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第1章 幼馴染編
26、俺がいなくなると思ってんの?
しおりを挟む冬休みが終わる頃、たっくんの家では大きな変化があった。
『涼ちゃん』が穂華さんとたっくんのアパートに入り浸るようになったのだ。
その前から彼が家に来る頻度とか滞在時間がどんどん増えていたから、なんとなくこうなる予感はしていた。
それは私の母も同じだったと思うし、当事者であるたっくんは私たち以上に、より一層、より強く、そのことを感じていたんじゃないだろうか。
真っ暗な海の向こう側から波が押し寄せてくると分かっているのに、何処にどう逃げればいいのか分からない。
そうして立ち尽くしている間に足を攫われ、黒い波に飲み込まれていく……。
ああ、来る時が来た……そんな感じだった。
穂華さんと涼ちゃんは2人とも夜の仕事だったから生活パターンもほぼ一緒で、大抵は夜遅く帰ってきて昼近くまで寝ている。
夕方5時過ぎくらいから出勤の準備を始めて、涼ちゃんは6時前に、穂華さんは7時過ぎに、出勤時間に間に合うように家を出る。
だから、たっくんと私が学校から帰って来る時間には、たっくんの家に涼ちゃんがいるということになる。
この頃から、たっくんがあからさまに家に帰るのを嫌がるようになった。
集団下校の列から抜けて、アパートに向かう路地裏に入った途端、たっくんは俯いて深い溜息をつく。
「俺、公園に寄ってこうかな…… 」
すぐ左側にはアパートがあるのに、たっくんは足を右側へと向ける。
「ダメだよ、ランドセルのまま寄り道しちゃいけないって学校で言われてるし。アパートにランドセルを置いてから来ようよ」
「……うん……小夏だけ行けよ」
そのまま公園に入って行くたっくんに、私もついて行く。
たっくんがベンチにランドセルを置いてブランコに向かったので、私も慌てて追いかけて隣に座ったら、ムッとした顔を向けられた。
「なんだよ、帰れよ」
「……。」
なんて言えばいいのか分からなくて黙りこくっていたら、たっくんも黙ったまま、ブランコを漕ぎだした。
前に後ろに大きく足を振って、たっくんのブランコはみるみるうちに、高く上がっていく。
「ハハハッ、小夏、下手くそだな」
下の方で足をバタバタさせて必死にブランコを揺らしていた私は、地面に靴を擦って止まると、そのままたっくんを見上げた。
途中から立ち漕ぎし出したたっくんは、更に高く高く舞い上がって、まるで空に羽ばたく大鷲のようだ。
真っ青な空を青いガラス玉に写して、たっくんの瞳は、空よりもっともっと綺麗に澄み渡っている……。
ブランコが上がりきった所で、突然たっくんがバッとブランコから飛び降りた。
ーー あっ!
高く宙に舞ったたっくんが、そのまま空に吸い込まれて消えていく……。
そう見えたのは、キラキラ輝く眩しい光と逆光のせいで、実際のたっくんは見事に地面に着地していたのだけれど……
だけどその瞬間の、光る空に吸い込まれていくようなたっくんの姿は、しばらく残像となって私の脳裏から離れなかった。
「小夏、ブランコを漕げよ。背中を押してやる」
「ううん、いい。それより滑り台に行こうよ」
「えっ、お前、大丈夫なの? 」
「……たぶん、大丈夫」
驚いているたっくんに向かって私は頷いた。
たっくんに背負われて以来、私は一度も滑り台に登っていない。
たっくんもあれ以上は無理に勧めてこなかった。
だけど、なんだか今日は登りたいと思った。
私は願掛けしたのだ。
ーーもしも今日、自分の足で滑り台に登ることが出来たら、絶対にたっくんはいなくならない……。
私はどうにかして、さっきの残像を打ち消したかったのだと思う。
あの日錆び付いていた滑り台は、今はペンキが塗り替えられて、ちょっとだけ小綺麗になっていた。
「俺がついててやるから、ゆっくり行けよ」
「……うん」
私が先に階段を上がり、後ろからたっくんが腰を支える。
2段、3段……4段目でちょっと躊躇したけれど、後ろから聞こえた「小夏、大丈夫だ」という声に背中を押されて、ゆっくり階段を踏みしめた。
9段……10段……トンッ。
「着いた! 」
踊り場に立ってたっくんを振り返ると、たっくんが大きく口を開けて、「やったな! 」と満面の笑みを浮かべていた。
「やったぞ小夏、頑張ったな! 」
私の頭をガシガシと乱暴に撫でながら、何度も「やったな」と繰り返す。
「髪の毛がボサボサになる! 」
「いいじゃん、また俺が直してやるよ」
「ふふっ……そっか」
あんなに高くて恐ろしく見えた場所が、実際今日登ってみると、それ程でもなくて拍子抜けする。
ーーそうか、たっくんも私もあの頃より大きくなったんだ……。
踊り場の手すりに掴まってゆっくり景色を見渡すと、遠くの方の西の空が、薄っすらと暖かい色に染まり始めていた。
「これで大丈夫、絶対にたっくんはいなくならないよ」
「えっ、どういうこと? お前、俺がいなくなると思ってんの? 俺はずっと小夏といるって言ってるじゃん」
「……うん、そうだよね」
「うん、そうだよ」
いつもより空に近い場所で2人きり。
この穏やかでゆったりした時間を失いたくなくて、私たちは辺りがオレンジ色に包まれるまで、ずっとその場を動かなかった。
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