2 / 36
2
しおりを挟む
くるりと怒りの表情を収めた陽子が、何気ない調子で言う。
「藤、藤、って言いますけど、私、本物の藤さんって見たことないんですよね。」
あまりに素直に変わる表情もまた、彼女の幼さを引き立てるようで、夕は思わず吹き出しそうになったが、また怒られてはたまらない、と表情を引き締める。
彼女の表情ではなく物言いも、まるでどこかに偽物の藤がいるかのようで、夕には可笑しかった。
「そうか。見たことないのか。……そうだよな。陽子はまだここに勤めて一年だもんな。」
「はい。お屋敷にも行ったことがないから……。」
「見てみたい?」
「え?」
「藤。」
戸惑う陽子に、夕は肩をすくめてみせた。
「少なくとも、俺が見たことのある人間の中では、一番きれいだったよ、藤は。今はどうだか、俺も知らないけど。」
夕とてめったに屋敷には足を運ばないし、わざわざ父の愛人を見になど余計に行かない。藤は屋敷の奥に囲われていてめったに外には出ないので、夕が最後に藤を見たのは、もう何年も前だった。
「見ては、みたいですけど……。」
陽子が夕の表情を伺うように、大きな目を軽く細めた。
「じゃあ、行くか。見に。」
夕が言うと、陽子は驚いたようにぱちぱちと目を瞬いた
「でも、だって、藤さんは……、」
「屋敷に顔出してみようぜ。写真くらいはあるだろう。」
言い出したのは、ただの思いつきからだった。
最後に藤と会ったとき。
あれは夕が別宅に越して来て数年が経った日の夕方だった。
まだ中学生だった夕が、学校終わりに別宅に戻ってくると、珍しく玄関先に父親がいた。ちょうど屋敷に戻るところだったらしい。
夕は、頭を下げ、そのまま父親を見送ろうとした。久方ぶりに会ったって、なにを話すような親子関係でもなかった。
その父が、藤を連れていたのだ。
藤色の着物に身を包んだ彼は、父の後ろで細い身体をなおさら細めるようにして俯いていた。
なぜ、藤を連れてきたのだ。母がいる、この別宅に。
夕は怒りを抑えきれずに顔を上げ、父親を睨もうとした。
するとそれより一瞬早く、ごめんなさい、と囁く声がした。
細くても、すんなりと耳に通る、きれいな声。
藤だった。
とっさに顔を上げると、藤は泣きそうな顔で夕を見つめていた。
夕は何も言えず、身動きも取れず、藤の切れ長の両目を見つめ返した。
あれが確か、藤と会った最後。
「……行こう、陽子。」
声は半ば勝手に転がり出た。
陽子は怪訝そうに眉を寄せはしたが、夕の顔を見上げると、行きます、と小さく呟いた。
「藤、藤、って言いますけど、私、本物の藤さんって見たことないんですよね。」
あまりに素直に変わる表情もまた、彼女の幼さを引き立てるようで、夕は思わず吹き出しそうになったが、また怒られてはたまらない、と表情を引き締める。
彼女の表情ではなく物言いも、まるでどこかに偽物の藤がいるかのようで、夕には可笑しかった。
「そうか。見たことないのか。……そうだよな。陽子はまだここに勤めて一年だもんな。」
「はい。お屋敷にも行ったことがないから……。」
「見てみたい?」
「え?」
「藤。」
戸惑う陽子に、夕は肩をすくめてみせた。
「少なくとも、俺が見たことのある人間の中では、一番きれいだったよ、藤は。今はどうだか、俺も知らないけど。」
夕とてめったに屋敷には足を運ばないし、わざわざ父の愛人を見になど余計に行かない。藤は屋敷の奥に囲われていてめったに外には出ないので、夕が最後に藤を見たのは、もう何年も前だった。
「見ては、みたいですけど……。」
陽子が夕の表情を伺うように、大きな目を軽く細めた。
「じゃあ、行くか。見に。」
夕が言うと、陽子は驚いたようにぱちぱちと目を瞬いた
「でも、だって、藤さんは……、」
「屋敷に顔出してみようぜ。写真くらいはあるだろう。」
言い出したのは、ただの思いつきからだった。
最後に藤と会ったとき。
あれは夕が別宅に越して来て数年が経った日の夕方だった。
まだ中学生だった夕が、学校終わりに別宅に戻ってくると、珍しく玄関先に父親がいた。ちょうど屋敷に戻るところだったらしい。
夕は、頭を下げ、そのまま父親を見送ろうとした。久方ぶりに会ったって、なにを話すような親子関係でもなかった。
その父が、藤を連れていたのだ。
藤色の着物に身を包んだ彼は、父の後ろで細い身体をなおさら細めるようにして俯いていた。
なぜ、藤を連れてきたのだ。母がいる、この別宅に。
夕は怒りを抑えきれずに顔を上げ、父親を睨もうとした。
するとそれより一瞬早く、ごめんなさい、と囁く声がした。
細くても、すんなりと耳に通る、きれいな声。
藤だった。
とっさに顔を上げると、藤は泣きそうな顔で夕を見つめていた。
夕は何も言えず、身動きも取れず、藤の切れ長の両目を見つめ返した。
あれが確か、藤と会った最後。
「……行こう、陽子。」
声は半ば勝手に転がり出た。
陽子は怪訝そうに眉を寄せはしたが、夕の顔を見上げると、行きます、と小さく呟いた。
10
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
窓のない部屋の、陽だまりみたいな君
MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。
そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。
そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。
完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。
「五分だけ、ここにいさせてくれないか」
一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。
次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。
住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる