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最終章 2人の未来編
36、お前を幸せにして、俺も幸せになる。そうだろ?
しおりを挟む穂華さんの死化粧を施したのはたっくんだった。
医師から死亡宣告を受けたあと、看護師さんと一緒に穂華さんの身体を拭き清めると、最後にたっくんが彼女の髪を整え、顔に紅をさしていく。
外は既に雪が止み、窓からは金色の朝焼けが射し始めていた。
オレンジと金色の光を受けながら、無言で作業を進めていく姿はとても美しく神聖で、私は一言も口を挟まず、黙ってその別れの儀式を見つめていた。
「綺麗だね」
「ああ……ちょっとは若返ったかな」
現実感の無いまま2人して手を握り、死装束に身を包んでいる穂華さんを見下ろす。
口元に笑みをたたえ、薄っすら頬をピンク色に染めたその顔は、まるでただ眠っているだけのようで、今にも目を覚ましてたっくんの名を呼びそうだと思った。
「穂華さん……微笑んでたね」
「うん」
「最後は……涙を流してた」
「ああ、いい夢を見ながら逝けて本望だったんじゃねえの?」
そう言うたっくんの表情はとても穏やかだけど、本心はどうなんだろう……と、その横顔を見ながら考える。
確かに穂華さんは最期に幸福な夢を見ながら旅立って行った。
だけどその瞳に写っていたのは、たっくんではなく、最愛の恋人の姿。
たっくんは、施設で再会後ずっと…… 亡くなるその瞬間でさえも自分を息子だと認識されず、他人の名で呼ばれながら別れを迎えた。
「小夏……なんで泣いてんの?」
「えっ?……ウソっ!」
慌てて頬に触れると、手の平を水の滴が濡らしていた。
「馬鹿だな……またいろいろ考えて同情してくれてるんだろうけど……俺、大丈夫だよ」
フッと笑いながら、たっくんが指先で私の涙を拭っていく。
「母さんは本気で恋をして、心から望んで俺を産んだんだ。俺のことを自慢の息子だって……それが分かっただけで、もう……」
たっくんが頬を震わせ、言葉を詰まらせる。
「俺なんてまだほんの19年しか生きてないけどさ……それでも、俺の人生、捨てたもんじゃないな……って……」
「たっくん……」
眩しそうに目を細めたその表情からは、自分の境遇を恨む様子も悲観する気配も見受けられない。
ーーだけど、それは今だから言えることで……。
母親の男が変わるたびに住む場所を変え、生活を変え、挙げ句の果てに激しい暴力に晒されてきた。
私の前から黙って消えることを強要され、身内に冷遇され、瞳の色を偽り…… 最後は他人の家に置き去りにされ、ようやく再会した母親は息子を目の前にしても気付くことなく……。
痛くて悲しくて苦しくて、絶望の縁で何度も死にたいと思うような辛い日々を……そんな人生を『まんざらでもない』と口にするたっくんに、『本当は違うでしょ?』と踏み込む権利は私には無い。出来やしない。
私がいくら考えてみたところで、たっくんの本心は分かりようがないし、たっくん本人でさえ、あの頃の自分の気持ちを正確に語ることは出来ないんじゃないだろうか。
私たちが今持っている記憶なんて、何度もアップデートされ上書きされたニセモノだ。
そこに自分の願望や期待が混じって都合よく美化されてしまった時点で、 もうあの頃とは違う新しい記憶になってしまっているんだ。
昔作られたモノクロ映画に色をつけて新しくすれば、それはもう全くの別物。
色鮮やかにはなるだろうけど、元の魅力は損なわれ、 そこに元々あった世界観は失われてしまう。
だから私たちが過去を思い浮かべることがあっても、それが本当だとは限らない。
雪の夜の額の痛みが大したことないように思えるのも、真っ赤な血が美しく見えたのも、今の私がそう思っているだけで、本当は違っていたのかも知れない。
9歳の時の私は痛みに泣き叫んでいたのかも知れないし、流れる血に恐怖を感じていたかも知れない。
だけどそんなの私は知らない。あの頃の私の気持ちは、 9歳の私のものだから。
だから、 あの頃のたっくんの気持ちも、 9歳のたっくんだけのものなんだ。
「たっくんは……今はもう死にたいとか思わない?」
「思うかよっ!幸せにしたい女がいるのに、死んでたまるか!勿体ない」
「ふふっ……勿体ない……って」
「俺はまだまだ幸せになるんだよ。お前を幸せにして、俺も幸せになる。そうだろ?」
「そっか……」
そして、今のたっくんの気持ちは19歳のたっくんのもので……。
だけどあなたの気持ちをもっと知りたいから……この日の思い出を2人のものにしていきたいから……
「たっくん、私、もっとたっくんの気持ちを知りたい。話してよ」
「えっ、俺の気持ち?……『小夏、好きだぜ』とか『キスしたい』とか言えばいいの?」
「馬鹿っ!穂華さんの前で何言ってるのよ!……私に遠慮しないで、何でも言ってね……って事」
「うん……サンキュ。だけど俺、お前には思いっきり弱音吐いてるし、本音を言ってるぜ?」
「本当に? 今は? もっと甘えたっていいんだよ?」
「それは……」と、たっくんがちょっと口籠ってから、「それじゃ、甘えさせて……」と抱きついて来た。
「ホント、大好き…… 小夏がいてくれて良かった……」
私の頭に顎を乗せて、グリグリ押し付けてくる。
「うん、よしよし……黙って甘えてなさい」
そう言って背中をポンポンと軽く叩いていたら、
「お前、ちゃんと分かってんの? 俺がこんな風になるのは、小夏の前だけなんだぜ? こんな俺を知って欲しいと思うのも、全部を知りたいと思う相手もお前だけ……」
拗ねたような照れたような表情で顔を覗き込んできた。
「まあ……うん、そうだけどね」
「そうだろ?」
「疑問形が多いよね」
「そうだろ?……って、マジかよっ?!」
「ふふっ……マジマジ」
「マジかっ?!ヤバイな」
ねえ、たっくん……私だって、全てを見せたいと思うのも、全てを知りたいと思う相手もあなただけなんだよ。
だからもっと沢山聞いて、沢山聞かせて。
お互いの心の中を伝え合い、不確かな思い出を、ちゃんと2人のものにしていこうよ……。
ねぇ、たっくん、いいでしょ?
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