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第一話:Blue Beyond the Wake
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「あの、予約した佐伯清です。」
がやがやとした旅行客と思われる大きなスーツケースを抱えた人で溢れるターミナルの中、自分だけが異質だった。
「佐伯様ですね。本日は一等室をご利用ですね。」
受付の女性はニコリと愛想よく笑った。首に巻かれた水色のスカーフは、これから繰り出す大海のように爽やかだ。
「こちら、お部屋のカードキーです。フェリーのご利用は初めてですか?」
「はい。」
「注意事項が多いので、乗船前にこちらの紙を一読ください。乗船は出航の一時間半前の九時半から特等室より順番にお呼びしますので、しばらくロビーでお待ちください。」
フェリーなんて誰が乗るんだよ、と侮っていた。国際空港のロビーと遜色なく、たくさんの人で溢れている。意外にも若い観光客が目立つ。
僕は逃げ出してきた。
毎晩、悪夢にうなされる。
起き抜けの鏡に映る自分は、目の下に濃く隈を刻んだ色白の顔。もともと色素の薄い髪は、寝癖のせいで余計に頼りなく見える。細身の体は分厚いセーターに埋もれ、神経質な印象ばかりが残った。二十八歳にしてはひどい有様だった。世界が、灰色に見える。最低限に身なりを整え、社会的側面を保ち、最低限の食物を口にして何とか生きている。時々、ふと思うんだ。何のために生きているのか。まったく先のことなんて考えられなく、意味もなく涙が零れた。ああ、このままじゃだめだ。これまでの生活も思い出も、全部捨てて、僕のことを何も知らない父島へ行くことを決めたのだ。
偶然にも東京都の離島、父島高校の古典の教員に欠員が出たからだ。ふいに開いた自動扉からは、三月の冷気と潮の匂いが流れ込んでくる。寒さに俯いてコートの胸元を閉めると、一層周囲の音が不快に響く。幸せそうな家族、テンション高くはしゃぐ男女。
乗船が開始されると、僕は一目散に客室へ向かった。個室である、一等室を取って良かった。荷物もコートも床へ投げ出し、ベッドへ倒れ込む。丁度、ベッドの横には窓があり、東京のビル群とレインボーブリッジが遠くに見える。ここに、あの燃えるような恋心を置いていけないだろうか。人を好きになることが、こんなに辛いなんて知らなかった頃に戻りたい。思い出の蓋を閉じるように、そっとブラインドを下した。
ゆっくりと暗闇に沈む。浮上しようと抵抗を試みるも、僕の意に反してゆっくりと下降していく。
「清、違うんだ…これは…。」
一緒に暮らす恋人の達臣は、見たことがないくらいに動揺していた。
「達臣さんのお友達ですか。」
これが修羅場だなんて気が付きもしない、明るい声で一緒にいた女性は無邪気に僕に笑い掛けた。彼女の親し気な笑顔の横で、達臣は蒼白だった。
「あっ、私、達臣さんの彼女なんです。沙織って言います。」
達臣は油断していたのだろう。本来、僕は勤務中、学校の敷地外へ出ることはない。たまたま教頭に頼まれて、駅を挟んで裏側の図書館に用があったのだ。
駅構内の商業スペースを突っ切って歩いていると、最近できたカフェの窓際の席に、見慣れた黒髪を短く整えた長身の背中が見えた。あれ、今日は仕事だと聞いていたのに。私服姿の達臣を訝しく思った。
達臣は学生時代はバスケ部で、今は食品系商社の営業マン。明るくて気配り上手で、彼がいると場が和んだ。平日は忙しく、休日出勤の振替で不規則な休みをもらうことも多かったけれど、僕との時間を作るためにがむしゃらに働いて、土日の休みを捥ぎ取ってくれることもあった。
そんな彼が、僕に向ける笑顔と同じ顔で女の人とお茶をしているなんて、思ってもみなかった。
まさか達臣が浮気をするなんて、一ミリも疑っていなかった僕は、雷で打たれたような衝撃が走った。
僕達は上手くいっていた。高校卒業時から付き合いだして十年。ちょっとした喧嘩をする時もあったけれど、その都度折り合いをつけてきた。大人になって、熱烈に愛を囁く日々は過ぎ去ったが、穏やかな好意を感じていた。寝食を共にし、日常の小さな変化を一緒に感じながら、これからもずっと——————年月を重ねていくのだと思っていた。
「ごめん、清。俺は、普通に家庭を持ちたいんだ。ゆくゆくは子供も欲しいと思っている。」
