たっくんは疑問形 〜あなたと私の長い長い恋のお話〜

田沢みん

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第3章 過去編 side 拓巳

7、新しい男

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 母さんがアイツと付き合い始めたのは、俺が小2の秋だった。

 母さんに新しい彼氏が出来たことにはすぐ気付いた。だって母さんの行動は単純で、いつもパターンが決まってたから。

 家に帰ってくるのが遅くなる。
 寝室に篭って長電話をする。
 仕事帰りに車で送られてくるようになる。
 
 この辺りが始まると、『ああ、まただな』と思う。

 夜遅い時間に駐車場に車が入ってきた音がしたと思うと、アイドリングのままそこに停まっている。
 しばらくしてバタンとドアの閉まる音と、車が走り去る音がした後で、アルコールの匂いをさせた上機嫌な母親が帰ってくる。

 俺が肩まで布団に入って寝たフリをしていると、スッと襖が開いて、少しだけリビングの灯りが漏れ、また閉まる。
 そのうちに浴室からシャワーの音と母さんの鼻歌が聞こえてきて、俺はそれをBGMに眠りにつくんだ。

 その初期段階が終わると、次は週末に外泊するようになって、物やお金を貢ぎだす。
 上手くいかなくなってくると、電話でヒステリックに怒鳴ってたり、近所の迷惑も考えずに駐車場で口論を始めたりする。

 あとはお約束のように、家でビールを飲んで愚痴って、昔の恋の話を語りだすんだ。
 好きになって、いつの間にか別れて、しばらくすると、また新しい恋を始める……その繰り返し。


 だけど、今回だけは違ってた。

 皆川涼司《みながわりょうじ》は、俺と母さんだけの暮らしにヌルッと入り込んできた、エイリアンみたいな存在だった。

 初めて見たのはアパートの駐車場で、小夏と一緒に学校から帰ってきたら、駐車場の白いラインを無視して斜めに停めた車のボンネットにもたれてアイツが立っていた。

ーー細くて青白くて幽霊みたいだな。

 それが第一印象。
 あとは、目つきが鋭くてキツネっぽいな……とも思った。

 バタンとアパートのドアが開く音がしてそちらを見たら、仕事用の派手なワンピースを着た母さんが出てきた。
 そこでようやく俺は、コレが『新しい男』なんだと気付いた。

 男は指に挟んでいたタバコを無造作に地面に投げ捨てると、茶色い革のブーツの爪先でグリグリと踏みつけて、俺と小夏の方を見て、ニヤッと右の口角を上げた。
 何故だか言いようのない不安と不快感が胸に湧き上がってきて、思わず小夏の手をギュッと握りしめた。小夏も強く握り返してきたから、たぶん同じように感じていたんだろう。

 その頃から、母さんは『母親』を捨てて、ただの『愚かな女』へと変わっていった。


 それまでは、駐車場まで送ってもらうことはあっても、絶対に家の中までは男を入れなかったのに、アイツにはそれを許した。
 一度そうなると、歯止めがきかなくなるのはあっという間だった。

 ある日学校から帰ってきたら玄関につま先の禿げた茶色いブーツがあって、俺が冷蔵庫を開けていると、寝室にしている和室から母さんが出てき た。
 乱れた髪と汗ばんだ肌が女の匂いをプンプンさせていて、ひどく不快だったのを覚えている。

 後から出てきたアイツが我が物顔で冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出して飲んだ。
 飲みながら俺の方にチラリと視線を寄越して、ニヤリと目を細めた。

ーーここはお前の家じゃないんだ! 出てけよ!

 心の中で思っただけで、口には出せなかった。


 その冬、早苗さんが急に、『お母さん達は大事なお話があるから、公園で遊んできてね』と言い出して、アパートの部屋から外に出されたことがあった。

 その頃には母さんはアイツに夢中になっていて、俺の世話も殆ど早苗さんに丸投げ状態になっていた。
 週末どころか月曜日の朝になっても帰って来ない事があって、俺は肩身の狭い思いをしながら、折原家のお世話になっていた。


 話の内容が気になってそっとアパートに戻ったら、奥の部屋から母親同士が口論しているのが聞こえてきた。
 早苗さんの言葉に耳を貸そうとせずに自分勝手な事を言ってる母親が恥ずかしかったし、情けなかった。

 だけど、もっと衝撃的だったのは、その後に降ってきた言葉の方だった。

『好きで母親になったわけじゃないわよ! 』

 その言葉を聞いた途端に、心臓がドクンと跳ねた。
 実の母親から容赦ようしゃなく浴びせられた言葉は、張り詰めた心の糸をプツンと切るのに十分な威力いりょくを持っていた。

 日本人離れした容姿のせいで嫌な思いをすることもあったけれど、俺の存在を肯定し続けている母親の存在があったから、気にしないでいられた。
 その自分の存在を否定された途端に、今まで保ち続けてきた自信や誇りというものが、足元から一気に崩れ落ちたのを感じた。

 何より俺を打ちのめしたのは、そんな俺の姿を小夏に見られてしまったこと。
 小夏の前でだけは、カッコよくて自信に溢れた男でいたかった。
 こんな惨めな自分を知られたくなかった。

「たっくん! 」

 母親に強く手を引かれながら振り返ると、小夏が裸足で追い掛けてきていた。
 涙をポロポロこぼしている顔を見たら、胸に込み上げてくるものがあって、頬が震えた。

ーー小夏の前で泣くものか……こんな所で、こんな事のために……。


「小夏……お前がなんで泣いてんの? ……泣くなよ」

 ドアがバタンと閉まった途端に、頬をつーっと生暖かいしずくが伝っていった。

 不安そうに見送っていた小夏の泣き顔が、いつまでも頭から離れなかった。
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