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妃嬪の徴証
手蹟の悪戯②
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「遺書には、なんと……?」
踏み込んでよいものかどうか、幾分迷いがあったものの白狼は問わずにいられなかった。貴妃に言われた以外のことが何か書かれてはいなかったか、その時の心情が綴られてはいなかったか。おやつの菓子を頬張る燕の笑顔の裏に、何を隠していたのか知りたかった。
徳妃の宦官はゆっくりと首を振りつつ立ち止まった。
「貴妃様の命令でやったという事以外は、独断で行ったので永和宮は無関係だということ、畏れ多いことをしてしまったと気が付いて自分の命で償う、と……」
目頭を指で押さえ、柏は深いため息を吐いた。
「あの子に文字を教えたのがこんな形で帰ってくるとは思わなかったよ……」
「燕たちの手習いの先生は、柏様ですか……?」
「ああ。あの子は特別上達が早くてね」
「では、本当に燕の字だったんですね」
「毎日見ていた美しい手蹟だ。見間違いようがないよ……」
我が子もおらず妹、弟もいない白狼でさえこれだけの無力感に苛まれているのだ。幼いとも言える年齢の教え子がこんなことになるとは、柏の無念さはいかほどだろう。
二人の間には重苦しい沈黙が漂った。
しかしいつまでもこうしているわけにもいかない。どちらともなく薄く、苦い笑いを浮かべた顔を見合わせた。
「これから、どうなるんでしょうか」
「燕は謀反の扱いで処罰になる。彼女の一族へ罪が波及しないように徳妃様が嘆願をしたいとおっしゃっているよ」
「謀反って! そんな、貴妃……様の命令だって言ってるのに……!」
声を荒げかけた白狼を、宦官は口元に人差し指を立てて制した。
「皇帝陛下と皇后陛下には既に燕の遺書の件は伝わっているだろう。明朝にはきっと貴妃様の宮へお調べが入ることになる。そこで何かはっきりしたことが分かれば……」
祈るような口調で柏が言う。
「両陛下が正しくお裁き下さることを願っているよ」
★ ★ ★ ★ ★
空になった塵箱を抱えて承乾宮に戻った白狼は、心配そうな顔をした小葉に出迎えられた。
遅かったじゃないと言われても、曖昧な返事をすることしかできない白狼に対し何やら思うところがあったのだろう。ぐいぐいと腕を引っ張られ厨房にまでいくと、皿に乗っていた蒸かし芋を押し付けられた。
「ちょ、小葉さんこれ何」
「さっき蒸かしたばっかりだから。あんた、今日はこれ食べてちょっと休みなさい」
「いや、別に腹は減って……」
「いいから。朝からひどい顔してるから。あったかい物食べてちょっと落ち着きなさいって」
小葉なりの気遣いだ、と気づきはしたがそこまでひどい顔だろうかと白狼は頬をさする。
「私でさえちょっと落ち込むんだから、仲が良かったあんたならもっとでしょ」
「……お気遣い、どーも……」
「起きてたってどうせ仕事ないんだから、一寝入りするといいわ。姫様もなんか考え事でお部屋にこもってらっしゃるし」
「どうせ仕事がないって、小葉さんがやらせてくれないんじゃないか」
「当然でしょ。あんたになんて部屋の掃除もさせられないわよ」
やはり、まだまだ信用には足りていないらしい。べえっと舌を出して白狼は厨房を出ると、仕方なく自室へと向かった。
もらった芋は確かに蒸かしたてのようでまだ温かい。寝台に腰掛け芋を齧ると、じんわりと腹からその温かさが伝わってくるようだ。芋を平らげた白狼は、自分の体から幾分力が抜けていくのを感じ寝台に横になった。
事態は朝、周から聞いた話通りだった。永和宮の下女である燕が、貴妃に命令されて皇后に毒を盛ったという遺書を残して自害した。
何かの間違いかと思えばそうではなく、遺書とやらも永和宮の宦官である柏が確認して燕の手蹟と認めていた。ということは、燕が皇后の毒殺計画になんらかの形で加わっていたことは間違いないのだろう。知らなかったにせよ、脅されていたにせよ、どちらにしてもだ。
皇帝、皇后にその件は伝わり、明日にも貴妃の宮に調べが入る。そこであの高慢ちきな貴妃の計画が明らかになれば、実家がいくら高位の貴族であろうと何らかの処罰がなされる。皇后の暗殺計画を主導したということであれば、罪人は燕だけに留まらずおそらく貴妃は極刑。実家はどこまで皆殺しになることか。
しかし、そんな危うい橋を貴妃自ら主導するだろうか。そこが引っかかった。政治や権力争いに疎い白狼でさえ想像ができるのに、失敗と告発を計画に織り込まないほど杜撰なことをするものだろうか。
貴妃は確かに上を狙って行動をする危うい女だと思う。中秋節の宴で少々関わっただけではあるが、美貌の自信家であり野心を隠さない印象だ。ただ、多少考えなしな部分はあるとしても単なる馬鹿ではないはずだ。あの夜でさえ直接的な攻撃ではなく随分と回りくどい当て擦りだけで、自分の手を汚さず配下の者を切り捨てている。
そんな女が、わざわざ徳妃に心酔している外部の少女を使って皇后暗殺などという危ない橋を渡るだろうか。やるとすればもっと周到に計画をして、少なくとも自害して告発するような手駒を使わないようにするのではないだろうか。あるいは告発される前に燕を始末するくらいのことはやるのではないか。
下女が字を書けるとは思っていなかったからか?