躊躇いがちに告げられた達臣の願いは、到底僕には叶えてやれないものだった。
「別れて欲しい。」
「…普通って、何だよ。」
初めて本気で好きになった人が、達臣だった。愛する人に愛されることが、こんなにも幸せで満たされることなのだと教えてくれたのも達臣だった。この十年の思い出は、全て彼と共にあった。
子供は産んでやれないが、僕なりに築いてきた達臣との家庭だと思っていた。世間一般の尺度”普通”は、それよりも大切なものなのか。
「お前だって、そろそろ両親に結婚をせっつかれているだろ。今でも、清を愛している。でも、俺達の関係に先なんてないだろう。若気の至りで済ませられる時間は、もう終わったんだ。現実を見なきゃ。」
お互いに愛しているのに、どうして別れないといけないのだろう。達臣にとって、僕との十年は、若さゆえの過ちだったのか。グラグラと見えていた世界が崩れていくような感覚だった。それでも、「行かないで」と縋りつこうと手を伸ばすのに、達臣は冷めた目で僕を見下ろしていた。
「清だって、俺が初めての恋人なのだから、同性愛者だとは限らないのだろ?女だっていけるかもしれない。」
……はっ、なんだよ、今の。「女だっていける」?
その一言が、胸の真ん中にめり込んで、息ができなくなった。頭じゃなくて、身体の奥が反応した。心臓が、ぐしゃりと潰れたみたいに痛かった。
ああ、そうか。もう沙織と、そういうことをしたんだ。
僕には言わなかったくせに、言葉の端で、そうやって匂わせるのか。それが、達臣なりの「現実」なんだ。
ずるいよ。僕は、こんなに、達臣のことが好きなのに。毎日、あなたのためにご飯を作って、帰ってくる音を聞くたびに胸が高鳴って、寝顔を見るだけで明日も頑張ろうって思えたのに。
なのに。
「女だっていけるかもしれない」?そんな言葉で、僕との十年をまるごと、なかったことにしないで。
「清だって、そうすればいい」って、どうしてそんな顔で言えるの。達臣の代わりなんて、どこにもいないのに。
声が出なかった。喉がつかえて、何も言えなかった。唇が震えて、呼吸の仕方さえ、わからなくなった。ぐらぐらと視界が揺れて、涙が溢れた。
僕は、ただあなたを愛しただけなのに。何がいけなかったの。どうして、僕じゃ駄目だったの。
嗚咽が漏れる。声を殺しても、止められなかった。達臣がくれた十年を、僕は宝物みたいに抱きしめて生きてきたのに。あなたにとっては、そんなに軽いものだったの?
僕は……
僕は、今でも……
あなたを、愛してるのに。
心を鷲掴まれたような痛みを感じて目を開けると、達臣が見える。沙織と小さな男女の子供に囲まれて笑う幸せな家庭。燃えるような嫉妬心と怒り、破壊衝動が湧くのに、結局いつも踏みとどまる。悔しくて、悔しくて、堪らないのに、最後は達臣を愛しているから進めない。苦いものが込み上げてきて、窒息しそうになる。藻掻いても藻掻いても、ゆっくりと海底へ落ちていく。そこに広がる闇は、どこまで深いのか見当もつかない。
「まもなく父島へ入港いたします。」
丁度、二十四時間の航海が、まもなく終わりを迎える。僕はずっとベッドに横になって過ごした。と、言うのも船酔いが酷かったせいだ。「船体の大きな船は、揺れを感じないから平気らしい」と語った、元同僚を恨みたい。
眠っては悪夢に魘され目を覚まし、起きたら起きたで船酔いで嘔吐した。二十四時間で口にしたのは、経口補水液だけだった。体調は最悪の底を抜いている。
廊下からはフェリーを降りる為に歩く人々の足音と期待に満ちた楽し気な話し声が聞こえる。いつまでも船室に留まる訳にもいかず、手早く荷物をまとめるとコートを拾い、何とか他の船客の後に続いた。
デッキに出ると恐ろしい程に澄んだ海とサンゴ礁が輝いていた。夏のように真っ青な海に、からりと照り付ける太陽。渡し橋を降りると、港はごった返していた。
「民宿、はるみ屋のお客様ー!」
「ホテル サンビレッジ!」
各宿の係が、プラカードを高く掲げて宿泊客を誘導している。
島民の帰還を喜び、ガヤガヤと騒ぐ一団。
隣ではフェリーからのコンテナの積み下ろしが始まり、クレーンとリフト車のエンジンがけたたましい音を出していた。
えーっと、確か父島高校の先生が港まで迎えに来てくれて、独身寮まで案内してくれるはずだったな。目を凝らして見渡すが、それらしき人は見当たらない。お互いに初対面で、顔がわからないのだ。どうやって探せばいいのだろうか。あれ、もらった紙に相手の携帯番号でも書かれていただろうか?
