36 / 36
2
しおりを挟む
暴れる華奢な体を無理やり抱きしめて、細い顎を掴み、肩越しにキスをした。だいぶ無理のある体勢だから、すぐに振り払われるかと思ったが、藤はそれですとんと大人しくなった。
1、2、3、と数を数えて4秒目、唇を離す。
あなたに飼われたかった。
藤が、ごく静かに囁いた。
絶望的な台詞だと思った。
それでも夕は、喜んでいる自分がいることを、認めないわけにはいかなかった。
「喜んでお父様に飼われているわけではないと、それだけ示したかったんです。……あなたには、どうでもいいことかもしれないけれど、私にとっては、それが重大だったんですよ……。」
まだ、藤は泣いていると思った。涙は流れていなかったけれど、まだ泣いている、と。
「……知ってたよ。……だってあんた、いつかは帰りたいって言ってたじゃないか。」
だって、と、藤は笑った。涙の雫がまだ絡みついている白い頬で。
「あまりにも、古すぎる記憶でしょう。……いつか、あなたに飼われる日が来る。でもそのとき、私はもう老いていて、あなたには必要とされない。……いいえ、老いる老いないの前に、お父様に飼われていた私をあなたは嫌う。……そう考えたら、急にいても立ってもいられなくなったんです。」
もう、手遅れなのに。
ごく静かな藤の言葉に、夕もいても立ってもいられなくなる。
だって、手遅れなんて、そんなことは決してないのに。夕が藤を嫌ったことなんて、一度たりともないのに。
それだけのことが、ここまで一緒に逃げてきても、まだ伝わっていない。
そのことが、夕を焦らせた。
いっそ抱いてしまおうか。藤が望んだ通りに。
そんな考えが過ぎらないわけではなかった。ただ、そうしてしまえば自分も父親と同じところに落ちていくと分かっていた。ただ、藤の肉体を利用するだけの男に。
「……一緒にいよう。」
自分も泣いてしまいそうになりながら、夕は必死で言葉を探した。
「ずっと、一緒にいよう。あんたが、俺を信じられるまで。」
信じられない、と、藤は首を振った。
いつの間にか、藤の両腕は夕の背中に回っていた。
「そんな幸せが、私なんかのもとに訪れるなんて、絶対に信じられない。」
いいよ、と、夕は藤の背中をきつく抱きしめた。
「今は信じなくていいよ。これから先も、信じられないならそれでいいよ。信じられるようになるまで、俺はずっといるから。」
声は掠れた。情けないくらいに。
藤の涙がぽつりと畳に散る。
「……ずるい。」
藤は、泣きながら夕を振り返った。
「そんな条件、私は乗らないではいられないのに。」
うん、ありがとう。
夕は、藤の髪に頬をうずめて瞼を閉じた。
しんしんと降り積もる雪がすべてを埋める頃になったら、この宿を出て藤の服を買い、陽子に電話をかけなくては、などと思いをめぐらしながら。
1、2、3、と数を数えて4秒目、唇を離す。
あなたに飼われたかった。
藤が、ごく静かに囁いた。
絶望的な台詞だと思った。
それでも夕は、喜んでいる自分がいることを、認めないわけにはいかなかった。
「喜んでお父様に飼われているわけではないと、それだけ示したかったんです。……あなたには、どうでもいいことかもしれないけれど、私にとっては、それが重大だったんですよ……。」
まだ、藤は泣いていると思った。涙は流れていなかったけれど、まだ泣いている、と。
「……知ってたよ。……だってあんた、いつかは帰りたいって言ってたじゃないか。」
だって、と、藤は笑った。涙の雫がまだ絡みついている白い頬で。
「あまりにも、古すぎる記憶でしょう。……いつか、あなたに飼われる日が来る。でもそのとき、私はもう老いていて、あなたには必要とされない。……いいえ、老いる老いないの前に、お父様に飼われていた私をあなたは嫌う。……そう考えたら、急にいても立ってもいられなくなったんです。」
もう、手遅れなのに。
ごく静かな藤の言葉に、夕もいても立ってもいられなくなる。
