は……」
言葉にならず、頭を抱える。
記憶が、一気に洪水のように押し寄せてきた。
自分の過去――そのすべてを思い出した。
「大丈夫。ここには、私しかいないから」
「ね?」とリセルが言って、俺の手を握ってくれる。
小さな手は震えていたけれど、そのぬくもりには、俺を気づかう優しさが滲んでいた。
それがじんわりと胸に広がっていく。
俺は、この手を離したくないと思った。
「……リセルがいれば、それでいい」
自然と口にしていた。
言った瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
この場所で、リセルと穏やかに暮らしたい。
すべてを捨てても、ここにいたい。
――でも、それが本当に許されるのだろうか。
21
あなたにおすすめの小説
マジメにやってよ!王子様
猫枕
恋愛
伯爵令嬢ローズ・ターナー(12)はエリック第一王子(12)主宰のお茶会に参加する。
エリックのイタズラで危うく命を落としそうになったローズ。
生死をさまよったローズが意識を取り戻すと、エリックが責任を取る形で両家の間に婚約が成立していた。
その後のエリックとの日々は馬鹿らしくも楽しい毎日ではあったが、お年頃になったローズは周りのご令嬢達のようにステキな恋がしたい。
ふざけてばかりのエリックに不満をもつローズだったが。
「私は王子のサンドバッグ」
のエリックとローズの別世界バージョン。
登場人物の立ち位置は少しずつ違っています。
【完結】今更、好きだと言われても困ります……不仲な幼馴染が夫になりまして!
Rohdea
恋愛
──私の事を嫌いだと最初に言ったのはあなたなのに!
婚約者の王子からある日突然、婚約破棄をされてしまった、
侯爵令嬢のオリヴィア。
次の嫁ぎ先なんて絶対に見つからないと思っていたのに、何故かすぐに婚約の話が舞い込んで来て、
あれよあれよとそのまま結婚する事に……
しかし、なんとその結婚相手は、ある日を境に突然冷たくされ、そのまま疎遠になっていた不仲な幼馴染の侯爵令息ヒューズだった。
「俺はお前を愛してなどいない!」
「そんな事は昔から知っているわ!」
しかし、初夜でそう宣言したはずのヒューズの様子は何故かどんどんおかしくなっていく……
そして、婚約者だった王子の様子も……?
女避けの為の婚約なので卒業したら穏やかに婚約破棄される予定です
くじら
恋愛
「俺の…婚約者のフリをしてくれないか」
身分や肩書きだけで何人もの男性に声を掛ける留学生から逃れる為、彼は私に恋人のふりをしてほしいと言う。
期間は卒業まで。
彼のことが気になっていたので快諾したものの、別れの時は近づいて…。
やさしい・悪役令嬢
きぬがやあきら
恋愛
「そのようなところに立っていると、ずぶ濡れになりますわよ」
と、親切に忠告してあげただけだった。
それなのに、ずぶ濡れになったマリアナに”嫌がらせを指示した張本人はオデットだ”と、誤解を受ける。
友人もなく、気の毒な転入生を気にかけただけなのに。
あろうことか、オデットの婚約者ルシアンにまで言いつけられる始末だ。
美貌に、教養、権力、果ては将来の王太子妃の座まで持ち、何不自由なく育った箱入り娘のオデットと、庶民上がりのたくましい子爵令嬢マリアナの、静かな戦いの火蓋が切って落とされた。
愛に死に、愛に生きる
玉響なつめ
恋愛
とある王国で、国王の側室が一人、下賜された。
その側室は嫁ぐ前から国王に恋い焦がれ、苛烈なまでの一途な愛を捧げていた。
下賜された男は、そんな彼女を国王の傍らで見てきた。
そんな夫婦の物語。
※夫視点・妻視点となりますが温度差が激しいです。
※小説家になろうとカクヨムにも掲載しています。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる