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1巻
1-3
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◇ ◇ ◇
オリエが実家に帰ってから数週間が経ってしまった。
「迎えに行きたい」
俺がボソッと呟くと、すぐに言葉が返ってきた。
「オリエ様は今ご実家で充実した日々を送っておりますので、どうぞジョセフィーヌ様と仲睦まじくお過ごしください」
「お前まで言うのか、側近のくせに」
俺の側近であるブライス・ベナートル、伯爵家次男で幼い頃からの幼馴染でもある。
「ジョセフィーヌ様に愛しているなど言ってイチャイチャしながら過ごす姿を皆見ております。今更演技だと言われても、そちらの言葉を疑いたくなります」
「……そんな風に見えるか?」
「はい、側妃に夢中になる王太子に見えます」
「嬉しくはないが仕方ない。それがこちらの思惑なんだからな」
「ブルーゼ公爵の動きは?」
「オリエ様が実家に戻られたと聞いてご機嫌が麗しいようですね」
「ふうん、では一度呼び出してみるか」
「どうして?」
「向こうも俺がオリエに対してどう考えているか知りたいだろう?」
「ジーナ様もついて来られるのでは?」
「アレは鬱陶しいが、父親の公爵と一緒の方が罠もかけやすいかもしれない。その時はジョセフィーヌも連れて行くとしよう」
「ジョセフィーヌ様の命が狙われるのでは?」
「いや、その危険はない。ジーナは俺を愛しているわけではない、愛しているのは自分を王妃にしてくれる地位だ。正妃でなければ王妃になれないから、俺に固執している。ジョセフィーヌは絶対に側室のままだ」
「どうしてそう言いきれるのですか?」
「父上である陛下が、ジョセフィーヌの父親に側室として迎えるならよいと、俺との結婚を許可したんだ。彼女は茶色の髪だろう? 王妃の絶対条件であるブロンドじゃないからな」
「そう言えば……王妃は皆ブロンドですね……側妃様は確かに違う髪の色……」
「だからオリエは三歳で俺の婚約者になったんだ。あのブロンドはこの国でもなかなか少ない、輝くほど綺麗な髪だ」
「ジーナ様もブロンドではありますが、まぁ、普通ですもんね」
「ジーナのプライドが許さないんだろうな、同じ公爵家の娘として。オリエがいなければ自分が選ばれたと考えているはずだ」
◇ ◇ ◇
兄様は忙しく、なかなか手合わせをしてもらえないまま時間が経ってしまった。
オーヴェン様はなぜかわたしのそばにいる。
今もにこにこ笑顔で「オリエ様、このお茶とても美味しいですね」と、なぜか二人でお茶をして過ごす時間が増えた。
「ほんと、美味しいですね。……ところでオーヴェン様はお仕事がお忙しいのでは?」
「最近はオリエ様の兄君がしっかりしてきたので、わたしはゆっくりさせていただいております」
「お兄様が? オーヴェン様に比べたらまだまだでしょう?」
「いえいえ、ここ最近は技術も上達してきましたし、まだ弱い面もあった精神もかなり強くなられました。立派な当主にいつでもなれるでしょう」
「まあ、そうなのですか?」
――一年以上も実家を離れていたのだもの、気がつかないうちに周りは変化しているのね。
少し寂しい気持ちになった。
そんな会話の途中、わたしはここ最近考えて動いていたことをオーヴェン様に話してみた。
「オーヴェン様は市井で子供達が働いていることはご存じですか?」
「もちろん知ってはいます、片親の子、貧しい子達は皆働いているでしょう」
「それでは、その子達の労働環境や賃金についてはどうですか?」
「いえ、そこまでは……」
「わたしも調べるまではほとんど知りませんでした。雇い主への隷属、劣悪な労働環境、生活するには足りないほどの低い賃金……その子達が少しでも今の生活の状態を改善できないかとずっと考えていました。わたしの力では何もできない……それでも何かをしたい。唯一わたしができること……子供達に安心して働く場所と技術を与えたいのです」
「働く場所と技術?」
「はい……女の子達には刺繍や裁縫を教え、それを仕事にしてもらおうかと……男の子達には算術や字を教え、ゆくゆくはお店を開けるようになってもらいたいのです。もちろん全ての子供を救うことはできませんが、少しずつ輪を広げていきたい。わたしは資産としてお父様から領地をいただいております。それに鉱山も……それらを使い、投資したいのです。お力を貸していただけないでしょうか?」