自責の念に堪えられず自害するとは思わなかったのか?
永和宮より好待遇で迎えるとかいう約束でもしていたのか?
考えれば考えるほど混乱した。ちょくちょく遊びに来ていた裏で燕が何を考えていたのかを知りたいと思ったが、手がかりがなさすぎる。表情を思い出そうとしても笑顔で菓子を頬張っているところしか浮かばないし、持ってきたものは大概食い物だったし。
仲がいいと言われていたとはいえ、自分は彼女のことを何も知らなかったのだと思い知らされるばかりだ。
いたたまれずごろりと寝返りをうつと、雑に畳まれた宦官服が積まれた棚が目に入る。ああ、洗濯が終わったのをちゃんとしまっとけって言われたっけ。ぼんやりとそう思ったときだった。
白狼はがばっと起き上がり、その棚に駆け寄った。上に乗った衣類を寝台に向かって放り投げ、下になっていた籠を引っ張り出す。
ふたを開け中から出したものは、折り畳まれた質の良く無い紙きれだった――。
踏み込んでよいものかどうか、幾分迷いがあったものの白狼は問わずにいられなかった。貴妃に言われた以外のことが何か書かれてはいなかったか、その時の心情が綴られてはいなかったか。おやつの菓子を頬張る燕の笑顔の裏に、何を隠していたのか知りたかった。
徳妃の宦官はゆっくりと首を振りつつ立ち止まった。
「貴妃様の命令でやったという事以外は、独断で行ったので永和宮は無関係だということ、畏れ多いことをしてしまったと気が付いて自分の命で償う、と……」
目頭を指で押さえ、柏は深いため息を吐いた。
「あの子に文字を教えたのがこんな形で帰ってくるとは思わなかったよ……」
「燕たちの手習いの先生は、柏様ですか……?」
「ああ。あの子は特別上達が早くてね」
「では、本当に燕の字だったんですね」
「毎日見ていた美しい手蹟だ。見間違いようがないよ……」
我が子もおらず妹、弟もいない白狼でさえこれだけの無力感に苛まれているのだ。幼いとも言える年齢の教え子がこんなことになるとは、柏の無念さはいかほどだろう。
二人の間には重苦しい沈黙が漂った。
しかしいつまでもこうしているわけにもいかない。どちらともなく薄く、苦い笑いを浮かべた顔を見合わせた。
「これから、どうなるんでしょうか」
「燕は謀反の扱いで処罰になる。彼女の一族へ罪が波及しないように徳妃様が嘆願をしたいとおっしゃっているよ」
「謀反って! そんな、貴妃……様の命令だって言ってるのに……!」
声を荒げかけた白狼を、宦官は口元に人差し指を立てて制した。
「皇帝陛下と皇后陛下には既に燕の遺書の件は伝わっているだろう。明朝にはきっと貴妃様の宮へお調べが入ることになる。そこで何かはっきりしたことが分かれば……」
祈るような口調で柏が言う。
「両陛下が正しくお裁き下さることを願っているよ」
★ ★ ★ ★ ★
空になった塵箱を抱えて承乾宮に戻った白狼は、心配そうな顔をした小葉に出迎えられた。
遅かったじゃないと言われても、曖昧な返事をすることしかできない白狼に対し何やら思うところがあったのだろう。ぐいぐいと腕を引っ張られ厨房にまでいくと、皿に乗っていた蒸かし芋を押し付けられた。
「ちょ、小葉さんこれ何」
「さっき蒸かしたばっかりだから。あんた、今日はこれ食べてちょっと休みなさい」
「いや、別に腹は減って……」
「いいから。朝からひどい顔してるから。あったかい物食べてちょっと落ち着きなさいって」
小葉なりの気遣いだ、と気づきはしたがそこまでひどい顔だろうかと白狼は頬をさする。
「私でさえちょっと落ち込むんだから、仲が良かったあんたならもっとでしょ」
