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16 熱誠
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「俺がフェアウェルなんてひと言もアナウンスしてないんだけどな」
晶は美容師と晴也の双方に話しているらしかった。彼の黒い髪にヘアクリップを素早く差し込みながら、美容師の女性が笑う。
「フェアウェルだなんて、夏にまたカムバックなさるんでしょ?」
「誰か他の人入って席が無かったりして」
「えーっ」
ルーチェではドルフィン・ファイブが「ショウ頑張ってね壮行会」プログラムを準備している。その情報は公開されていないが、晶がロンドン出発直前に出演する4月の最終週、水金の2公演に予約が殺到していた。
晴也と美智生は優弥から情報を得ていたので、明里とナツミこと夏紀、藤田と牧野を含むめぎつねの常連客4名の席を金曜に確保している。
「でもルーチェのホームページに、5月から7月がショウ、6月がサトルが出ないって書いてた」
晴也は鏡越しに、晶と美容師に言った。晴也の髪にハサミを入れている若い男性美容師は、くすっと笑った。
「それじゃお客様もわかりますよね」
サトルも「レ・ミゼラブル」に出演するため、ルーチェを休むことになった。だから6月は、ドルフィン・スリーになってしまう。優弥はゲストを呼ぶために動いているが、水曜の出演を尻込みされたとLINEで話していた。
「福原さんの髪いい色ですね、染めてないですよね?」
美容師に言われて、晴也はあ、はい、とどぎまぎ答える。この美容院は晶の行きつけで、晴也は今日何故か、晶の散髪につき合わされていた。
銀座のヘアサロンは、晴也の実家の近くの美容院に比べると圧倒的にお洒落で、一人なら絶対に入らないところだ。大きな窓が店内を広く明るく見せ、白い壁にはいろいろな花の絵が飾られている。席数は4つしかなく、大きな椅子は座り心地が良かった。店内は仄かに柑橘系の爽やかな香りがする。
晶は「お兄ちゃん」こと美智生から、弟を垢抜けさせてやってくれと頼まれたらしかった。そろそろ髪を切らなくてはいけないと思ってはいたものの、何故わざわざ銀座まで来なくてはいけないのだろうという疑問が拭えない。晴也はカットの料金を晶に訊き、許せる価格だったので承諾したものの、いざ来てみると落ち着かないことこの上なかった。
「緩い癖があるのが可愛いですよね、これ生かしましょう」
美容師の提案に、晴也ははい、と答えるのみである。可愛いだなんて、絶対に彼のほうが歳下だ。晶が言う。
「可愛くしてやって、俺はこの人が陰気な空気を醸し出してるのも好きなんだけど、最近もったいないなと思い始めて」
晶はぺらぺら話して上機嫌である。2人の美容師が、自分たちの関係をどう解釈するかと思うと、晴也はますます落ち着かなくなる。
「ふふふ、吉岡さん好みにするんですか?」
「まあね、でもこの人モテるから、あまり垢抜けさせると会社で変な虫がたかってくるから悩ましい」
隣からそんな会話が聞こえて、晴也は肩の力を抜いた。何だ、バレてるのか。
晴也は美容師がハサミを動かす度に聞こえるじゃきっという音が、やけに近い気がして鏡を見た。
「あ、あの……あまり短くしないで欲しいです」
晴也は躊躇いつつ言った。えっ? と美容師は手を止める。
「ベリーショートだとふわふわした……」
スカートが合わせにくくなる。言いかけて慌てて口を噤む。サイドの髪を切られている晶が、鏡越しに晴也を見た。
「あ、ハルさん女装バーに勤めてるんだ、女子感高い恰好が似合わなくなるほど切らないであげて」
言うな馬鹿! 晴也は叫びそうになった。晶の言葉に2人の美容師は目を丸くした。晴也は背中に冷や汗が流れそうになり、赤くなって少し俯く。そして晶を鏡越しに睨みつけた。
「すみません、任せていただくと言ってもご要望は伺うべきでした」
美容師に慌てたように言われて、晴也はこちらこそすみません、と小さく応じた。
「いえいえ、なるほど……きれいな人だなって思ったんです、納得」
「吉岡さんが目敏いというか、福原さんが眼鏡や髪で顔を隠してもその奥を見てるという……」
美容師たちは楽しげに語らう。晶もにやにやしながら会話に交じった。
「二目惚れしたの、昼間と夜に続けて偶然会うとか運命的でない?」
うわぁ、と美容師たちは盛り上がる。晴也はまたいたたまれない気持ちになった。晶と一緒に誰かに会うたびこれだから、たまらない。晴也は近しい人になら、自分たちの関係を打ち明けても構わないと考えていた。先週の李整形外科クリニックも、まあ良しとしよう。しかし、美容院はどうなのか……。
晴也は黙って視線を下にやる。他に客がいなくて、本当に良かった。誰とも目が合わないように、視界を下方に固定した。こういう軽い会話が無意味に続く雰囲気は、学生時代から苦手だ。めぎつねのハルでないときは、尚更。