港に降り立って、そっとリュックサックを降ろすと、気分が悪くなる。まだ船酔いが続いているのだろうか。地に足がついても船上のようにグラグラと揺れているのだ。
「おい、大丈夫か。」
咄嗟に伸びた腕に支えられ、僕はしっかりとした胸板に寄りかかった。見上げた顔は、頭一つ分ほど高い位置にあり、年若い印象を受ける。柔らかそうな黒髪は自然なくせ毛で、目尻の下がったたれ目が印象的だった。整っているのにどこかあどけなく、やけに記憶に残る顔立ちだった。
「内地じゃないんだ。そんなに着こんでいたら、気分も悪くなるだろう。」
見渡せば、フェリーから降りた観光客の大半も半袖短パンだ。
「はい、脱いで。」
「えっと……。」
「はんざーいって。」
突然の言葉に戸惑いながらも、流されるままにぎこちなく腕を上げる。幼い子どもにするように、僕を抱き留めたまま、分厚いセーターをスルスルと脱がせていく。島特有の気安さなのだろうか。初対面だというのに、距離感のなさに面食らった。まるで、人懐っこい犬に懐かれたような感覚だった。警戒心というものを知らないのかと疑いたくなるほど、彼の仕草には一切のためらいがない。いやらしさも下心もない、ただ自然でまっすぐな親切。だからこそ、恥ずかしい。子ども扱いされているような気がして、むず痒いような気分になる。
「あー、まだ下にロンT着てるの?暑いよ。」
困ったように眉尻が少し下がる。
「今日、どこに泊まるの?お兄さん、心配だから送迎車まで一緒に行こう。」
港の横には広めの駐車場があり、宿泊施設の名前やロゴがはいった色とりどりの車が並んでいる。
「違うんだ。僕は、赴任してきた高校の教員で…。」
親切な彼にきちんと説明がしたくて言葉を発するが、気持ちが悪くて言葉が続かない。
「ああっ!!シミケンが探してたの、お兄さんか。…じゃなくて、先生。」
彼はこの島の風のようにカラリと笑った。
「俺は我妻湊。父島高校の新三年生。よろしく。」
教え子になるかもしれない少年に、世話を焼かれてしまった。もう既に先生の威厳はない。我妻くんに甘えてはいけないと、何とか自力で立とうとするが、無理だった。
「シミケーン。」
我妻くんが観光客の集団に向けてブンブンと手を振る。すると、人混みをかき分けて、日に焼けた肌の男がこちらへ向かってきた。年の頃は四十代後半くらい。肩幅が広くて腕も太く、全体的にどっしりとした体格だ。ポロシャツの胸元はゆるく開いていて、首には汗を拭いたらしいタオルが掛かっている。ぱっと見は、どこかの土方か港の作業員だ。でも我妻くんに寄りかかる僕を見るなり、状況をすぐに察したようで、顔をほころばせた。
「おー、なんだなんだ、人助けか?我妻。」
俺の真っ青に血の気の引いた顔と我妻くんに撓垂れ掛らないと立てない様子をちらりと見ながら、のんびりとした声で問う。
「ほら、先生が探していた、内地から来た先生。」
「その人が佐伯先生か?」
思っていたのと違うとシミケンと呼ばれた男性の顔には書かれていた。
「そうなの?」
優しく目を細めて名前を促される。ああ、まだ名乗っていなかった。
「本土から赴任してきました、佐伯清です。担当科目は古典です。」
「私は、保健体育担当の清水健太郎です。失礼ですが、佐伯先生は何か持病が?ここは内地のように、大きな病院がある訳じゃなくて…。」
嫌みでなく、清水先生は本当に心配そうに俺を見た。
「大丈夫です。予想以上に、船酔いが酷くて…。」
ああっと、僕の返事に豪快に笑った。
「なら、次期に治るね。はー、内地の若者はそんなにシュッとしているものですか?」
一人になってから、食事も睡眠もままならず驚くほどに痩せてしまった。体育教師としては、ペラペラな身体が気になるのだろう。