「……お気遣い、どーも……」
「起きてたってどうせ仕事ないんだから、一寝入りするといいわ。姫様もなんか考え事でお部屋にこもってらっしゃるし」
「どうせ仕事がないって、小葉さんがやらせてくれないんじゃないか」
「当然でしょ。あんたになんて部屋の掃除もさせられないわよ」
やはり、まだまだ信用には足りていないらしい。べえっと舌を出して白狼は厨房を出ると、仕方なく自室へと向かった。
もらった芋は確かに蒸かしたてのようでまだ温かい。寝台に腰掛け芋を齧ると、じんわりと腹からその温かさが伝わってくるようだ。芋を平らげた白狼は、自分の体から幾分力が抜けていくのを感じ寝台に横になった。
事態は朝、周から聞いた話通りだった。永和宮の下女である燕が、貴妃に命令されて皇后に毒を盛ったという遺書を残して自害した。
何かの間違いかと思えばそうではなく、遺書とやらも永和宮の宦官である柏が確認して燕の手蹟と認めていた。ということは、燕が皇后の毒殺計画になんらかの形で加わっていたことは間違いないのだろう。知らなかったにせよ、脅されていたにせよ、どちらにしてもだ。
皇帝、皇后にその件は伝わり、明日にも貴妃の宮に調べが入る。そこであの高慢ちきな貴妃の計画が明らかになれば、実家がいくら高位の貴族であろうと何らかの処罰がなされる。皇后の暗殺計画を主導したということであれば、罪人は燕だけに留まらずおそらく貴妃は極刑。実家はどこまで皆殺しになることか。
しかし、そんな危うい橋を貴妃自ら主導するだろうか。そこが引っかかった。政治や権力争いに疎い白狼でさえ想像ができるのに、失敗と告発を計画に織り込まないほど杜撰なことをするものだろうか。
貴妃は確かに上を狙って行動をする危うい女だと思う。中秋節の宴で少々関わっただけではあるが、美貌の自信家であり野心を隠さない印象だ。ただ、多少考えなしな部分はあるとしても単なる馬鹿ではないはずだ。あの夜でさえ直接的な攻撃ではなく随分と回りくどい当て擦りだけで、自分の手を汚さず配下の者を切り捨てている。
そんな女が、わざわざ徳妃に心酔している外部の少女を使って皇后暗殺などという危ない橋を渡るだろうか。やるとすればもっと周到に計画をして、少なくとも自害して告発するような手駒を使わないようにするのではないだろうか。あるいは告発される前に燕を始末するくらいのことはやるのではないか。
下女が字を書けるとは思っていなかったからか?
自責の念に堪えられず自害するとは思わなかったのか?
永和宮より好待遇で迎えるとかいう約束でもしていたのか?
考えれば考えるほど混乱した。ちょくちょく遊びに来ていた裏で燕が何を考えていたのかを知りたいと思ったが、手がかりがなさすぎる。表情を思い出そうとしても笑顔で菓子を頬張っているところしか浮かばないし、持ってきたものは大概食い物だったし。
仲がいいと言われていたとはいえ、自分は彼女のことを何も知らなかったのだと思い知らされるばかりだ。
いたたまれずごろりと寝返りをうつと、雑に畳まれた宦官服が積まれた棚が目に入る。ああ、洗濯が終わったのをちゃんとしまっとけって言われたっけ。ぼんやりとそう思ったときだった。
白狼はがばっと起き上がり、その棚に駆け寄った。上に乗った衣類を寝台に向かって放り投げ、下になっていた籠を引っ張り出す。
ふたを開け中から出したものは、折り畳まれた質の良く無い紙きれだった――。
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