晶は美容師と晴也の双方に話しているらしかった。彼の黒い髪にヘアクリップを素早く差し込みながら、美容師の女性が笑う。
「フェアウェルだなんて、夏にまたカムバックなさるんでしょ?」
「誰か他の人入って席が無かったりして」
「えーっ」
ルーチェではドルフィン・ファイブが「ショウ頑張ってね壮行会」プログラムを準備している。その情報は公開されていないが、晶がロンドン出発直前に出演する4月の最終週、水金の2公演に予約が殺到していた。
晴也と美智生は優弥から情報を得ていたので、明里とナツミこと夏紀、藤田と牧野を含むめぎつねの常連客4名の席を金曜に確保している。
「でもルーチェのホームページに、5月から7月がショウ、6月がサトルが出ないって書いてた」
晴也は鏡越しに、晶と美容師に言った。晴也の髪にハサミを入れている若い男性美容師は、くすっと笑った。
「それじゃお客様もわかりますよね」
サトルも「レ・ミゼラブル」に出演するため、ルーチェを休むことになった。だから6月は、ドルフィン・スリーになってしまう。優弥はゲストを呼ぶために動いているが、水曜の出演を尻込みされたとLINEで話していた。
「福原さんの髪いい色ですね、染めてないですよね?」
美容師に言われて、晴也はあ、はい、とどぎまぎ答える。この美容院は晶の行きつけで、晴也は今日何故か、晶の散髪につき合わされていた。
銀座のヘアサロンは、晴也の実家の近くの美容院に比べると圧倒的にお洒落で、一人なら絶対に入らないところだ。大きな窓が店内を広く明るく見せ、白い壁にはいろいろな花の絵が飾られている。席数は4つしかなく、大きな椅子は座り心地が良かった。店内は仄かに柑橘系の爽やかな香りがする。
晶は「お兄ちゃん」こと美智生から、弟を垢抜けさせてやってくれと頼まれたらしかった。そろそろ髪を切らなくてはいけないと思ってはいたものの、何故わざわざ銀座まで来なくてはいけないのだろうという疑問が拭えない。晴也はカットの料金を晶に訊き、許せる価格だったので承諾したものの、いざ来てみると落ち着かないことこの上なかった。
「緩い癖があるのが可愛いですよね、これ生かしましょう」
美容師の提案に、晴也ははい、と答えるのみである。可愛いだなんて、絶対に彼のほうが歳下だ。晶が言う。
「可愛くしてやって、俺はこの人が陰気な空気を醸し出してるのも好きなんだけど、最近もったいないなと思い始めて」
晶はぺらぺら話して上機嫌である。2人の美容師が、自分たちの関係をどう解釈するかと思うと、晴也はますます落ち着かなくなる。
「ふふふ、吉岡さん好みにするんですか?」
「まあね、でもこの人モテるから、あまり垢抜けさせると会社で変な虫がたかってくるから悩ましい」
隣からそんな会話が聞こえて、晴也は肩の力を抜いた。何だ、バレてるのか。
晴也は美容師がハサミを動かす度に聞こえるじゃきっという音が、やけに近い気がして鏡を見た。
「あ、あの……あまり短くしないで欲しいです」
晴也は躊躇いつつ言った。えっ? と美容師は手を止める。
「ベリーショートだとふわふわした……」
スカートが合わせにくくなる。言いかけて慌てて口を噤む。サイドの髪を切られている晶が、鏡越しに晴也を見た。
「あ、ハルさん女装バーに勤めてるんだ、女子感高い恰好が似合わなくなるほど切らないであげて」
言うな馬鹿! 晴也は叫びそうになった。晶の言葉に2人の美容師は目を丸くした。晴也は背中に冷や汗が流れそうになり、赤くなって少し俯く。そして晶を鏡越しに睨みつけた。
「すみません、任せていただくと言ってもご要望は伺うべきでした」
美容師に慌てたように言われて、晴也はこちらこそすみません、と小さく応じた。
「いえいえ、なるほど……きれいな人だなって思ったんです、納得」
「吉岡さんが目敏いというか、福原さんが眼鏡や髪で顔を隠してもその奥を見てるという……」
美容師たちは楽しげに語らう。晶もにやにやしながら会話に交じった。
「二目惚れしたの、昼間と夜に続けて偶然会うとか運命的でない?」
うわぁ、と美容師たちは盛り上がる。晴也はまたいたたまれない気持ちになった。晶と一緒に誰かに会うたびこれだから、たまらない。晴也は近しい人になら、自分たちの関係を打ち明けても構わないと考えていた。先週の李整形外科クリニックも、まあ良しとしよう。しかし、美容院はどうなのか……。
晴也は黙って視線を下にやる。他に客がいなくて、本当に良かった。誰とも目が合わないように、視界を下方に固定した。こういう軽い会話が無意味に続く雰囲気は、学生時代から苦手だ。めぎつねのハルでないときは、尚更。
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