「シミケン…。この島に居れば、いずれ筋肉が付くよ。何せ、坂は勾配がきついから。」
体型への指摘に、我妻くんが助け舟を出してくれた。
「きよ先生は船酔いか…。このあと車で山道を走るけど、大丈夫かな?」
我妻くんは距離を詰めるのが早い。もう、『きよ先生』呼びだ。下の名前で呼ばれるなんて、前の学校では考えられなかった。でも、ここではそれが普通なのかもしれない。清水先生も『シミケン』なのだから、同じ感覚なのだろう。
結局、清水先生の軽自動車の助手席まで、我妻くんに寄り添ってもらった。シートに沈むように凭れ掛かる僕を、主を心配する忠犬のように我妻くんが見守る。前の学校ではあり得ないくらい、人としての距離感が近い。こんな純な男子高校生は、島特有だなと思いながら礼を言った。
「きよ先生、この島はいいところだよ。先生も好きになってくれると嬉しいな。早く元気になって。」
我妻くんの素直な優しさに触れて、少し心が軽くなる。ちゃぷちゃぷと繰り返される波音と、心地い風が通り抜けていった。
がやがやとした旅行客と思われる大きなスーツケースを抱えた人で溢れるターミナルの中、自分だけが異質だった。
「佐伯様ですね。本日は一等室をご利用ですね。」
受付の女性はニコリと愛想よく笑った。首に巻かれた水色のスカーフは、これから繰り出す大海のように爽やかだ。
「こちら、お部屋のカードキーです。フェリーのご利用は初めてですか?」
「はい。」
「注意事項が多いので、乗船前にこちらの紙を一読ください。乗船は出航の一時間半前の九時半から特等室より順番にお呼びしますので、しばらくロビーでお待ちください。」
フェリーなんて誰が乗るんだよ、と侮っていた。国際空港のロビーと遜色なく、たくさんの人で溢れている。意外にも若い観光客が目立つ。
僕は逃げ出してきた。
毎晩、悪夢にうなされる。
起き抜けの鏡に映る自分は、目の下に濃く隈を刻んだ色白の顔。もともと色素の薄い髪は、寝癖のせいで余計に頼りなく見える。細身の体は分厚いセーターに埋もれ、神経質な印象ばかりが残った。二十八歳にしてはひどい有様だった。世界が、灰色に見える。最低限に身なりを整え、社会的側面を保ち、最低限の食物を口にして何とか生きている。時々、ふと思うんだ。何のために生きているのか。まったく先のことなんて考えられなく、意味もなく涙が零れた。ああ、このままじゃだめだ。これまでの生活も思い出も、全部捨てて、僕のことを何も知らない父島へ行くことを決めたのだ。
偶然にも東京都の離島、父島高校の古典の教員に欠員が出たからだ。ふいに開いた自動扉からは、三月の冷気と潮の匂いが流れ込んでくる。寒さに俯いてコートの胸元を閉めると、一層周囲の音が不快に響く。幸せそうな家族、テンション高くはしゃぐ男女。
乗船が開始されると、僕は一目散に客室へ向かった。個室である、一等室を取って良かった。荷物もコートも床へ投げ出し、ベッドへ倒れ込む。丁度、ベッドの横には窓があり、東京のビル群とレインボーブリッジが遠くに見える。ここに、あの燃えるような恋心を置いていけないだろうか。人を好きになることが、こんなに辛いなんて知らなかった頃に戻りたい。思い出の蓋を閉じるように、そっとブラインドを下した。
ゆっくりと暗闇に沈む。浮上しようと抵抗を試みるも、僕の意に反してゆっくりと下降していく。
「清、違うんだ…これは…。」
一緒に暮らす恋人の達臣は、見たことがないくらいに動揺していた。
「達臣さんのお友達ですか。」
これが修羅場だなんて気が付きもしない、明るい声で一緒にいた女性は無邪気に僕に笑い掛けた。彼女の親し気な笑顔の横で、達臣は蒼白だった。
「あっ、私、達臣さんの彼女なんです。沙織って言います。」
達臣は油断していたのだろう。本来、僕は勤務中、学校の敷地外へ出ることはない。たまたま教頭に頼まれて、駅を挟んで裏側の図書館に用があったのだ。