「大変なことですよ。口では簡単に言えますが、結果が出るには数年の時間がかかります」
「わかっています、ですからオーヴェン様にお願いしているのです。オーヴェン様は商会も運営されていらっしゃいますよね? 子供達にそういった技術を教えていただけそうな方を何人かご紹介願えませんか」
わたしはオーヴェン様の目を見つめて言った。
「算術や字ならわたしも教えられます。街の方々にこの先の展望をお話ししたところ、数名の方から無償のご援助を約束いただきました。子供達は覚えが早いですから、最初の何人かにきちんと指導すれば、その子達が下の子達に教えてくれるでしょう。また別の子達には、鉱山から出た商品にならない宝石の屑石を加工し、安価な宝飾品を作れるよう、今技術を習得してもらっています。市井で売ってもらいたくて。そしてその加工した屑石はドレスなどの飾りとしても使えないか、と思っております」
「ほう、確かに屑石は捨てるしかないものですが、そう上手くいきますか?」
「マチルダ、持ってきてくれる?」
「はい」
マチルダに頼んで試作品をいくつか持ってきてもらった。貴族が着る豪華なドレスではなく、市井で普通に誰でも買えそうなドレスの胸元に小さな宝石を鏤めてみたのだ。
「とても綺麗ですね、元々が屑石とは思えません。それにこのドレスもいい出来だ。これなら売り物になるでしょう」
「本当ですか? これは数人の子供達に教えて作らせたものです。ドレスも着なくなったものを再利用したのです。覚えたばかりの縫製の技術を使って」
「子供達に? それにドレスを再利用したと?」
「はい、そしてこれがブレスレットとネックレスです」
小さな宝石に穴を開けて繋げた色とりどりの宝石。とても可愛らしくできている。
「これは……売れますね」
オーヴェン様は細やかな宝飾を見て顔を綻ばせていた。
「凄いでしょう? 子供達は手が小さいので細かい作業がとても上手なのです。それに頑張ればお金になるとわかっているので、一生懸命覚えてくれました。きちんとした技術が身につけば、将来、独立できる可能性もあります。こうして子供達が得意分野の技術を習得していけば、たとえ貧しく暮らすことになっても、楽しく働いて生きていけるのではないかと思ったのです。同じ働くなら楽しまなくては」
最初は夢物語かもしれない、でもわたしは懸命に言い募る。
「もちろん簡単なことではありません。だからお父様にも頼んで貴族の方達に少しでも力になってもらえるようにお願いするつもりです。施しではなくて自分達の力で生きていけるように少しでも力になれればと考えています」
「そこまで考えていらっしゃるとは……わかりました。ではわたしも少しですが、何ができるか考えてみましょう」
「ありがとうございます、ぜひお力をお貸しください」
わたしはこれからいろいろな人達に頭を下げてまわるつもりだ。
オーヴェン様のように上手く話が進まないことが多いのはわかっている。それでも動き出した。
わたしは突き進むつもりだ。
◇ ◇ ◇
「ブルーゼ公爵が今日登城してきた? ジーナも一緒か?」
ブライスの話に呆れながら聞いた。
確かに俺は呼び出した。だがまだ日にちすら決まっていないのに、彼は強引にやって来た。
俺は舐められているのか?
俺がオリエと別れてジーナと結婚するとでも思っているのか?
オリエに毒を盛り殺そうとした女を娶るなんてあり得ないのに!
俺はオリエに毒を盛って死んだ使用人と仲の良かった使用人を、わざとジーナ達のお茶の世話係とした。そしてその者に告げる。
「いいか、毒が入っていた瓶に無害な薬を入れた。これをあの二人にわかるように見せつつ、だがこっそりと入れろ。あの二人がどんな顔をするか、それを飲むのか様子を見たい、できるか?」
「はい、かしこまりました」
そして使用人は二人の前でお茶を淹れ始めた。
俺は二人に柔らかに挨拶をした。
使用人は挨拶している隙に薬をこっそりと入れている。
二人は俺と話しているのにもかかわらず、使用人の手元を見てギョッとした顔をした。
「公爵、どうした?」
俺がわざと問いかけると「いえ、何もございません」と少しうろたえてはいたが、流石に狸。すぐに動揺を隠して笑顔で俺と話し出した。
ジーナも顔を引き攣らせながらも気持ち悪い猫撫で声で話しかけてきた。
「殿下ぁ、お久しぶりです。お会いできなくてぇ、とても寂しかったです」
公爵令嬢がそんな話し方をするか?
