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第二話:Don't Forget to Eat
しおりを挟む着任早々、高校三年生の副担任になってしまった。
六年間の教員生活で、二度三年生を受け持ったことはあった。前任校でも三年生の担任をしており、進路指導にも積極的に関わってきた。けれど、島に来たばかりの今は、勝手が違う。
父島に大学はなく、進学を望む生徒は必ず「内地」へ出ていく。オープンキャンパスに行くだけでも片道二万四千円。気軽に足を運べる距離じゃない。情報の格差だってあるだろう。ネットで多少は様子を掴めるとはいえ、不安は尽きない。
僕なんかに、この島の三年生を任せていいのだろうか。
「すまんな。俺達は、ほとんど内地へ行く機会がない。資料やデータ、一昔前の記憶で進路指導はするが……」
そんな僕の顔色を察してか、三年の担任を務めるシミケンこと清水健太郎先生が、にかっと笑って続ける。
「でも、先日まで東京にいた佐伯先生なら、きっと今の感覚でアドバイスしてやれる。何より、年齢も生徒に近いしな。」
期待を込めたその声に、胸が少しだけざわつく。頼られているのは、ありがたい。でも──。
(年齢が近いって言われても……僕が高校生だったのは、もう十年も前のことだ。)
清水先生よりは若い。でも、自分も十分「先生側の人間」で、生徒との間に見えない距離があることを、ひしひしと感じていた。
父島高等学校は、小笠原諸島唯一の高等学校だ。全校生徒五十名。三分の一の生徒はお隣の母島出身で、隣接した寮に入っている。山の上に建てられており、教室からは漁港とどこまでも続く青い海が眺められる。担当クラスは決まっているが、少人数制のため、学年が異なっても生徒との距離は近い。
「きよ先生。」
着任式当日、我妻が親し気にそう呼ぶので、すっかり他の生徒の間でも『きよ先生』で定着した。内地も島も関係なく、生徒達は生命力に溢れキラキラしている。副担任になった三年一組は、たった十五人で、教室がやたら広く感じてしまう。クラスの中でも我妻湊は、穏やかだが周囲から頼られるタイプの生徒のようだ。
「きよ先生、どうしたの?」
いつも利用していた商店の入口には「本日の営業は終了しました」と書かれた看板が置かれ、店内の照明は消されており暗い。
「あー、ここ七時閉店だよ。」
学校が用意してくれた独身寮は、高校のある山をくだった海に面した住宅地の入口にある。この島では一番人口密度の高い住宅地であり、観光客用の民宿やホテルが多い地域でもある。少し足を延ばせば、居酒屋はあるが酒の席は苦手だ。コンビニやチェーン展開しているお弁当屋さんもなく、愕然とする。
明日の授業の資料作りのため、一時間残業したのが失敗だった。私服姿の我妻が島の生活に慣れない僕を見て、可笑しそうに笑っていた。
「どうすんの?」
「まぁ、一食くらい平気だよ。」
元々、食欲がある方ではない。簡単なスープを作って、流し込むように食べるだけの日々だった。
「思っていたけど、先生痩せすぎだよ。また倒れるんじゃないかと、気が気じゃない。」
「ああっ……。」
ありがたい言葉のはずなのに、今は何も響いてこない。ただ、眠りたい。誰とも話したくない。生きてはいるけれど、どこか空っぽだった。
「先生は、食べなきゃダメだよ。うちは民宿だから、何かしら作れるし。」
「お、おいって……。」
我妻は「ほら、行くよ」と言うなり、僕の手を迷いなく引いた。まるで、それが当然のことのように。
ネオンの明かりはないが、住宅地故、所々電灯はあり、観光客と思われる一団もウロウロしている。男二人が手を繋いで歩いているなんて、変に思われないだろうか。
抵抗して手を放そうと、引いてみるが、筋張った僕より大きな手はがっちりと掴んでいて、ビクともしなかった。
「こっちだよ、少し歩く。」
道中、我妻は無言だった。まぁ、島に来たばかりのアラサーの男に話すことなど、何もないだろう。
心地のいい海風が、僕の前髪を揺らす。町の騒音と遠くに聞こえる波の音。僕は、ほうと息を吐いた。繋がれた手が、ほんのりと温かい。その温度に、ふと記憶が引き戻される。
──最後に、人と手を繋いだのは、いつだっただろうか。
大学生のとき? いや、社会人になってからも、達臣と──。
夜の人目を避けて、彼がそっと僕の指に触れてきたあの瞬間。照れ隠しのような、優しい仕草が、今も焼き付いている。
でも、あれも遠い昔だ。
達臣も僕も恋人であることを誰にも話したことはない。近年、同性愛者に対して寛容な社会になりつつはあるが、皆が皆、嫌悪感や悪意がない訳ではない。他者になど、理解されなくとも、互いが幸せならいいと思っていた。
いつから手を繋がなくなったのだろうか。いつから、達臣と見ている方向がズレていたんだろうか。