駅構内の商業スペースを突っ切って歩いていると、最近できたカフェの窓際の席に、見慣れた黒髪を短く整えた長身の背中が見えた。あれ、今日は仕事だと聞いていたのに。私服姿の達臣を訝しく思った。
達臣は学生時代はバスケ部で、今は食品系商社の営業マン。明るくて気配り上手で、彼がいると場が和んだ。平日は忙しく、休日出勤の振替で不規則な休みをもらうことも多かったけれど、僕との時間を作るためにがむしゃらに働いて、土日の休みを捥ぎ取ってくれることもあった。
そんな彼が、僕に向ける笑顔と同じ顔で女の人とお茶をしているなんて、思ってもみなかった。
まさか達臣が浮気をするなんて、一ミリも疑っていなかった僕は、雷で打たれたような衝撃が走った。
僕達は上手くいっていた。高校卒業時から付き合いだして十年。ちょっとした喧嘩をする時もあったけれど、その都度折り合いをつけてきた。大人になって、熱烈に愛を囁く日々は過ぎ去ったが、穏やかな好意を感じていた。寝食を共にし、日常の小さな変化を一緒に感じながら、これからもずっと——————年月を重ねていくのだと思っていた。
「ごめん、清。俺は、普通に家庭を持ちたいんだ。ゆくゆくは子供も欲しいと思っている。」
躊躇いがちに告げられた達臣の願いは、到底僕には叶えてやれないものだった。
「別れて欲しい。」
「…普通って、何だよ。」
初めて本気で好きになった人が、達臣だった。愛する人に愛されることが、こんなにも幸せで満たされることなのだと教えてくれたのも達臣だった。この十年の思い出は、全て彼と共にあった。
子供は産んでやれないが、僕なりに築いてきた達臣との家庭だと思っていた。世間一般の尺度”普通”は、それよりも大切なものなのか。
「お前だって、そろそろ両親に結婚をせっつかれているだろ。今でも、清を愛している。でも、俺達の関係に先なんてないだろう。若気の至りで済ませられる時間は、もう終わったんだ。現実を見なきゃ。」
お互いに愛しているのに、どうして別れないといけないのだろう。達臣にとって、僕との十年は、若さゆえの過ちだったのか。グラグラと見えていた世界が崩れていくような感覚だった。それでも、「行かないで」と縋りつこうと手を伸ばすのに、達臣は冷めた目で僕を見下ろしていた。
「清だって、俺が初めての恋人なのだから、同性愛者だとは限らないのだろ?女だっていけるかもしれない。」
……はっ、なんだよ、今の。「女だっていける」?
その一言が、胸の真ん中にめり込んで、息ができなくなった。頭じゃなくて、身体の奥が反応した。心臓が、ぐしゃりと潰れたみたいに痛かった。
ああ、そうか。もう沙織と、そういうことをしたんだ。
僕には言わなかったくせに、言葉の端で、そうやって匂わせるのか。それが、達臣なりの「現実」なんだ。
ずるいよ。僕は、こんなに、達臣のことが好きなのに。毎日、あなたのためにご飯を作って、帰ってくる音を聞くたびに胸が高鳴って、寝顔を見るだけで明日も頑張ろうって思えたのに。
なのに。
「女だっていけるかもしれない」?そんな言葉で、僕との十年をまるごと、なかったことにしないで。
「清だって、そうすればいい」って、どうしてそんな顔で言えるの。達臣の代わりなんて、どこにもいないのに。
声が出なかった。喉がつかえて、何も言えなかった。唇が震えて、呼吸の仕方さえ、わからなくなった。ぐらぐらと視界が揺れて、涙が溢れた。
僕は、ただあなたを愛しただけなのに。何がいけなかったの。どうして、僕じゃ駄目だったの。
嗚咽が漏れる。声を殺しても、止められなかった。達臣がくれた十年を、僕は宝物みたいに抱きしめて生きてきたのに。あなたにとっては、そんなに軽いものだったの?
