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プロローグ
しおりを挟む思い返せば、私の人生はいつだって私の思い通りにはならなかった。
十五歳で母が他界してからというもの、ずっと心にぽっかりと穴が空いてしまったような虚無感を抱えていた。何処に居ても、誰と居ても、何をしていても、心の奥底はぼんやりとしていて。
「ジャンヌ、こっちへ来なさい」
赤子が母親の声をすぐ聞き取れるように、私はすぐに義母の声が分かる。頭の奥がキーンとするからだ。
床を拭いていた雑巾を絞って私は立ち上がった。無駄に広いヘルゼン伯爵家の屋敷は、床の拭き掃除だけで四時間は掛かる。近くに立っていたメイドは私と目が合ってすぐに逸らした。
「どうしましたか……お義母様」
「どうしたも何も無いよ!アンタまたイーサンの下着を自分の下着と一緒に洗ったのかい?息子の下着は分けて手洗いしなさいとあれだけ言ったのに」
怒り狂う義母の手に握られた布切れを凝視する。
黒いレースがあしらわれた女性用の下着だ。
「それにしても、なんて破廉恥な下着なの。私の時代にはみんなシルクの下着を履いてたわ。薄い下着はお腹を冷やすのよ、分かるかしら?子供が産めなくなるの!!」
「お義母様、それは私のものではありません」
「じゃあ誰のだって言うんだい!このヘルゼンの屋敷の中で、娼婦みたいな下着を履く女が他に居るって言いたいのかい……!?」
「…………いいえ」
そんなの私が知りたい。
本当に自分のものではないのだ。しかし、スイッチの入った義母はショート寸前の機械と同じで、すぐに冷却しないと爆発してしまう。そうなれば、被害を被るのはこちらの方。胃が痛くなってお腹を押さえていると、義母はギョッとした顔でこちらを見た。
「また調子が悪いの?それで妊娠が出来るの?」
「ただの胃痛です……問題ありません」
「本当に心配ばっかり掛けて、」
私は「すみませんでした」と小さく謝って、義母の手から持ち主不明のショーツを受け取った。その場を去ろうとした背中に声が掛かる。
「あぁ、愛人のものかもしれないねぇ」
私は足を止めて振り返った。
赤い唇が悪魔のようにひん曲がるのを見る。
「イーサンはどうやら良い相手が居るみたいだ。騎士団で昇進して部隊長になったらしいし、あの通り優しい性格だから引くて数多なんだろうね」
「浮気なさってると言いたいのですか?」
「浮気か本気かは知らないよ。だけど、ジャンヌ、忘れちゃいけない。アタシはアンタの味方なの、ヘルゼン家が迎え入れた嫁なんだから当然さ」
立ち上がった義母が私の前に立った。指輪で武装された片手が、私の肩に置かれる。
「ジャンヌ、夫の機嫌は上手く取らないと。愛妻家になるかどうかはアンタ次第なのよ。このままじゃあ、家事も出来ない、女の勤めも果たさない……悪妻になっちまう」
気を付けな、という忠告をして義母は高らかに笑った。私はただ頭を下げて視線を落とす。一刻も早く、ヘルゼン家の高圧的な伯爵夫人がその場を去ることを願いながら。
私、ジャンヌ・ヘルゼンの人生は平凡だ。
いや、平凡だったという方が正しい。
クレモルン男爵家の娘として、平穏を絵に描いたような幼少期を農村地帯で過ごした。十五歳のときに母が事故で亡くなってからは、商人になった父と王都の外れに引っ越した。そして、二十歳の誕生日、父の勤める商会の会長であるヘルゼン伯爵の息子と結婚した。
どこから人生は崩れはじめたのか?
一人っ子ではあったけれど、従姉妹のアマンダが一緒に住んでいたので寂しくはなかった。同い年のアマンダは十歳のときに火事で両親を失っている。母の妹の子供に当たる彼女は、友人であり、姉妹のような存在だった。
みんな、この結婚を喜んでくれた。
父やアマンダの生活費も援助してくれるという話があったし、名ばかりの男爵令嬢だった私にとって、伯爵令息のイーサンとの結婚は、夢のような話だった。
蓋を開けてみたら、随分想像と違ったが。
「騎士団の宿舎に行ってくるわ。車を出していただけるかしら?」
メイドに確認したところ、しばらくしてから「難しい」との返答があった。理由を尋ねると、どうやら義母が美容院へ行くらしい。
「分かった。バスに乗るから大丈夫」
仕方がないので、何分か歩いて最寄りのバス停に向かう。タイミング良く停車していた巡回バスに乗ることが出来た。
イーサンに直接確認しよう。
責任感の強い彼のことだ、浮気なんてするはずがない。義母の嫌がらせに関しては今まで何度か相談したことがあったが、いつも申し訳なさそうに謝ってくれた。イーサン曰く、義母は、入院しているヘルゼン伯爵家の当主に代わって家を守ろうと必死だという。
しかし、このままでは心が折れてしまうので、せめて少し外に出る機会がほしい。今日は、そのことも併せてイーサンに確認するつもりだった。
「ヘルゼンさんは訓練場にいらっしゃいます。おそらく昼食を終えてトレーニング中かと」
管理人に言われるがままに私は訓練場を目指す。
騎士団に勤める夫は、平日はずっと宿舎に寝泊まりしていた。週末には戻って来るのだが、それまで待てそうにない。
訓練場に向かう道中、差し入れのクッキーを持って来たことを思い出して私はひとまずイーサンの部屋へ寄ることにした。三階建ての宿舎の最上階の角部屋がイーサンの部屋だ。
部屋の前にバスケットごと置いて行くつもりだった。置き手紙を添えて、分かるように。
「悪いが帰ってくれ、仕事中なんだ」
突然聞こえた夫の声に飛び上がる。
しかしすぐに、それが自分に向けられたものではないと分かった。相手の声がしたのだ。
「そんなこと言って、お屋敷でも拒まなかったじゃない。貴方も同罪よ」
「拒めるわけがないだろう。君を前にして我慢なんて……」
「ふふっ、早く全部終われば良いのにね」
「もうすぐだよ。ジャンヌが死ぬまでの辛抱だ」
驚いて後退した瞬間、バスケットに足をぶつけた。
綺麗に並べていたクッキーが廊下に転がって、部屋の中から慌ただしい音がする。私は急いで踵を返すと、階段を駆け降りた。
踊り場で上から名前を呼ばれる。
顔を上げれば、イーサンが見下ろしていた。
「ジャンヌ……!おい待て……!!」
私は再び前を向いて一心不乱に走り出す。頭の中はとっ散らかっていて、自分がなぜ逃げているのかも分からなかった。冷静に考えれば、逃げ出す必要なんてなかったのに。
驚いて目を丸くする管理人のそばをすり抜けて、大通りに出た瞬間、けたたましいクラクションの音が聞こえた。あ、と思ったときにはすでに遅く。
十代の頃にアマンダと二人で夢見た未来予想図では、結婚後の私は可愛い子供たちと暮らしているはずだった。夫に愛されて、素敵な家庭を築いて。
現実はいつだって厳しい。
二十五歳の冬、私は命を落とした。
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