俺は鳥肌が立ち、同時になんでこんな女と付き合ったのだろうと昔の自分の愚かさに溜息がでた。
「久しぶりだな」
これが精一杯の返事だった。
「二人とも座ってお茶でも飲んでくれ」
俺がお茶を勧めても手を動かそうとしない。
「このお茶は隣国から取り寄せた珍しい茶葉を使っているんだ、ぜひ飲んでみてくれ」
俺はそう言うと自分のお茶に口をつけた。
二人はビクッとして俺を見つめた。
俺は何食わぬ顔をして飲み続けた。
「どうした? 感想を聞きたいのだが?」
もう一度お茶を勧めると、二人は顔を見合わせて仕方なく口をつけたフリをした。
「そんなにこのお茶が飲みたくないのか?」
俺はわかっていながら、さらに勧めた。
「え、いえ、飲みます」
二人とも慌てて飲み始めた。
「美味しいだろう? うちの使用人が美味しくなるようにと、この瓶に入っているエキスを一滴入れたんだ」
「その瓶は? え? あ、あの……」
「うちの使用人が持っているのを見て、教えてもらったんだ。この国では珍しいエキスで体にとてもいいらしい。もっと入れた方が効果があるかもしれないな、俺が入れてやろう」
俺は瓶の蓋を開けてたくさん入れ、「さあどうぞ」と勧めた。
「殿下、そんなにたくさん入れたら飲めません」
「どうして?」
「だって、何が入っているかわからないではないですか?」
「俺も今飲んだが、美味しかったぞ。うちの使用人が何か変なものを入れたと言いたいのか?」
俺は二人を睨みつけた。
「め、滅相もありません。そう言えば、わたくしめを呼び出された理由をお伺いしてもよろしいですか?」
公爵は話をすり替えようと必死だ。
この瓶の中身はすり替えているのでもちろん毒ではない。これは下剤だ。
今夜は二人とも眠れぬ素敵な夜を過ごすことになるだろう。
「ああ、陛下から伝言を預かっていてな」
「陛下からの?」
「ジーナ嬢、君にはバルセルナ辺境伯の元へ嫁いでもらうことになった。公爵令嬢がまだ嫁に行っていないことを陛下がとても心配されて決められたそうだ、よかったな」
「な、な、なぜ?」
「なぜって、陛下のお優しいご配慮に決まっているだろう?」
俺はジョセフィーヌを隣に座らせて仲睦まじい姿を見せながら話す予定だったのに、突然の訪問でできなかった。だからいきなり来た二人に対して、真っ先に意地悪く切り返した。
恐々とお茶を飲む二人に追い打ちをかけて言った。
陛下にジーナとバルセルナ辺境伯の婚姻を勧めたのはもちろん俺だ。
辺境伯は少しクセのある男で、なかなか嫁の来手がない。令嬢達からは敬遠されている変わり者だ。ジーナとの話を持っていくとすぐに了承した。
公爵がいくら嫌な顔をしても陛下からの勧め、それは王命と同じだ。
婚約者のいない行き遅れのジーナに断る術はない。
だから俺はニヤッと笑った。
「俺はオリエを離縁する予定はない。アレはお飾りとは言え、いずれ王妃となるだけの才と気品を持っている。彼女ほど俺にふさわしい王太子妃はいない。それにあの見事なブロンドの髪は俺の後継を産むのにふさわしい。なぁ、公爵もそう思うだろう?」
――ジーナには王妃としての品格も才能もない。お前はふさわしくないのだ。オリエは比べようがないほど優秀だ。
ジーナは俺の言葉の意味がわかったのか、物凄い形相で俺を見つめた。
「しかし、愛のない妻など……」
公爵は、なんとかジーナの婚姻をやめさせようとした。
「俺にはジョセフィーヌがいる。正妃は子さえ産めばよい。なぜかジーナ殿は俺とオリエとの仲を心配してくれているようだが、俺は離縁をする気など一切ない。たとえ誰かが何かをしようとも。だから安心してバルセルナ辺境伯の元へ嫁げばいい」
――邪魔なジーナはとにかく辺境伯のところへでも行ってもらう。お前など何があっても娶ることなどない!
ジーナは下唇を強く噛み締めて俺を睨んできた。
公爵はまだ何か言おうと何度も口を開きかけては閉じていた。
「ジーナ嬢、君にはバルセルナ辺境伯と幸せに暮らしてほしい」
「……っな、わたし……」
「君に拒否権はない」
――ジーナには一切文句を言わせはしない。
俺の大事なオリエに毒を盛ろうとしたんだ。俺の目の前からいずれは消し去ってやる。
お前達の悪行についてあと少しで証拠が全て揃う。
公爵にも一言。
「あぁ、この綺麗な瓶、気になっているようだからやるよ、今夜はゆっくり休んでくれ」
お前達を逃しはしない。周りの奴らも纏めて排除してやる。
俺は柔らかに笑った。
公爵達が帰ったあと、俺は自分の執務室にいた。
「この書類は?」
ブライスが持ってきた書類や手紙の中から気になるものが出てきた。
「はい、こちら金額がかなり捏造されています」
「こんなに税金を長年誤魔化していたのか……」
ブルーゼ公爵は、領地の収入をかなり低く報告して脱税をしていることがわかった。
国に報告をしている税率が、領民に課している税率と違う。