僕は……
僕は、今でも……
あなたを、愛してるのに。
心を鷲掴まれたような痛みを感じて目を開けると、達臣が見える。沙織と小さな男女の子供に囲まれて笑う幸せな家庭。燃えるような嫉妬心と怒り、破壊衝動が湧くのに、結局いつも踏みとどまる。悔しくて、悔しくて、堪らないのに、最後は達臣を愛しているから進めない。苦いものが込み上げてきて、窒息しそうになる。藻掻いても藻掻いても、ゆっくりと海底へ落ちていく。そこに広がる闇は、どこまで深いのか見当もつかない。
「まもなく父島へ入港いたします。」
丁度、二十四時間の航海が、まもなく終わりを迎える。僕はずっとベッドに横になって過ごした。と、言うのも船酔いが酷かったせいだ。「船体の大きな船は、揺れを感じないから平気らしい」と語った、元同僚を恨みたい。
眠っては悪夢に魘され目を覚まし、起きたら起きたで船酔いで嘔吐した。二十四時間で口にしたのは、経口補水液だけだった。体調は最悪の底を抜いている。
廊下からはフェリーを降りる為に歩く人々の足音と期待に満ちた楽し気な話し声が聞こえる。いつまでも船室に留まる訳にもいかず、手早く荷物をまとめるとコートを拾い、何とか他の船客の後に続いた。
デッキに出ると恐ろしい程に澄んだ海とサンゴ礁が輝いていた。夏のように真っ青な海に、からりと照り付ける太陽。渡し橋を降りると、港はごった返していた。
「民宿、はるみ屋のお客様ー!」
「ホテル サンビレッジ!」
各宿の係が、プラカードを高く掲げて宿泊客を誘導している。
島民の帰還を喜び、ガヤガヤと騒ぐ一団。
隣ではフェリーからのコンテナの積み下ろしが始まり、クレーンとリフト車のエンジンがけたたましい音を出していた。
えーっと、確か父島高校の先生が港まで迎えに来てくれて、独身寮まで案内してくれるはずだったな。目を凝らして見渡すが、それらしき人は見当たらない。お互いに初対面で、顔がわからないのだ。どうやって探せばいいのだろうか。あれ、もらった紙に相手の携帯番号でも書かれていただろうか?
港に降り立って、そっとリュックサックを降ろすと、気分が悪くなる。まだ船酔いが続いているのだろうか。地に足がついても船上のようにグラグラと揺れているのだ。
「おい、大丈夫か。」
咄嗟に伸びた腕に支えられ、僕はしっかりとした胸板に寄りかかった。見上げた顔は、頭一つ分ほど高い位置にあり、年若い印象を受ける。柔らかそうな黒髪は自然なくせ毛で、目尻の下がったたれ目が印象的だった。整っているのにどこかあどけなく、やけに記憶に残る顔立ちだった。
「内地じゃないんだ。そんなに着こんでいたら、気分も悪くなるだろう。」
見渡せば、フェリーから降りた観光客の大半も半袖短パンだ。
「はい、脱いで。」
「えっと……。」
「はんざーいって。」
突然の言葉に戸惑いながらも、流されるままにぎこちなく腕を上げる。幼い子どもにするように、僕を抱き留めたまま、分厚いセーターをスルスルと脱がせていく。島特有の気安さなのだろうか。初対面だというのに、距離感のなさに面食らった。まるで、人懐っこい犬に懐かれたような感覚だった。警戒心というものを知らないのかと疑いたくなるほど、彼の仕草には一切のためらいがない。いやらしさも下心もない、ただ自然でまっすぐな親切。だからこそ、恥ずかしい。子ども扱いされているような気がして、むず痒いような気分になる。
「あー、まだ下にロンT着てるの?暑いよ。」
困ったように眉尻が少し下がる。
「今日、どこに泊まるの?お兄さん、心配だから送迎車まで一緒に行こう。」
港の横には広めの駐車場があり、宿泊施設の名前やロゴがはいった色とりどりの車が並んでいる。
「違うんだ。僕は、赴任してきた高校の教員で…。」
親切な彼にきちんと説明がしたくて言葉を発するが、気持ちが悪くて言葉が続かない。
「ああっ!!シミケンが探してたの、お兄さんか。…じゃなくて、先生。」
