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第四章 新しい未来
79 救済と対話2
しおりを挟む教会で迎える朝はとても静かだった。
種類は分からないけれど、窓の外から鳥の鳴き声がする。歌うように、語り掛けるように、チルチルと鳴く声は軽快だ。
与えられた部屋は素朴ではあったが、ヘルゼンの屋敷で住んでいた部屋よりも清潔感があり、何かの花の良い香りがした。廊下に出るとすぐに、背後から挨拶を受ける。
「おはようございます、ジャンヌ」
「おはようございます」
教会の中では皆同じということで、私も名前しか明かしていない。見知らぬ相手にそう呼ばれるのは不思議な感じがしたけれど、新鮮だった。
「ジャンヌは綺麗な目をしていますね」
「え……?」
聞き返す私の前で年老いた修道女は身を屈める。
「自分の気持ちを大切にしてください。貴女は、きっと正しいと思うことを信じ続けられる強さを持っているはずです」
「強さ……ですか?」
「はい。後ろを向いても何も見えません。貴女が変えられるのは未来の自分です」
さぁ、と背中を優しく叩いて修道女は去って行った。私は呆然と立ち尽くしてその後ろ姿を見送る。強さなんかとは正反対だと思っていた自分の性格を、そんな風に評価されるとは。
食堂へ移動すると、すでに人気は少なかった。
ヘルゼンの屋敷に居た頃に比べたら随分と遅くまで眠ってしまったから、仕方がない。
受け取った白い皿の上にはバターが一欠片と、丸いロールパンが二つ載っていた。グラスに入ったミルクを飲みながら窓の外を眺める。今日も天気には恵まれているようだ。
(帰った方が良いわよね……)
冷静に考えたら、二日も留守にはできない。
きっと父はアマンダに会いに行った私を心配しているし、メルトンだって朝まで戻らなかったら何事かと思うはずだ。
ただでさえイーサンとの離縁で皆に迷惑を掛けたのだから、と私は内心呟いた。
教会の中を軽く散歩して、別れの挨拶を述べようとしたところ、今朝方話し掛けてくれた初老の修道女を見つけた。銀色の髪を一つに結んで、頭には黒いベールを被っている。
「あの、今日家へ帰ろうと思います」
「あらまぁ、司教様に相談に来たんじゃなくて?」
「はい。また日を改めて来ます」
「それじゃあ赦しの塔は見ておいた方が良いわ。あそこはステンドグラスが綺麗なの。朝方ならきっとまだ人も少ないはずよ」
ぜひぜひ、と勧められるので、私は回れ右をしてその場所を目指すことになった。距離的にそう遠くはないようだし、親切にしてくれた人のアドバイスを無碍にはできない。
十分ほど歩き続けて辿り着いたのは、教会を取り囲む壁ギリギリに建った小さな塔だった。入り口に扉はあったが、鍵は掛かっていないのでドアノブを回して足を踏み入れる。
「…………まぁ、」
一歩入って、自分の目を疑った。
大きなステンドグラスにはアヴェイルの街並みがデザインされており、ガラス越しに差し込む太陽の光が、色とりどりの光の模様を床に描いている。
天国があれば、きっとこんな場所なのだろう。
ゆっくりと塔の中を歩き回っていたら、上へと登る階段を発見した。人一人がようやく歩けるぐらいの細さで、使用禁止なのかロープで封鎖されている。
仕方がないので板張りの空間を奥まで進んでみると、向かい合う一組の椅子を黒いカーテンで仕切った場所を見つけた。テーブルがないので食卓というわけではなさそうだ。
「……なにこれ?」
「懺悔の間ですよ」
質問に答えるように声がして、顔を上げると塔の入り口に修道女が立っていた。ベールの下で顔は見えないが、先ほど場所を教えてくれた人ではない。
立ち尽くす私の前を横切って、女はカーテンの向こう側へと回った。どうやら着席したようで、椅子の軋む音がする。「貴女もどうぞ」という誘いに応じて、私も腰を下ろした。
「懺悔するのは初めてですか?」
「……はい」
「簡単なことです。貴女の救われたい気持ちを言葉にすれば良い。ここは受け入れるための場所ですから、私たちは貴女を否定しません」
もちろん秘密も厳守です、と女は付け足す。
私は膝の上に置いたままの自分の手を見下ろして、目の前のカーテンを眺めた。誰か分からない相手に自分の気持ちを吐露するのはいかがなものか。だけど、知らない相手だからこそ話せる内容もある。
私は迷いを胸に口を開いた。
「例えば、大きな……とても大きな失敗をしたとして、目が覚めたらその失敗の前に戻っていたとします」
女は何も言わない。
唇を舐めて、もう一度顔を上げる。
「自分の失敗の原因となった物事を片付けたら幸せになれると思っていました。より良い人生になると……信じていました」
「はい。続けてください」
まるでこちらの顔が見えるかのように優しく促すので、私は握り締めていた手の拳を少し緩めた。
「だけど、そんな資格はないと気付いたんです。一度失敗した私が、誰かの救いを求めるなんて強欲です。それに……自分が負のループから抜け出すためとはいえ、他人を不幸にしたことは変わりません」
「貴女が不幸にしたのですか?」
「……分かりません」
俯いたままで声を絞り出す。
ヘルゼン伯爵家やアマンダとの縁を断ち切る必要があった。はじめは商会の中で着々と力を付けていく予定だったけれど、計画は狂ったのだ。なぜなら、私はずっと前から裏切られていたから。
だけど被害者意識をもって抗議するつもりはもうない。それぞれの役割を終えた登場人物たちは、収まるべき場所に移った。これ以上は何も求めていない。
ただ、幸せになる自分の未来は見えない。
誰かの隣でもう一度笑おうなんて烏滸がましい。
「幸せになるのが怖いのですか?」
「え?」
投げ掛けられた質問に思わず顔を上げる。
窓から差し込む暖かな陽気が、足元を包んでいた。静かな空間の中でこうして明け透けに自分の思いを伝えているのは不思議な気分で。
「貴女は手に付いた汚れを落としただけです。その綺麗になった手で誰の手を取るかは、貴女が決めることですよ」
「私が……決める?」
「幸せになって、ジャンヌ」
ふっと心に直接語り掛けるような言葉。
私は咄嗟に椅子から立ち上がる。勢いよく立ったせいか丸い椅子は床を転げて、大きな音が頭の中に反響した。黒いカーテンの向こう側へと回り込むも、修道女はすでにそこには居ない。
さっきまで、確かに居たはずなのに。
私は部屋の中を見渡して人影がないことを確認すると、すぐに入り口へと走った。軋む扉を押し開けて、外へと顔を出す。
だって、その声を知っていた。
私の名前を呼ぶ柔らかな声を知っていた。お日様のような匂い、優しい笑顔が今でも思い出せる。忘れることなんてできないから。
「お母様……!」
何度名前を呼んでも、返事はなかった。
塔の周りをぐるりと歩いてみても、それらしき修道女には出会えなかった。当たり前と言えば当たり前だ。だって母は、もう居ない。
立ち止まって自分の手を見下ろす。
二つの手は確かに私のもの。
まだ、間に合うだろうか?
もう一度、あの言葉を聞けるならば、私は今度こそ答えを伝えたいと思う。自分にも他人にも厳しい彼が、同じ会話を繰り返してくれるか分からないけれど。
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