さらに自身の商売で得た利益も大幅に低く報告している。
税務官に賄賂を渡して監査報告も誤魔化してもらい、長年見逃してもらっていたようだ。
かなり悪質だ。公爵だけではなく、公爵が親しくする貴族達もそれに倣っていた。
これはまだまだ調べないといけないことが増えそうだ。
陛下に報告をして調査員を増やそう。
またこれでオリエに会いに行けなくなる。
俺は忙しく動き回り、オリエに関する報告を聞くだけの毎日を仕方なく過ごした。
「あー、オリエが離縁の準備を始めたらしい」
影から報告を聞いて俺が頭を抱えていると、ブライスは呆れた顔をした。
「殿下、だから言ったでしょう! 貴方がジーナ様なんかと付き合うから! あんな権力好きの女と付き合った貴方が悪いんですよ。それもまだ十三歳だったオリエ様の前でイチャイチャして、彼女がどれだけ悲しそうな顔をしていたか……さらにジョセフィーヌ様ともベッタリで。捨てられて当たり前ですよ、俺ならもっと早くに捨てていますね」
「……どうしてもオリエには素直に好きだ、愛していると言えないんだ。あいつの前では平然としていられない……どうでもいい他の女の前なら、いくらでも笑顔になれるのに」
「完全に拗れて歪んでいますね、捨てられるしかないですよ」
「お前、それでも側近か?」
「俺しかここまで言ってあげられる人はいないでしょう?」
「……手放すしかないのか? オリエの幸せのために……」
――俺以外の横で他の男とオリエが微笑んでいるなんて……考えただけでおかしくなりそうだ。
◇ ◇ ◇
少しずつわたしの生活は変わってきた。
騎士団での鍛錬も楽しい。市井で子供達と接するのも楽しい。
孤児院の慰問だけではない。実際、いくつかの家を作業場として借り、子供達はそこで仕事を覚え始めている。わたしはできるだけ時間を作ってそこにも顔を出している。
算術や字はもちろんのこと、刺繍ならそれこそ手をとって教えてあげられる。
この作業所にわたしが子供の頃読んだ本をたくさん置いて、自由に読んでもらう。
子供達は本に触れることが少ないので興味津々、みんな字を覚えるのもとても早い。
でもここではお金を稼げない。
だからきちんと子供達を管理する者を置き、ここでした勉強や作業に一定の基準を設け、その分を給金として支払う。
花を売ったりして稼ぐのと今は変わらないくらいしか貰えないが、自分のために技術を身につけながら稼げるので、ここに来る子供も増えてきた。
でもこの作業所は赤字で売り上げなどほとんどない。
ここの経営費はわたしの懐から出している。
最近はこの動きに賛同してくれる貴族の人達も出資してくれるようになった。
わたしが提案したのだが、マチルダの兄であるアンドラが中心で動いている。
アンドラも公爵家の使用人で、お兄様にお願いして彼に助けてもらっている。
軌道に乗れば、ただのボランティアではなくてきちんとした利益の出る仕事として公爵家で取り入れてくれるよう、確約もとった。
先は長いけど、わたしは王太子妃として過ごすよりも市井で子供達と楽しく過ごす方が向いている気がする。
「オリエ様、ここはどうしたらいい?」
図案を写し刺繍を刺していくのだが、やはりステッチの仕方がいろいろあって、糸の色や縫い方の組み合わせは難しい。器用な子もいれば不器用な子もいる。
女の子でも刺繍が苦手な子はアクセサリー作りをしたり、屑石の加工をしたりする。算術に向いている子もいる。
逆に男の子でも、細かい作業が得意な子はアクセサリー作りをする子もいる。
ただ、ここで働き技術を教えてあげる代わりに条件を一つだけ作った。
来たら必ず算術と字の勉強を三十分はして帰ること。
これをしない子供は受け入れない。
勉強が得意な子供はさらに難しい算術を覚えてもらい、字も完璧に書けるようになればお店で雇ってもらえるように知識をつけていく。
これは時間がかかりすぐに成果は出ないけど、いずれは本人達の糧になるはず。
そしていくつかの作業を通してそれぞれ自分に合うものを見つけて覚えていく。
いずれはもっと作業の種類も増やしていきたいと、アンドラ達がわたしの手を離れて動き始めてくれた。
『オリエ様、わたし達の力でできることはまだまだ少ないのです。それでも一緒に何ができるのか、考えていきませんか?』
マチルダに言われた言葉は、今少しずつだけどみんなの力で実現し始めた。
細く長く、ゆっくりと。
久しぶりにお茶会に招待されて、マリイ様のお屋敷へ向かうことになった。
マチルダ達にギュウギュウにコルセットの紐を締められて重たいドレスを着て、髪の毛もがっちりとセットされて久しぶりのお洒落は窮屈で苦しいだけ。
「ふう」
大きな溜息を吐くと、マチルダがすかさず「最近お洒落をサボっていたからですよ」と一言。
――うっ、この頃、わたしの扱いが雑。
「ふふ、確かに。でももうすぐ王太子妃ではなくなるのよ? 平民になるの」