だって、手遅れなんて、そんなことは決してないのに。夕が藤を嫌ったことなんて、一度たりともないのに。
それだけのことが、ここまで一緒に逃げてきても、まだ伝わっていない。
そのことが、夕を焦らせた。
いっそ抱いてしまおうか。藤が望んだ通りに。
そんな考えが過ぎらないわけではなかった。ただ、そうしてしまえば自分も父親と同じところに落ちていくと分かっていた。ただ、藤の肉体を利用するだけの男に。
「……一緒にいよう。」
自分も泣いてしまいそうになりながら、夕は必死で言葉を探した。
「ずっと、一緒にいよう。あんたが、俺を信じられるまで。」
信じられない、と、藤は首を振った。
いつの間にか、藤の両腕は夕の背中に回っていた。
「そんな幸せが、私なんかのもとに訪れるなんて、絶対に信じられない。」
いいよ、と、夕は藤の背中をきつく抱きしめた。
「今は信じなくていいよ。これから先も、信じられないならそれでいいよ。信じられるようになるまで、俺はずっといるから。」
声は掠れた。情けないくらいに。
藤の涙がぽつりと畳に散る。
「……ずるい。」
藤は、泣きながら夕を振り返った。
「そんな条件、私は乗らないではいられないのに。」
うん、ありがとう。
夕は、藤の髪に頬をうずめて瞼を閉じた。
しんしんと降り積もる雪がすべてを埋める頃になったら、この宿を出て藤の服を買い、陽子に電話をかけなくては、などと思いをめぐらしながら。
10
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
窓のない部屋の、陽だまりみたいな君
MisakiNonagase
BL
都心の高層ビル、その「内臓」とも言える地下一階のメール室。
そこで働く山﨑智之は、目立たず、期待されず、淡々と郵便物を捌く「透明人間」のような毎日を愛していた。自分は低スペックで、華やかな地上には居場所がない。そう、諦めていた。
そんな彼の静寂を破ったのは、二十二階の住人、若きエース・風巻隼人だった。
完璧なルックス、圧倒的な成果、羨望の眼差しを一身に浴びる彼が、なぜか地下のメール室に足繁く通い始める。
「五分だけ、ここにいさせてくれないか」
一通の郵便物から始まった、五分間だけの秘密の共有。
次第に剥き出しになっていく隼人の孤独と、それを無自覚に包み込んでしまう智之の温度。
住む世界が違う二人が、窓のない部屋で見つけたのは、名前のつかない「救済」だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
先生の作品のあまりの素晴らしさに、読み終えて思わずため息をついてしまいました。
どの作品も好きです。
私は語彙が少なくて表現力もないので、どう心にささったのかお伝えすることが上手くできないのですが
主人公が抱かないという選択をしたことで、藤さんは藤さんが望んだ以上の愛を得られた気がして、胸が熱くなりました。
最後の洋服を買いに行くと言うくだりが好きです。藤さんが着物を脱ぎ捨て洋服に袖を通した時、そこから二人の新しい関係が始まるのかなと。
駆け落ちがうまく行くかどうかを知りたいと思うのは野暮なので、そうであって欲しいと願っています。
あと文庫本が好きなのですが先生の作品はページを捲る時の紙の音や、間が似合うだろうなと勝手に思っています。
そうしたら本をぎゅっと抱きしめられるのですがスマホは情緒がなくてそれが残念です。
これからも先生の作品を楽しみにしています。
丁様
私は、感想のありがたさに思わずため息をついてしまいました。
丁寧に作品を読んでくださったようで、感激しています。私も、藤たちの駆け落ちがうまく行けばいいな、と願っています。
本を抱きしめたいというお言葉、こちらがスマホを抱きしめたくなるくらいに嬉しいです。本当にありがとうございます。
これからも、楽しんでいただける作品を投稿できるよう努力していきますので、よろしくお願いします。