彼はこの島の風のようにカラリと笑った。
「俺は我妻湊。父島高校の新三年生。よろしく。」
教え子になるかもしれない少年に、世話を焼かれてしまった。もう既に先生の威厳はない。我妻くんに甘えてはいけないと、何とか自力で立とうとするが、無理だった。
「シミケーン。」
我妻くんが観光客の集団に向けてブンブンと手を振る。すると、人混みをかき分けて、日に焼けた肌の男がこちらへ向かってきた。年の頃は四十代後半くらい。肩幅が広くて腕も太く、全体的にどっしりとした体格だ。ポロシャツの胸元はゆるく開いていて、首には汗を拭いたらしいタオルが掛かっている。ぱっと見は、どこかの土方か港の作業員だ。でも我妻くんに寄りかかる僕を見るなり、状況をすぐに察したようで、顔をほころばせた。
「おー、なんだなんだ、人助けか?我妻。」
俺の真っ青に血の気の引いた顔と我妻くんに撓垂れ掛らないと立てない様子をちらりと見ながら、のんびりとした声で問う。
「ほら、先生が探していた、内地から来た先生。」
「その人が佐伯先生か?」
思っていたのと違うとシミケンと呼ばれた男性の顔には書かれていた。
「そうなの?」
優しく目を細めて名前を促される。ああ、まだ名乗っていなかった。
「本土から赴任してきました、佐伯清です。担当科目は古典です。」
「私は、保健体育担当の清水健太郎です。失礼ですが、佐伯先生は何か持病が?ここは内地のように、大きな病院がある訳じゃなくて…。」
嫌みでなく、清水先生は本当に心配そうに俺を見た。
「大丈夫です。予想以上に、船酔いが酷くて…。」
ああっと、僕の返事に豪快に笑った。
「なら、次期に治るね。はー、内地の若者はそんなにシュッとしているものですか?」
一人になってから、食事も睡眠もままならず驚くほどに痩せてしまった。体育教師としては、ペラペラな身体が気になるのだろう。
「シミケン…。この島に居れば、いずれ筋肉が付くよ。何せ、坂は勾配がきついから。」
体型への指摘に、我妻くんが助け舟を出してくれた。
「きよ先生は船酔いか…。このあと車で山道を走るけど、大丈夫かな?」
我妻くんは距離を詰めるのが早い。もう、『きよ先生』呼びだ。下の名前で呼ばれるなんて、前の学校では考えられなかった。でも、ここではそれが普通なのかもしれない。清水先生も『シミケン』なのだから、同じ感覚なのだろう。
結局、清水先生の軽自動車の助手席まで、我妻くんに寄り添ってもらった。シートに沈むように凭れ掛かる僕を、主を心配する忠犬のように我妻くんが見守る。前の学校ではあり得ないくらい、人としての距離感が近い。こんな純な男子高校生は、島特有だなと思いながら礼を言った。
「きよ先生、この島はいいところだよ。先生も好きになってくれると嬉しいな。早く元気になって。」
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藍川 東
BL
蓮見早良(はすみ さわら)は恋をしていた。
ひとつ下の幼馴染、片桐優一朗(かたぎり ゆういちろう)に。
それは一方的で、実ることを望んでいないがゆえに、『楽な片恋』のはずだった……
早良と優一朗は、母親同士が親友ということもあり、幼馴染として育った。
ひとつ年上ということは、高校生までならばアドバンテージになる。
平々凡々な自分でも、年上の幼馴染、ということですべてに優秀な優一朗に対して兄貴ぶった優しさで接することができる。
高校三年生になった早良は、今年が最後になる『年上の幼馴染』としての立ち位置をかみしめて、その後は手の届かない存在になるであろう優一朗を、遠くから片恋していくつもりだった。
優一朗のひとことさえなければ…………
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