わたしはマチルダ達に笑みを浮かべた。
「はいはい、オリエ様、平民になるならギルと一緒に三人で暮らしますので、いつでも言ってください」
「あら? なんだか適当な返事?」
「そんなことはございません。オリエ様を一人にしたら何をしでかすかわからないので、いつまでもおそばにいますよ」
「マチルダったら、わたし子供じゃないのよ?」
――もう! 本気にしてくれないのね。
マリイ様は侯爵家で、わたしの幼い頃からの数少ない友人だ。
お飾りの王太子妃になってからは、公爵令嬢で王太子の婚約者のわたしに今まで媚を売ってきた人達がどんどんいなくなった。その中で友人でい続けてくれた、心を許せる大切な人。
「オリエ妃殿下にご挨拶申し上げます。ようこそいらっしゃいました」
「マリイ様、お招きいただきありがとうございます」
わたしは柔らかに微笑んで挨拶をする。
そして目を合わせるとお互いクスッと笑い合い、すぐに砕けた口調になった。
「オリエ様、実家に帰ったと聞いていますが、離縁を? 微力ながら我が家もいつでもお手伝いいたしますわ」
オリエが実家に帰ってから数週間が経ってしまった。
「迎えに行きたい」
俺がボソッと呟くと、すぐに言葉が返ってきた。
「オリエ様は今ご実家で充実した日々を送っておりますので、どうぞジョセフィーヌ様と仲睦まじくお過ごしください」
「お前まで言うのか、側近のくせに」
俺の側近であるブライス・ベナートル、伯爵家次男で幼い頃からの幼馴染でもある。
「ジョセフィーヌ様に愛しているなど言ってイチャイチャしながら過ごす姿を皆見ております。今更演技だと言われても、そちらの言葉を疑いたくなります」
「……そんな風に見えるか?」
「はい、側妃に夢中になる王太子に見えます」
「嬉しくはないが仕方ない。それがこちらの思惑なんだからな」
「ブルーゼ公爵の動きは?」
「オリエ様が実家に戻られたと聞いてご機嫌が麗しいようですね」
「ふうん、では一度呼び出してみるか」
「どうして?」
「向こうも俺がオリエに対してどう考えているか知りたいだろう?」
「ジーナ様もついて来られるのでは?」
「アレは鬱陶しいが、父親の公爵と一緒の方が罠もかけやすいかもしれない。その時はジョセフィーヌも連れて行くとしよう」
「ジョセフィーヌ様の命が狙われるのでは?」
「いや、その危険はない。ジーナは俺を愛しているわけではない、愛しているのは自分を王妃にしてくれる地位だ。正妃でなければ王妃になれないから、俺に固執している。ジョセフィーヌは絶対に側室のままだ」
「どうしてそう言いきれるのですか?」
「父上である陛下が、ジョセフィーヌの父親に側室として迎えるならよいと、俺との結婚を許可したんだ。彼女は茶色の髪だろう? 王妃の絶対条件であるブロンドじゃないからな」
「そう言えば……王妃は皆ブロンドですね……側妃様は確かに違う髪の色……」
「だからオリエは三歳で俺の婚約者になったんだ。あのブロンドはこの国でもなかなか少ない、輝くほど綺麗な髪だ」
「ジーナ様もブロンドではありますが、まぁ、普通ですもんね」
「ジーナのプライドが許さないんだろうな、同じ公爵家の娘として。オリエがいなければ自分が選ばれたと考えているはずだ」
◇ ◇ ◇
兄様は忙しく、なかなか手合わせをしてもらえないまま時間が経ってしまった。
オーヴェン様はなぜかわたしのそばにいる。
今もにこにこ笑顔で「オリエ様、このお茶とても美味しいですね」と、なぜか二人でお茶をして過ごす時間が増えた。
「ほんと、美味しいですね。……ところでオーヴェン様はお仕事がお忙しいのでは?」
「最近はオリエ様の兄君がしっかりしてきたので、わたしはゆっくりさせていただいております」
「お兄様が? オーヴェン様に比べたらまだまだでしょう?」
「いえいえ、ここ最近は技術も上達してきましたし、まだ弱い面もあった精神もかなり強くなられました。立派な当主にいつでもなれるでしょう」
「まあ、そうなのですか?」
――一年以上も実家を離れていたのだもの、気がつかないうちに周りは変化しているのね。
少し寂しい気持ちになった。
そんな会話の途中、わたしはここ最近考えて動いていたことをオーヴェン様に話してみた。
「オーヴェン様は市井で子供達が働いていることはご存じですか?」
「もちろん知ってはいます、片親の子、貧しい子達は皆働いているでしょう」
「それでは、その子達の労働環境や賃金についてはどうですか?」
「いえ、そこまでは……」
「わたしも調べるまではほとんど知りませんでした。雇い主への隷属、劣悪な労働環境、生活するには足りないほどの低い賃金……その子達が少しでも今の生活の状態を改善できないかとずっと考えていました。わたしの力では何もできない……それでも何かをしたい。唯一わたしができること……子供達に安心して働く場所と技術を与えたいのです」
