美里

文字の大きさ
1 / 36

失踪

しおりを挟む
藤が、藤が、藤が、
 そんなざわめきで、夕は目を覚ました。
 土曜の朝。本当ならうんと寝坊をするつもりだったのだが、純和風の作りのこの家は、防音性能がまるでない。
 うんざりした気分で、夕は布団の上に身体を起こす。
 こうやって目を覚まさせられるのは、時々あることだった。藤の咲く時期をとうに過ぎた今でも。
 藤というのは、あの薄紫色の花のことを指すのではない。夕の父親の、愛人の名だ。
 その藤の一挙一投足にこんなざわめきがつきまとうのは、いつものこと。
 藤から離れたいという母の願いでこうやって父の住む家を出、別宅に住むようになっても、なおだ。
 さて、今日は藤がなにをしたのだろうか。
 薄ぼんやりとそんな事を考えながら、夕は寝間着のまま部屋の襖を開ける。
 すると、ちょうど部屋の前を行き過ぎようとしていた陽子と目があった。
 陽子は住み込みで家事をしている女中たちの中では一番歳が若い。夕よりも3つ年下の17歳だ。
 まだ幼気な目付きをした陽子は、寝起きの夕ににこりと笑いかけた。
 「今日は早いお目覚めですね。」
 「昼まで寝ているつもりだった。……藤が、どうかしたのか。」
 寝癖だらけの髪をかき回しながら訊くと、陽子は一瞬躊躇いを見せた。
 藤は、父の愛人だ。夕の母はそのせいで精神を病み、夕を連れてこの別宅に越してきて、もう10年以上が経つ。
 夕は陽子の肩をぽんと叩き、構わないから言ってみろ、と、先を促した。
 すると陽子は、ちらりと周囲に目をやり、誰も近くにいないのを確認した後で、軽く背伸びをして夕の耳元に顔を寄せた。
 「いなくなったんだそうです。昨日の夜中にお屋敷を出たようで。」
 いなくなった?
 夕は少し驚いて陽子の丸い目を見返した。
 陽子は、こくりと一度、ダメ押しのように頷く。
 藤は、15の年に父の愛人として屋敷にやってきた。そこから一切外の世界を知らずに10年以上暮らしていたはずだ。
 そんな男が、今更屋敷を出て、どこか行くあてがあるとも思えなかった。
 そこまで考え、夕は一つの結論にたどり着く。
 それはこの別宅に暮らす女たちも同じだったようで、陽子は意味有りげに一度頷いた。その仕草は、まだ幼さの残る彼女にはそぐわず、夕は思わず苦笑した。
 「なにを笑っているんですか?」
 自分の隠しきれない幼さを自覚している陽子は、眉を釣り上げて怒った。
 なんでもないよ、と彼女をなだめながら、夕は行き当たってしまった一つの結論を、頭の中で繰り返す。
 藤は、死にに行ったのかもしれない。
 
 
 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

窓のない部屋の、陽だまりみたいな君

MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。 そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。 ​そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。 完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。 ​「五分だけ、ここにいさせてくれないか」 ​一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。 次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。 住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...