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第一章
第一話 レーヴェの絶望と、炊事班の淀んだ空気
しおりを挟む軍の配属が決まったとき、僕は少しだけ夢を見た。
怪我人を癒し、誰かの命をつなぐ。
そんな医療班の一員になれると……。
でも、届いた辞令にはこう書かれていた。
『第三補給部隊・第八炊事班所属』
――それが、僕の運命の始まりだった。
◇ ◇ ◇
軍の本部裏にある、小さな厨房棟。
恐る恐る扉を開けると、ふわりと立ち込めるのは、焦げた油と古い野菜の匂い。
洗い場には、ドロドロとした得体の知れない液体がついている汚れた皿が、大量に積み重ねられていた。
思わず、一度扉を閉めてしまった。
「本当に、ここで合ってる……?」
古びたドアプレートには、間違いなく『第八炊事場』と書いてある。
嫌な予感がしつつも、他に行き場はない。
意を決して、再度、扉を開けた。
「し、失礼します……」
シンと静まった厨房に足を踏み入れる。
厨房内は清掃された形跡はなく、床は泥だらけだった。
あまりの汚さに、ネズミが飛び出してくるかもしれないと警戒する。
足元を気にしながら、ふとコンロに放置されたフライパンを見れば、底は炭のように真っ黒だった。
他の調理器具も、手入れはされていない。
とても料理ができるような環境ではなかった。
……こんな場所で、どうしたらいいんだろう。
途方に暮れる。
炊事班の仕事は、『食事を作ること』だ。
それだけは、教えられなくてもわかる。
ただ、食事を作る以前に、綺麗なお皿が一枚もないことが問題だった。
「まずは、皿洗いから……」
いつから放置されていたのだろう。
異臭を放つ大量の皿の前に立つ。
気合を入れて腕まくりをした、その時――。
「なんだ、ガキ。今日から来た新人か?」
「っ、うわっ、びっくりしたぁ……」
急に声をかけられ、驚いて顔を上げれば、赤髪の中年の男がじっとこちらを見ていた。
切れ長の赤目は、気が強そうな印象だ。
筋肉隆々で大きな体をしているのに、まったく気配が感じられなかった。
「入隊早々、いったいなにをやらかしたんだ?」
「えっ……」
その体格と鋭い目つきに、僕は一瞬「敵か!?」とすら思った。
けれど、持っていたのは剣ではなく、酒瓶だった。
昼間から酒を飲んでいたようだ。
「見かけによらず、相当な悪人なのか?」
「……はい?」
質問の意味がわからなくて首を傾げれば、んなわけねぇよな、と男はクツクツと笑う。
「お前、名前は?」
「はい。レーヴェ・ノアールです。今日から、第八炊事班配属になったと、辞令が……」
「なるほど。それで皿を片付けようとしたわけか……」
うんうんと頷く男。
おそらく炊事班の先輩にあたる方だろう。
仕事内容を聞こうとしたところで、赤髪の男は笑った。
「まあ、ほどほどに頑張れよ?」
「っ……」
そう言って笑ったその瞬間だけ、赤い瞳がほんの一瞬、底知れぬ深さを宿した気がした。
「んじゃ、俺は休む」
「……えっ!? ちょ、ちょっと……?」
回れ右をした男は、仕事をする気はないらしい。
皿洗いがしたくない気持ちもわかるけど、僕ひとりであの量の皿洗いは無理だ。
手伝ってほしくて追いかけると、厨房の隅にある大きなソファに腰掛けた赤髪の男は、つまみを片手に酒をあおった。
「あのっ!」
「シー。静かにしろよ、ニッキーが起きちまう」
赤髪の男が顎で指し示す先。
厨房の奥では、長い銀髪の男が寝袋で寝ていた。
透き通るような白い肌と、ふさふさの銀のまつ毛。
注意するのも忘れるくらいに綺麗な寝顔だった。
「コイツが起きたらうるせぇからなー」
義足で蹴られても、ニッキーと呼ばれた男は小さくいびきをかいていた。
僕は一瞬、言葉を失った。
あまりに自然に歩いていたから、気づかなかった。
(魔物との戦いで……? 今も痛むのかな……)
でも、当の本人は気にした様子もなく、美味しそうにジャーキーをしゃぶっている。
「俺は平民出身だが、コイツは俺とは違って貴族のボンボンだ。……知らねぇか? とりあえず、起きたらあとで挨拶しとけよ」
「は、はい」
お酒を飲んでいる先輩と、寝ている先輩。
……前途多難だ。
頭を抱えそうになっていると、赤髪の男が入口を見やる。
「おう。ヴァル、おかえり」
振り返ると、薪を担ぐ大柄の男が立っていた。
漆黒の髪は短く刈られているが、顔には無精髭。
目つきは鋭く、腕は太くて丸太のよう。
だが、彼だけは白いエプロンをつけている。
「新人が迷い込んできたぜ? おそらく、なにかの間違いだと思うが……どうする? ヴァル」
ヴァルと呼ばれた男に見下ろされる。
なんて冷たい目をするんだ。
怖くてビクビクしていると、興味なさそうに視線を逸らされる。
「そんなことより、酒は控えろ」
キツイ口調だが、赤髪の男の体調を気遣っているようだった。
「へいへい。で? どうすんだ? コイツ」
「…………エドの好きにしろ」
いてもいなくても、どちらでもいいのだろう。
無口な男は、淡々と薪割りに向かった。
「だとよ! よろしくな、新人くん」
「あ、は、はい、よろしく、お願いします……」
唯一、僕を歓迎してくれた赤髪の酔っ払い。
もといエド先輩に、『一緒にサボろうぜ?』と誘われたが、丁重にお断りした僕は洗い場に向かった。
「この量、一日で終わるかな……?」
積み上げられた皿を見上げ、顔が引きつる。
それでも洗わないという選択肢はなかった。
スポンジを手に取り、冷たい水で洗っていく。
綺麗なお皿が増えていき、気分は明るくなるはずが、僕の心はどんどん暗くなっていった。
(……ここが、僕の居場所?)
今頃は、怪我をした兵士たちの治療をしているはずだったのに。
僕はここで、なにをしているのだろう……。
こびりついた皿の汚れを洗いながら、夢と現実のギャップに頭が追いつかない。
――僕は、確かに医療班に希望を出したはず……。
僕とエリン、そして僕の婚約者のディルクの三人は、幼馴染だ。
僕はディルクが怪我をしたときにすぐに駆けつけられるように、医療班を希望していた。
一緒に医療班を希望していたエリンが、「書類は私が出しておくね」と三人分を提出してくれているので、間違いない。
そして、エリンは医療班で、ディルクも希望通り、魔物討伐部隊に配属になった。
それなのに、僕だけが炊事班になったのは、どうしてなんだろう……。
(この配属は、間違いなんじゃないのかな? でも、誰もそうは言ってくれなかった……)
僕が炊事班に配属が決まったとき。
エリンもディルクも、誰もおかしいだなんて言わなかった。
額から汗が流れ、ついでに目元を拭う。
厨房にある皿を洗い終えるのに深夜までかかった。
結局、寝袋で寝ていた先輩が起きることはなかった――。
「……でも、明日になったら話してみよう」
第一志望だった医療班にはなれなかったけど、炊事班の仕事だってやりがいはあるはずだ。
皆が寝静まった頃、僕は焦げついたフライパンを洗い始めた。
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