愛じゃなくても

美里

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七美は、章吾の腕を引いてアパートのすぐ側の公園に入っていった。
 そこは短い芝生がたち枯れたごく小さな児童公園で、すべり台とブランコだけが秋の澄んだ風に吹かれていた。まだ朝が早いからだろう、七美と章吾の他に人影はない。
 普段は子供の声がアパートの部屋まで聞こえてきたりするのだけれど。
 章吾はぼんやりとそんなことを考え、それと同時に七瀬の背中を思い出した。
 白く、骨が細いあの後ろ姿。
 抱き合ってそのまま眠った次の日、午前中は講義がない土曜日の記憶だ。
 章吾に白い背中をさらし、窓の方を目を細めて眺めながら、子供の声がするね、と七瀬は呟いた。
 彼は、子供が好きだった。章吾とは違って。
 ただ、章吾と生きようとすると、子供との暮らしには越えられない壁ができる。だから彼は、いつも子供から顔を背け、眉をひそめた。
 うるさい、と。
 あの日も多分七瀬は、あの女みたいに細い眉をしかめていたのだろう。
 「……章吾さん?」
 控えめに、七美が章吾を呼んだ。
 彼女はブランコに腰を下ろし、ぼうっと立ち尽くしている章吾を心配そうに見つめていた。
 「……なんでもないよ。」
 章吾は曖昧に微笑んで、彼女の隣、もう一台のブランコに座ってみせた。
 七瀬の子供好きの原点である七美。
 彼女がまだ幼かった頃、自分もまだ子供だと言うのに、七瀬はしきりに彼女の世話をしたがった。
 「お父さんが、ごめんなさい。」
 七美がうつむき、ゆるくブランコを漕ぐ。
 「知っているなら、そう言ってあげればお兄ちゃんも、もっと楽になったかもしれないのに……。」
 章吾はブランコをこげないまま、黙って首を横に振った。
 多分、この世の誰に関係を知られたところで、七瀬は楽にはなれなかった。
 七瀬自身の胸の中に、章吾との関係を禁じるなにかがあった。それは、例えばなにがどうなってもできない子供であったのかもしれないし、他のなにかだったのかもしれない。
 章吾はそのなにかが存在するのを知っていながら、目を背けているしかなかった。一緒にそのなにかに立ち向かうには、章吾から七瀬に向かう感情は頼りなさすぎたのだ。
 一番悪いのは、俺だ。
 愛していると、そんな嘘さえ付けなかった俺だ。
 章吾は膝の上で拳を握りしめる。
 その嘘一つあれば、七瀬は手首に無数の傷をつけることなどなかったのに。
 七瀬の手首が思い浮かぶ。
 無数の傷跡がもはや帯状になって、彼の痩せた手首から肘までを覆う。
 一緒に暮らしていたのに、章吾は一度も彼が自分の手首を傷つけている場面に遭遇したことがない。
 彼は、一人で自分の中のなにかと向き合い、もがき苦しみ、手首を切り、やがて死んだのだ。
 一番悪いのは、一番近くにいたくせに、七瀬の中のなにかと、ともに向き合う責任があったくせに、なにもしないで七瀬を一人でもがかせ、一人で死なせた章吾だ。





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