「働く場所と技術?」
「はい……女の子達には刺繍や裁縫を教え、それを仕事にしてもらおうかと……男の子達には算術や字を教え、ゆくゆくはお店を開けるようになってもらいたいのです。もちろん全ての子供を救うことはできませんが、少しずつ輪を広げていきたい。わたしは資産としてお父様から領地をいただいております。それに鉱山も……それらを使い、投資したいのです。お力を貸していただけないでしょうか?」
「大変なことですよ。口では簡単に言えますが、結果が出るには数年の時間がかかります」
「わかっています、ですからオーヴェン様にお願いしているのです。オーヴェン様は商会も運営されていらっしゃいますよね? 子供達にそういった技術を教えていただけそうな方を何人かご紹介願えませんか」
わたしはオーヴェン様の目を見つめて言った。
「算術や字ならわたしも教えられます。街の方々にこの先の展望をお話ししたところ、数名の方から無償のご援助を約束いただきました。子供達は覚えが早いですから、最初の何人かにきちんと指導すれば、その子達が下の子達に教えてくれるでしょう。また別の子達には、鉱山から出た商品にならない宝石の屑石を加工し、安価な宝飾品を作れるよう、今技術を習得してもらっています。市井で売ってもらいたくて。そしてその加工した屑石はドレスなどの飾りとしても使えないか、と思っております」
「ほう、確かに屑石は捨てるしかないものですが、そう上手くいきますか?」
「マチルダ、持ってきてくれる?」
「はい」
マチルダに頼んで試作品をいくつか持ってきてもらった。貴族が着る豪華なドレスではなく、市井で普通に誰でも買えそうなドレスの胸元に小さな宝石を鏤めてみたのだ。
「とても綺麗ですね、元々が屑石とは思えません。それにこのドレスもいい出来だ。これなら売り物になるでしょう」
「本当ですか? これは数人の子供達に教えて作らせたものです。ドレスも着なくなったものを再利用したのです。覚えたばかりの縫製の技術を使って」
「子供達に? それにドレスを再利用したと?」
「はい、そしてこれがブレスレットとネックレスです」
小さな宝石に穴を開けて繋げた色とりどりの宝石。とても可愛らしくできている。
「これは……売れますね」
オーヴェン様は細やかな宝飾を見て顔を綻ばせていた。
「凄いでしょう? 子供達は手が小さいので細かい作業がとても上手なのです。それに頑張ればお金になるとわかっているので、一生懸命覚えてくれました。きちんとした技術が身につけば、将来、独立できる可能性もあります。こうして子供達が得意分野の技術を習得していけば、たとえ貧しく暮らすことになっても、楽しく働いて生きていけるのではないかと思ったのです。同じ働くなら楽しまなくては」
最初は夢物語かもしれない、でもわたしは懸命に言い募る。
「もちろん簡単なことではありません。だからお父様にも頼んで貴族の方達に少しでも力になってもらえるようにお願いするつもりです。施しではなくて自分達の力で生きていけるように少しでも力になれればと考えています」
「そこまで考えていらっしゃるとは……わかりました。ではわたしも少しですが、何ができるか考えてみましょう」
「ありがとうございます、ぜひお力をお貸しください」
わたしはこれからいろいろな人達に頭を下げてまわるつもりだ。
オーヴェン様のように上手く話が進まないことが多いのはわかっている。それでも動き出した。
わたしは突き進むつもりだ。
◇ ◇ ◇
「ブルーゼ公爵が今日登城してきた? ジーナも一緒か?」
ブライスの話に呆れながら聞いた。
確かに俺は呼び出した。だがまだ日にちすら決まっていないのに、彼は強引にやって来た。
俺は舐められているのか?
俺がオリエと別れてジーナと結婚するとでも思っているのか?
オリエに毒を盛り殺そうとした女を娶るなんてあり得ないのに!
俺はオリエに毒を盛って死んだ使用人と仲の良かった使用人を、わざとジーナ達のお茶の世話係とした。そしてその者に告げる。
「いいか、毒が入っていた瓶に無害な薬を入れた。これをあの二人にわかるように見せつつ、だがこっそりと入れろ。あの二人がどんな顔をするか、それを飲むのか様子を見たい、できるか?」
「はい、かしこまりました」
そして使用人は二人の前でお茶を淹れ始めた。
俺は二人に柔らかに挨拶をした。
使用人は挨拶している隙に薬をこっそりと入れている。
二人は俺と話しているのにもかかわらず、使用人の手元を見てギョッとした顔をした。
「公爵、どうした?」
俺がわざと問いかけると「いえ、何もございません」と少しうろたえてはいたが、流石に狸。すぐに動揺を隠して笑顔で俺と話し出した。
ジーナも顔を引き攣らせながらも気持ち悪い猫撫で声で話しかけてきた。
「殿下ぁ、お久しぶりです。お会いできなくてぇ、とても寂しかったです」
公爵令嬢がそんな話し方をするか?
