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偽宦官の立ち位置

帝姫の父君①

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 いつぞやの夜に見たこの国の皇帝は、なんとも情けない女たらしであった。
 空き家となったぼろぼろの宮の中で、皇后の目を気にしながらどこぞの女官と睦みあい、それが露見しそうになると平気で息子に土下座する。
 あんなのがこの国で一番偉いのかとがっかりした夜から数えてどのくらい経っただろう。割と最近だった気もするが、どうだったか。そして今日は一体どんな顔をしているのだろう。
 門の前に停まった輿こしに向かい、白狼は野次馬根性を無理やり抑えつけて拱手こうしゅをしつつ顔を伏せた。
 ぎしっと輿が揺れ、用意した踏み台に黒い大きな靴が乗った。たっぷりとした黄色い絹の着物姿で降りてきた大柄な男が片手を挙げると、輿を担いだ宦官たちがゆっくりとその場から去っていく。
 後に残された男は白狼を見ると、一瞬ぎょっとしたように目を見開く。それを無視した白狼は恭しく頭を下げ、男――すなわちこの国の皇帝を承乾宮の中へと招きいれた。


 承乾宮には月に一回ほど、ほんの短時間だが皇帝がやってくる。側近も連れず一人で訪問する名目は「病弱な愛娘の見舞い」であるが、実際は女として生活を余儀なくされている第一皇子のご機嫌伺いであった。

 銀月の生母はとても美しい女性だったが身分は低く後ろ盾もないに等しかった。たとえ皇帝の寵愛ちょうあいが深くとも立后することはできず、寵愛の深さ故に常に命を狙われていたという。懐妊してもそれは変わらず、むしろ周囲の敵意は日に日に強くなっていった。
 年若い皇帝は外戚がいせきの権力に逆らえない。このままではたとえ皇子を産んだとて、謀殺されてしまうのは目に見えている。
 そう考えた瑛賢妃えいけんぴ――賢妃の位は死後に追贈ついぞうされたものなので当時の位でいえば瑛充儀えいじゅうぎは皇帝と自身の側近と秘密裏に相談をし、産んだ子を銀華ぎんかという姫として育てることにしたのだという。
 それから約十五年。瑛賢妃は病に倒れ亡くなったが、限られた側近と皇帝のみが知る秘密を守るため銀月は今日も深窓の令嬢を装っていた。



「陛下におかれましては、ますますご健勝のことお慶び申し上げます」

 上座に座った皇帝に銀月がうやうやしく挨拶を述べると、当の皇帝は苦しゅうないとばかりに首を振る。そして叩頭こうとうする翠明をはじめとする側近たちにも顔を上げるように声をかけた。
 明るいところで見る皇帝は、冠に収められた髪に少し白いものが混じっているせいかあの夜よりやや歳をとっているように感じた。

「いつものご訪問より、日が開いておらぬようですが何かございましたか?」
「今日は急に来てすまなかった。ちと、銀月と話がしたくなったのでな」
「珍しいこともあるものですね」
「儂はそなたの父親ぞ。息子と語らいたいと思っておかしいことがあろうか。のう」

 儀礼的な挨拶が終わり団らんの構えをとった皇帝と銀月に、翠明が茶を注ぐ。小葉と黒花はすぐさま片手でつまめるような菓子を並べ始めた。
 しかしそんな彼女たちの仕事をよそに、皇帝自身はそわそわと気忙しい様子のままだ。何かを察した翠明が、さっと小葉と黒花に左手を挙げた。人払いの合図である。その瞬間、三人は気配とともに存在も消すかのように足音一つ立てずに退室をするではないか。教わっていたので知ってはいたが初めて見る合図に、白狼は思わず感嘆の息を漏らした。 
 とはいえ、この合図は白狼にも適用されているはずだった。見惚れていて出遅れた白狼はすぐさま戸口から退室しようとしたが、その前に銀月に呼び止められた。

「良い。お前はここにいろ」
「え……」
「父上、今日おいでになったのは先日の一件のことでしょうか」

 毅然とした銀月とは対照的に、皇帝はあからさまに動揺をした様子だった。うーんとか、いやーとか、言葉にならない声を発しながらきらきらしい冠から垂れた後れ毛を弄ぶ。
 銀月は肩で息を吐いた。

「ご心配なく。あの件は翠明にも伝えておりません」

 いつもより少し声を潜めた銀月がちらりと白狼に目配せをする。もちろん白狼も翠明にバレるようなことは言っていない。そもそも夜中に宮の外に銀月を連れ出したと聞けば叱られるどころの話ではないので、白狼としても口外する気は毛頭なかった。

「そ、そうか。気を遣わせて悪かったが」
「お気遣いなく。私もあんな時間にあの場所にいたと知られれば、翠明や周に叱られますので」
「やれやれ。翠明には敵わんな……」

 古参の侍女頭にすぎないはずの翠明の眉を吊り上げて説教する姿を思い出したのか、皇帝もが頭をかいた。ただ胸のつかえがとれたのか、幾分落ち着きを取り戻したようだ。皇帝は卓上の茶に手を伸ばした。
 対する銀月はまだ少し難しい顔をしたままだ。

「しかし父上。我々は口外しませんが、お戯れもほどほどになさってください」

 側近しかいない宮の中で、そのうえ人払いもした室内だからこそか、銀月の声は厳しい。自分に対する叱責ではないはずなのに、白狼は思わず背筋を伸ばしてしまった。皇帝も銀月のただならぬ口調に驚いたのか、茶碗に口をつけたままぴたりとその動きを止めている。

「なんのことかな……」
「しらばっくれても無駄ですよ。先日逢引きしていた女官、亡くなったと聞いています」
「やはり、耳に入ったか……」
「翠明の情報力をお忘れですか? 明け方に池に浮かんでいるのが見つかって朝食前に女官の名前と所属が分かりました。最近、女官の失踪や盗難、失せ物などが続き、後宮内があまり穏やかな状態とはいいがたくなっております。特に女官の失踪は、全てとは言いませんが何件かは父上とご関係があるのでは?」

 銀月が畳みかけると、皇帝はすぐさま降参した。体格は随分と立派なのに卓に向かって小さく縮こまり、叱られた子犬のように哀れを誘う表情で自分の息子を見上げている様子は、本当にこの国の皇帝なのかとひざ詰めで問いたくなる。
 翠明や銀月の様子から本物であることは間違いないはずなのに、どうにも白狼にはただの情けないおっさんにしか見えないのだ。

「やはり、皇后かの……?」

 おずおずと切り出す皇帝は、自分の口で言った皇后という言葉にすらびくついているように見えた。
 なっさけねぇ、と思わず口をついて出てきそうだった。吐き捨てなかったのは、ただ銀月に対する義理である。

「皇后様も貴妃様も、お二人とも悋気りんきが激しいのもご存知でしょう。妃でもなく立場が弱い女官とお戯れになるのはおよしになったほうがよろしいかと」

 ダメ押しに銀月が貴妃を引き合いに出すと、皇帝は本格的におびえだした。真っ白な顔をしながら壊れた玩具のように首を勢いよく上下させる。銀月はゆっくりと頷いた。
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