26 / 36
待つ
しおりを挟む
海をずっと下っていった。足取りは重かった。この先どうしていいのか分からなかったからだ。それをあっけらかんと示してくれていた陽子も、もういない。
とにかく、海を見よう。
海を見て、その先のことはそれから考えよう。
夕とて海を見るのは久しぶりだった。海水浴なんかに連れて行ってもらえるような家庭環境ではなかったし、海へ行こうと誘ってくれる友人だっていなかった。だから、本物の海を見るのは、うんと小さな頃、女中の何人かが海へ行くのに一緒に連れて行ってもらって以来だ。
あのとき夕は、はしゃいで駆けずり回って女中たちを困らせた。今、あの女中たちはどこにいるのだろう。屋敷に仕えているのか、それとも嫁にでも行ってしまったのか。
そんな事を考えながら、夕は重い足を引きずって林を抜けていく。
5分か10分か、そんな程度歩いたところで、目の前がひらけた。
「……海だ。」
ぽつん、と、夕は呟いていた。
眼の前には、真っ白に光る海が水平線まで続いている。水面に波はなく、ただ静かに凪いでいて、ずっと遠くの方に漁船が何隻か浮かんでいるのが見えた。夕の正面には、寂れた港が広がる。錆びついた漁船が3隻ぷかぷかと浮かび、淀んだ水がちゃぷちゃぴとかすかな音をさせて打ち寄せている。
そんな白茶けた風景の中、場違いなものが一つだけあった。
こちらに背を向ける形で椅子に座っている、姿勢のいい人影だ。椅子は漁港の荷物置き場から拝借してきたのだろうな、というような木の板を長方形に打ち付けただけのものだったが、座る人影は、いかにも高価な和服を身に着けていた。髪は肩につかない程度で、体つきはごく華奢。遠目には性別がよく分からなかった。
けれど夕には、その人影が男性だとすぐに分かった。そして、名前も。
濁った潮の匂いがする古びた漁港に立ち尽くす夕は、その人影の名前を口の中だけで呟いた。
「……藤。」
すると、その声にならない声に呼応するみたいに、藤色の着物を着た人影がゆっくりとこちらを振り向いた。
藤だった。最後にあったときからなにも変わらない、満開のうつくしさがそこにはあった
藤は夕の顔を見ると、すっと視線を下げ、夕が握りしめていた千代紙の箱を見た。
そして、ほんのわずかにだけ微笑んだのだ。
とにかく、海を見よう。
海を見て、その先のことはそれから考えよう。
夕とて海を見るのは久しぶりだった。海水浴なんかに連れて行ってもらえるような家庭環境ではなかったし、海へ行こうと誘ってくれる友人だっていなかった。だから、本物の海を見るのは、うんと小さな頃、女中の何人かが海へ行くのに一緒に連れて行ってもらって以来だ。
あのとき夕は、はしゃいで駆けずり回って女中たちを困らせた。今、あの女中たちはどこにいるのだろう。屋敷に仕えているのか、それとも嫁にでも行ってしまったのか。
そんな事を考えながら、夕は重い足を引きずって林を抜けていく。
5分か10分か、そんな程度歩いたところで、目の前がひらけた。
「……海だ。」
ぽつん、と、夕は呟いていた。
眼の前には、真っ白に光る海が水平線まで続いている。水面に波はなく、ただ静かに凪いでいて、ずっと遠くの方に漁船が何隻か浮かんでいるのが見えた。夕の正面には、寂れた港が広がる。錆びついた漁船が3隻ぷかぷかと浮かび、淀んだ水がちゃぷちゃぴとかすかな音をさせて打ち寄せている。
そんな白茶けた風景の中、場違いなものが一つだけあった。
こちらに背を向ける形で椅子に座っている、姿勢のいい人影だ。椅子は漁港の荷物置き場から拝借してきたのだろうな、というような木の板を長方形に打ち付けただけのものだったが、座る人影は、いかにも高価な和服を身に着けていた。髪は肩につかない程度で、体つきはごく華奢。遠目には性別がよく分からなかった。
けれど夕には、その人影が男性だとすぐに分かった。そして、名前も。
濁った潮の匂いがする古びた漁港に立ち尽くす夕は、その人影の名前を口の中だけで呟いた。
「……藤。」
すると、その声にならない声に呼応するみたいに、藤色の着物を着た人影がゆっくりとこちらを振り向いた。
藤だった。最後にあったときからなにも変わらない、満開のうつくしさがそこにはあった
藤は夕の顔を見ると、すっと視線を下げ、夕が握りしめていた千代紙の箱を見た。
そして、ほんのわずかにだけ微笑んだのだ。
10
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
窓のない部屋の、陽だまりみたいな君
MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。
そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。
そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。
完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。
「五分だけ、ここにいさせてくれないか」
一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。
次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。
住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる