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第一章 ジャンヌ・クレモルンの結婚
15 五年
しおりを挟む翌週の土曜日、荷物をまとめてイーサンの部屋を訪れた私は驚愕した。部屋の主人が中に居ないのだ。
「イーサン様は今朝早くに家を出ました。ジャンヌ様には急な訓練が入ったと伝えるように、と……」
「訓練?騎士団の……?」
稀に土曜日に宿舎へ行くことはあるものの、今日は予定を空けてくれると言っていたはず。朝食の席に居なかったが、てっきりまだ眠っているだけだと思っていた。
落胆する私の背中に、別のメイドから呼び掛けがあった。どうやら電話が入っているらしい。クレモルン男爵からです、という伝言を受けて私は受話器を握る。
「お父様?」
『あぁ、ジャンヌ!すまないが今日のキャサリンの墓参りは別日で向かうことにする。アマンダがひどい腹痛でね、一人で置いて行けないんだ』
「えっ、大丈夫なのですか?私もお見舞いに向かいます」
『しかし、ハンベルクの家には訪問することをすでに伝えてあるんだ。申し訳ないが、今日はお前だけで行ってくれないか。キャサリンの墓には必ず私も後日伺う』
よほど慌てているのか、電話はそのまま切れた。
ハンベルクとは母キャサリンの旧姓。義理の親ゆえに父の口からは断り辛いのかもしれないけれど、私一人で墓参りに行くというのもどうなのか。
私は電話機の前でしばらく立ち尽くす。
イーサンは用事、アマンダは病気で父はその看護。いずれも仕方ないことなので、誰かを責めるわけにもいかない。
(別に良いわ、息抜きになるもの……)
私は厨房で作った不恰好なサンドイッチを自分のバスケットに詰めて、ヘルゼン伯爵家を後にした。当たり前に量が多すぎるから、木の影にでも座って鳥に与えても良い。
伯爵家の車はすでに夫妻を乗せてチャリティーイベントに出発していたため、私は近くのバス停からバスに乗った。ゴトンゴトンと心地良い揺れの中で、眠気が襲って来る。
もう五年も経ったなんて。
母キャサリンは優しい、穏やかな人だった。
どこか頼りない父の隣でいつだってさり気無くその背中を支えていた。アマンダを引き取ると言い出したのも母親で、金銭的に余裕がないと嘆く父親に向かって珍しく強い口調で諭していたのを覚えている。
自分が正しいと信じたことには一直線に向かって行く。優しいけれど、芯のある人だった。
もう一度会えるならどんな話をしよう?
ヘルゼン伯爵家で上手く生き抜くためにどうすれば良いか知りたい。心が潰れてしまいそうなとき、どんな風に寂しさを逃せば良いか知りたい。嫌な思い出を早く忘れるために、どんな対処が出来るか。
自分を裏切った人間を、もう一度信じることは出来るのか。
「………んん、」
激しい揺れに身体を起こせば、バスはすでに田舎道を走っていた。わずかに開いた窓からは潮の匂いがする。海が近くなっている証拠だ。
母の生家であるハンベルクの屋敷は、海沿いの小さな街にあった。夏の休暇で海を訪れていた農地出身の父が、海辺で遊ぶ母に一目惚れしたことが出会いのきっかけだと聞いている。
幼い頃は、自分もそんな風に運命の相手と巡り会うのだと信じていた。アマンダと二人で将来の計画を立てながら、無邪気にただ、信じていた。
私がヘルゼン伯爵家に嫁いだことで、クレモルン男爵家の生活環境は少し改善されたはず。金銭的に我が家がヘルゼンの恩恵を受けていることは、明白。
このまま結婚を続けた方が良いのだろうか。
今世ではイーサンも浮気をしない可能性がある。今のところ、義母からの風当たりが強いことを除けば、ヘルゼンでの暮らしが辛過ぎることはない。
ガタンッと再度大きく揺れたのを合図に、バスは停留所に到着した。私はバスケットを片手に車体から降りる。目の前には広大な海が広がっていた。
「分かってはいたけど……結構急な坂ね、」
せっせと足を動かしてはいるが、登れども登れども墓地は見えて来ない。祖父に当たるハンベルク子爵の家にも顔を出してみるつもりだ。アマンダ曰く結婚式には来てくれていたみたいだけど、てんやわんやで挨拶出来なかったから。
母が死んで五年。
一人でここへ来るのは初めてかもしれない。
ようやく見えて来た無機質な四角い石の群れに、私は安堵の息を吐いた。いくつかの墓石には訪問者の手によって花が手向けられている。
「お母様……ジャンヌよ、久しぶり」
用意してあった花束を台の上に置く。
種類が絞れず、花好きな母のために多種多様な花を盛り込んで作ってもらった。きっとこの場に母がいたら、顔を近づけて「良い香り」と笑うのだろう。
「私ね、イーサンと結婚したの。こんなこと言うと驚くと思うけど、実は二度目の結婚よ。本当に上手くいくと思う……?」
一度目の人生では夫は浮気をした。私は驚いて逃げ出して、短い生涯を終えた。
死にたくはない。
だから、今回はイーサンとの縁談を破談にしようと思った。だけどそれは想像していたより難しくて、さまざまな事情を考慮した結果、私はヘルゼンの家に嫁ぐことになった。
「………お母様が生きていたら、と思うことがよくあるの。一人だと気持ちが沈むことも多くて……情けない話よね、」
ヘルゼン伯爵家はペチュニアの城。味方を作ることは容易ではなかった。冷静に考えたいのに、焦るのは気持ちばかり。
緊張が解けたせいか、涙腺が緩む。溢れてくる涙を拭こうとハンカチを探していたところ、背後から声を掛けられた。
「また何処かへ食事を届けに行くのか?」
驚いて振り返った先には、相変わらず無愛想な顔で金髪の男が立っていた。視線の先には四人分のサンドイッチがあったので、私は慌てて奥へと押し込む。
「団長様!どうしてこちらに……!?」
「このあたりに家がある」
「こんな遠方から宿舎まで通われているのですか?」
「君も知っての通り、平日は宿舎で寝泊まりしている。そういえば今日はヘルゼンは?」
「夫は訓練があるそうです。本当は、一緒に来る予定だったんですが………」
「訓練……?」
ユーリは不思議そうに聞き返したが、そのとき頭上でゴロゴロと何やら不穏な音が鳴ったので揃って空を見上げた。
「降りそうだな」
「そのようですね」
小粒の雨が肌の上に落ち始めた。素早く荷物をまとめて丘を下ろうとした私の腕を、ユーリが掴んだ。
「これは親切心からのアドバイスだが、次のバスが来るまでに一時間以上掛かる」
「じゃあ、待ちます」
「この雨の中を?」
返答に困る私の手首を離して、ユーリはなにか考えるような素振りを見せた。再び空を見上げて、私の顔を見る。
「雨宿りぐらいはさせてやる」
そう言って歩き出した背中を、はじめは呆然と見つめていたが、数秒後意味を理解して慌てて後ろを追い掛けた。
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