俺は鳥肌が立ち、同時になんでこんな女と付き合ったのだろうと昔の自分の愚かさに溜息がでた。
「久しぶりだな」
これが精一杯の返事だった。
「二人とも座ってお茶でも飲んでくれ」
俺がお茶を勧めても手を動かそうとしない。
「このお茶は隣国から取り寄せた珍しい茶葉を使っているんだ、ぜひ飲んでみてくれ」
俺はそう言うと自分のお茶に口をつけた。
二人はビクッとして俺を見つめた。
俺は何食わぬ顔をして飲み続けた。
「どうした? 感想を聞きたいのだが?」
もう一度お茶を勧めると、二人は顔を見合わせて仕方なく口をつけたフリをした。
「そんなにこのお茶が飲みたくないのか?」
俺はわかっていながら、さらに勧めた。
「え、いえ、飲みます」
二人とも慌てて飲み始めた。
「美味しいだろう? うちの使用人が美味しくなるようにと、この瓶に入っているエキスを一滴入れたんだ」
「その瓶は? え? あ、あの……」
「うちの使用人が持っているのを見て、教えてもらったんだ。この国では珍しいエキスで体にとてもいいらしい。もっと入れた方が効果があるかもしれないな、俺が入れてやろう」
俺は瓶の蓋を開けてたくさん入れ、「さあどうぞ」と勧めた。
「殿下、そんなにたくさん入れたら飲めません」
「どうして?」
「だって、何が入っているかわからないではないですか?」
「俺も今飲んだが、美味しかったぞ。うちの使用人が何か変なものを入れたと言いたいのか?」
俺は二人を睨みつけた。
「め、滅相もありません。そう言えば、わたくしめを呼び出された理由をお伺いしてもよろしいですか?」
公爵は話をすり替えようと必死だ。
この瓶の中身はすり替えているのでもちろん毒ではない。これは下剤だ。
今夜は二人とも眠れぬ素敵な夜を過ごすことになるだろう。
「ああ、陛下から伝言を預かっていてな」
「陛下からの?」
「ジーナ嬢、君にはバルセルナ辺境伯の元へ嫁いでもらうことになった。公爵令嬢がまだ嫁に行っていないことを陛下がとても心配されて決められたそうだ、よかったな」
「な、な、なぜ?」
「なぜって、陛下のお優しいご配慮に決まっているだろう?」
俺はジョセフィーヌを隣に座らせて仲睦まじい姿を見せながら話す予定だったのに、突然の訪問でできなかった。だからいきなり来た二人に対して、真っ先に意地悪く切り返した。
恐々とお茶を飲む二人に追い打ちをかけて言った。
陛下にジーナとバルセルナ辺境伯の婚姻を勧めたのはもちろん俺だ。
辺境伯は少しクセのある男で、なかなか嫁の来手がない。令嬢達からは敬遠されている変わり者だ。ジーナとの話を持っていくとすぐに了承した。
公爵がいくら嫌な顔をしても陛下からの勧め、それは王命と同じだ。
婚約者のいない行き遅れのジーナに断る術はない。
だから俺はニヤッと笑った。
「俺はオリエを離縁する予定はない。アレはお飾りとは言え、いずれ王妃となるだけの才と気品を持っている。彼女ほど俺にふさわしい王太子妃はいない。それにあの見事なブロンドの髪は俺の後継を産むのにふさわしい。なぁ、公爵もそう思うだろう?」
――ジーナには王妃としての品格も才能もない。お前はふさわしくないのだ。オリエは比べようがないほど優秀だ。
ジーナは俺の言葉の意味がわかったのか、物凄い形相で俺を見つめた。
「しかし、愛のない妻など……」
公爵は、なんとかジーナの婚姻をやめさせようとした。
「俺にはジョセフィーヌがいる。正妃は子さえ産めばよい。なぜかジーナ殿は俺とオリエとの仲を心配してくれているようだが、俺は離縁をする気など一切ない。たとえ誰かが何かをしようとも。だから安心してバルセルナ辺境伯の元へ嫁げばいい」
――邪魔なジーナはとにかく辺境伯のところへでも行ってもらう。お前など何があっても娶ることなどない!
ジーナは下唇を強く噛み締めて俺を睨んできた。
公爵はまだ何か言おうと何度も口を開きかけては閉じていた。
「ジーナ嬢、君にはバルセルナ辺境伯と幸せに暮らしてほしい」
「……っな、わたし……」
「君に拒否権はない」
――ジーナには一切文句を言わせはしない。
俺の大事なオリエに毒を盛ろうとしたんだ。俺の目の前からいずれは消し去ってやる。
お前達の悪行についてあと少しで証拠が全て揃う。
公爵にも一言。
「あぁ、この綺麗な瓶、気になっているようだからやるよ、今夜はゆっくり休んでくれ」
お前達を逃しはしない。周りの奴らも纏めて排除してやる。
俺は柔らかに笑った。
公爵達が帰ったあと、俺は自分の執務室にいた。
「この書類は?」
ブライスが持ってきた書類や手紙の中から気になるものが出てきた。
「はい、こちら金額がかなり捏造されています」
「こんなに税金を長年誤魔化していたのか……」
ブルーゼ公爵は、領地の収入をかなり低く報告して脱税をしていることがわかった。
国に報告をしている税率が、領民に課している税率と違う。
さらに自身の商売で得た利益も大幅に低く報告している。
税務官に賄賂を渡して監査報告も誤魔化してもらい、長年見逃してもらっていたようだ。
かなり悪質だ。公爵だけではなく、公爵が親しくする貴族達もそれに倣っていた。
これはまだまだ調べないといけないことが増えそうだ。
陛下に報告をして調査員を増やそう。
またこれでオリエに会いに行けなくなる。
俺は忙しく動き回り、オリエに関する報告を聞くだけの毎日を仕方なく過ごした。
「あー、オリエが離縁の準備を始めたらしい」
影から報告を聞いて俺が頭を抱えていると、ブライスは呆れた顔をした。