「っつ!!」
突然、我妻が立ち止まり、僕は額を彼の肩にぶつけた。
「何っ?」
「なんで、泣いているの?」
指摘されて、自分の頬が濡れていることに気が付く。慌てて手の甲で拭うが、僕の意志とは関係なく、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「あれっ、…なんでだろう。…ごめん、止まらないんだ…。」
達臣と別れてから、気づけば涙が頬を伝うようになった。理由もなく、意志とは無関係に。止めたくても、止まらなかった。
「こっちへおいで。」
人通りの多い通りから、一本なかに入る。するとそこには、一軒のお家から大きく張り出したガジュマルの木があった。我妻はガジュマルの陰になる場所へ連れて行くと、覗き込みように僕の顔を見た。
「そんなにも無感情で泣く人を初めてみた。」
怒りとか、寂しさ、悲しさが激しく渦巻いていた時期は、とうに過ぎ去った。生きていくために、感情を殺す。心を殺す。それでも時々耐えられないのだろうな。
慰めるようによしよしと撫でられ、ぎゅっと抱きしめられた時には、驚いてぎょっとした。
「大丈夫。涙が出る時は、無理に涙を止めちゃいけない。泣いてもいいんだよ。心のおそうじをしているんだって、いつも妹達に言っているんだ。」
やっぱりそこには、他意はなく純粋な慈しみだけがあった。背中をポンポンと優しいリズムで叩かれ、時折頭を撫でられる。達臣との顛末は、誰にも話せなかった。慰めてくれる友人もいない。自分自身ですら、己を攻めるばかりで、「泣いてもいい」なんて言えなかった。
自覚がなかっただけで、張りつめていた心がパチンと弾ける。僕は、我妻が生徒だとか、ここが外だとか全て忘れて、嗚咽を漏らして泣いた。我妻は子供にするみたいに、「よしよし、辛かったね。」というだけで、他には何も言わなかった。
「人間、感情を高ぶらせておけるのは、十五分が限界なんだって。何かのテレビで言ってた。」
泣き止んだ僕に、豆知識を披露するとカラっと笑った。我妻は僕が泣いた原因を詮索しないでいてくれた。
我妻の家は、砂浜と地続きのような場所にぽつんと建っていた。五階建ての和モダンな宿泊施設で、どこか海と調和しているようだった。
「うちは、目の前の漁港に水揚げされる魚料理が好評なんだ。」
店で食べて行けという我妻の申し出は、パンパンに張れてしまった瞼を理由に断った。我妻について店の裏から直接民宿の厨房に出入りする扉へ案内された。
「母さん…。」
我妻が母親へ事情を話すと、ひょいと顔を出したのは、五十代前半くらいの、がっしりした体格の女性だった。
フライパンを構える腕はたくましく、生活感に満ちたエプロン姿が板についている。けれど顔立ちは驚くほど整っていて、目元や口元に、我妻くんと同じ気配があった。若い頃は、さぞモテただろう。
「我妻くんの高校に赴任してきました、佐伯清です。」
値踏みをするように、爪先から頭のてっぺんまで厳しい視線で見られる。泣いた跡、丸出しの顔で情けない。
「あー、これは酷い」とつぶやいた後、厨房へ向かって「湊、ホイル焼きとチャンプルと、そこの春巻きも入れてー」と声を張り上げた。
何が酷いのかわからず、緊張しているとお母さんはニカっと我妻と同じ笑い方をした。
「働き盛りの男が、こんなペラペラでどうすんの。どう、うちのお弁当宅配サービス利用しない?」
鴨葱な僕を絶対に逃がさないと顔には書いてある。
「先生は栄養バランスが取れて、尚且つそれは、うちの子の進学資金にもなる。さぁ、どうだい?」
お母さんの後ろから、小学生くらいの妹たちが顔を覗かせてくる。……断りづらいったら、ない。
「……はい。」
「交渉成立! 初回特典で今日は無料。明日から、夕飯届けるね。佐伯先生。」
豪快に笑うと、逞しい腕でバシバシと肩を叩かれた。
なんという商売上手。なんだか押しに負けた気がするが、明日から夕飯の買い出しを気にしなくていいと思えば、有難いサービスだ。
お母さんと入れ替わりに、湊は厨房からプラスチック容器に詰められたお弁当を持って出て来た。
「明日から、俺が届けるね。先生、ちゃんと食べてよ? ……先生がちゃんと食べてくれるなら、俺も安心できるから。」
この近すぎる距離感は、島特有のものなのだと思っていたが、案外お母さんからの遺伝なのかもしれない。子供をあやすのが上手なのは、弟や妹の面倒を見て来たからなのだろう。
帰りも案内するという我妻を断って、一人お弁当を片手に帰路へ着いた。島に着いてから、一週間。初めて夜空を見上げた。
そこには満杯の宝石箱をひっくり返したような星空があった。僕は大きく深呼吸をすると、上ばかり眺めて歩いた。
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