「殿下、だから言ったでしょう! 貴方がジーナ様なんかと付き合うから! あんな権力好きの女と付き合った貴方が悪いんですよ。それもまだ十三歳だったオリエ様の前でイチャイチャして、彼女がどれだけ悲しそうな顔をしていたか……さらにジョセフィーヌ様ともベッタリで。捨てられて当たり前ですよ、俺ならもっと早くに捨てていますね」
「……どうしてもオリエには素直に好きだ、愛していると言えないんだ。あいつの前では平然としていられない……どうでもいい他の女の前なら、いくらでも笑顔になれるのに」
「完全に拗れて歪んでいますね、捨てられるしかないですよ」
「お前、それでも側近か?」
「俺しかここまで言ってあげられる人はいないでしょう?」
「……手放すしかないのか? オリエの幸せのために……」
――俺以外の横で他の男とオリエが微笑んでいるなんて……考えただけでおかしくなりそうだ。
◇ ◇ ◇
少しずつわたしの生活は変わってきた。
騎士団での鍛錬も楽しい。市井で子供達と接するのも楽しい。
孤児院の慰問だけではない。実際、いくつかの家を作業場として借り、子供達はそこで仕事を覚え始めている。わたしはできるだけ時間を作ってそこにも顔を出している。
算術や字はもちろんのこと、刺繍ならそれこそ手をとって教えてあげられる。
この作業所にわたしが子供の頃読んだ本をたくさん置いて、自由に読んでもらう。
子供達は本に触れることが少ないので興味津々、みんな字を覚えるのもとても早い。
でもここではお金を稼げない。
だからきちんと子供達を管理する者を置き、ここでした勉強や作業に一定の基準を設け、その分を給金として支払う。
花を売ったりして稼ぐのと今は変わらないくらいしか貰えないが、自分のために技術を身につけながら稼げるので、ここに来る子供も増えてきた。
でもこの作業所は赤字で売り上げなどほとんどない。
ここの経営費はわたしの懐から出している。
最近はこの動きに賛同してくれる貴族の人達も出資してくれるようになった。
わたしが提案したのだが、マチルダの兄であるアンドラが中心で動いている。
アンドラも公爵家の使用人で、お兄様にお願いして彼に助けてもらっている。
軌道に乗れば、ただのボランティアではなくてきちんとした利益の出る仕事として公爵家で取り入れてくれるよう、確約もとった。
先は長いけど、わたしは王太子妃として過ごすよりも市井で子供達と楽しく過ごす方が向いている気がする。
「オリエ様、ここはどうしたらいい?」
図案を写し刺繍を刺していくのだが、やはりステッチの仕方がいろいろあって、糸の色や縫い方の組み合わせは難しい。器用な子もいれば不器用な子もいる。
女の子でも刺繍が苦手な子はアクセサリー作りをしたり、屑石の加工をしたりする。算術に向いている子もいる。
逆に男の子でも、細かい作業が得意な子はアクセサリー作りをする子もいる。
ただ、ここで働き技術を教えてあげる代わりに条件を一つだけ作った。
来たら必ず算術と字の勉強を三十分はして帰ること。
これをしない子供は受け入れない。
勉強が得意な子供はさらに難しい算術を覚えてもらい、字も完璧に書けるようになればお店で雇ってもらえるように知識をつけていく。
これは時間がかかりすぐに成果は出ないけど、いずれは本人達の糧になるはず。
そしていくつかの作業を通してそれぞれ自分に合うものを見つけて覚えていく。
いずれはもっと作業の種類も増やしていきたいと、アンドラ達がわたしの手を離れて動き始めてくれた。
『オリエ様、わたし達の力でできることはまだまだ少ないのです。それでも一緒に何ができるのか、考えていきませんか?』
マチルダに言われた言葉は、今少しずつだけどみんなの力で実現し始めた。
細く長く、ゆっくりと。
久しぶりにお茶会に招待されて、マリイ様のお屋敷へ向かうことになった。
マチルダ達にギュウギュウにコルセットの紐を締められて重たいドレスを着て、髪の毛もがっちりとセットされて久しぶりのお洒落は窮屈で苦しいだけ。
「ふう」
大きな溜息を吐くと、マチルダがすかさず「最近お洒落をサボっていたからですよ」と一言。
――うっ、この頃、わたしの扱いが雑。
「ふふ、確かに。でももうすぐ王太子妃ではなくなるのよ? 平民になるの」
わたしはマチルダ達に笑みを浮かべた。
「はいはい、オリエ様、平民になるならギルと一緒に三人で暮らしますので、いつでも言ってください」
「あら? なんだか適当な返事?」
「そんなことはございません。オリエ様を一人にしたら何をしでかすかわからないので、いつまでもおそばにいますよ」
「マチルダったら、わたし子供じゃないのよ?」
――もう! 本気にしてくれないのね。
マリイ様は侯爵家で、わたしの幼い頃からの数少ない友人だ。
お飾りの王太子妃になってからは、公爵令嬢で王太子の婚約者のわたしに今まで媚を売ってきた人達がどんどんいなくなった。その中で友人でい続けてくれた、心を許せる大切な人。
「オリエ妃殿下にご挨拶申し上げます。ようこそいらっしゃいました」
「マリイ様、お招きいただきありがとうございます」
わたしは柔らかに微笑んで挨拶をする。
そして目を合わせるとお互いクスッと笑い合い、すぐに砕けた口調になった。
「オリエ様、実家に帰ったと聞いていますが、離縁を? 微力ながら我が家もいつでもお手伝いいたしますわ」
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