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第一章
第二話 まずい、残される、責められる
しおりを挟む翌朝、厨房はやはり静かだった。
赤髪の男――エド先輩はまだ寝ていた。
ニッキー先輩も、寝袋から一歩も出ていない。
ヴァル先輩だけが外で薪を割り、黙々と作業をしていた。
「お、おはようございます」
「………………」
黒い瞳がちらりと横目で僕を見る。
薪割り中に話しかけてはいけなかったかもしれない。
でも、そろそろ朝食を作らないといけないし、やり方を教えてほしいと伝えると、ヴァル先輩は大きな斧を下ろした。
(……あれ? 薪割り用の斧って、こんなに大きかったっけ?)
大きさもさることながら、世間一般の斧とは違い、刃は金色だった。
平民寄りの男爵家出身の僕には、絶対に手の届かないような、高級そうな斧だ。
「すごい……。こんなに光ってる斧、見たことない……。あっ! ヴァル先輩、待ってくださいっ!」
金の斧に身惚れていると、ヴァル先輩は無言で厨房に向かっていた。
慌ててついていくと、古びた資料を渡される。
それに目を通せば、食事の作り方というより、規則が記されていた。
『軍が定めた限られた量の食材、物資を配分すること』
(これってつまり、味の調整も許されないってこと……?)
小さな文字を読んでいると、ヴァル先輩がおもむろに缶詰を取り出した。
中身を皿に落とし、ベチョッと音がする。
「支給された缶詰を開けて、皿に移す。それだけだ」
ヴァル先輩が、簡潔に告げる。
あまりに簡単な作業に、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
豆を煮たような茶色の物体をまじまじと見ていると、ヴァル先輩は大鍋を用意する。
「仕事はこれだけじゃない」
「……あっ! そうですよね!」
「これから作る量は、三百人前だ」
「さ、三百!? ひぇぇ~!!」
三百人前と聞いただけで、どれだけ大変な作業なんだとめまいがしそうだった。
気合いを入れないと。
パンッと頬を叩いた僕の横で、ヴァル先輩が大きな包丁で干し肉を刻んでいく。
慣れているのか、すごい手捌きで、あっという間に作業は終了。
僕の出番はなかった。
「少量の干し肉を刻み、水と塩、固形スープの素を入れて、鍋で煮込む。――以上だ」
「……………へ? それだけ?」
あまりに簡単な作り方だったため、思わず口をついて出る。
すると、ヴァル先輩にじっと見下ろされていた。
「兵站に従って、分量を守れ」
「ハッ、ハイッ!!!!」
ヴァル先輩の通る声に、背筋がピンと伸びる。
命令することに慣れている指導者のようで、『命を繋ぐための料理』を知っている者の重たい響きがあった。
(……この人、いったい何者なの?)
薪割りの続きをするため、ヴァル先輩はさっさと持ち場に戻っていった。
「よし! やりますか!」
用意されていた、くすんだ色のエプロンをつける。
昨夜の洗い残しがないか確認しつつ、今日の朝食の準備に取りかかった。
誰にでもできる簡単な作業だけど、スープは丁寧にじっくりと煮込む。
スープが煮える頃には、兵士たちが食堂で列を作っていた。
だが、その顔に笑顔はなく、誰もが不機嫌そうに黙っている。
「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
僕はひとりで、三百人分の器にスープをよそっていく。
配膳係などはいない。
声もかけず、彼らはただ無言で受け取っていく。
だが、あるひとりの騎士が、皿を受け取ってすぐに吐き捨てた。
「……またこれかよ。ドロドロしてやがる」
皿の中身をのぞき込んでから、わざと大きな声で言っているようだった。
「肉は臭いし、見た目もゲロみたいだ。吐き気がする……」
「いや。これ、家畜の糞だろ」
「ハハッ、言えてるぜ」
笑いが起きる。
他の兵士もそれに便乗し、皿の中身を床に落とした。
「なんてことを……」
いくら缶詰が嫌だからって、床に捨てるなんて罰当たりだ。
やっていいことと、悪いことがある。
勇気を振り絞ってそのことを伝えようとしたとき、僕は自分の目を疑った。
「……な、なんで……」
食べ物を粗末にする兵士たちの中に、なんとディルクもいたのだ。
ビシッとかっこいい騎士服を着ているディルクは、すでに部隊の者たちと馴染んでいた。
僕がつけている色褪せたエプロンが、急に恥ずかしくなってくる。
「トロトロしてないで、さっさと片付けろよ」
僕が兵士たちに苛立ちをぶつけられても、ディルクはなにも言わない。
辛いことがあった時は、いつも寄り添ってくれて、「将来はカイゼル様のような立派な剣士になって、俺がレーヴェを幸せにするから……」と話してくれたディルクは、もうどこにもいなかった。
「こんなもん、誰が食うかってんだ」
足元には、配ったばかりのビスケットが踏みつけられる。
粉々に砕けた茶色の粒が、泥と混ざってぐちゃぐちゃになっていた。
――……悔しい。
たしかに、缶詰と干し肉のスープなんて、美味しいものじゃないかもしれない。
でも、僕なりに丁寧に一生懸命作った。
(疲れているみんなが、おいしいって、笑顔になってほしかったから……)
彼らは戦場に立つ騎士たち。
命を張って戦っている分、気が立っていることもわかる。
でも、だからって――。
ビスケットを踏みつけられた音が、耳の奥でずっと鳴っていた。
「……すみません、片付けます」
文句を言われても、暴言を浴びても、僕は手を止めなかった。
下を向き、ひとつひとつ皿を回収する。
床に落ちたスープがズボンに染みたけど、拭く余裕もない。
婚約者の僕を恥だと思っているのか、ディルクは僕から目を逸らし、隣の兵士と笑い合っていた。
「あいつ、昔から要領悪いんだよな」
「だから掃き溜め行きだったのか」
「あんなのが婚約者だなんて、不憫だなー」
「……まあな」
ディルクが肯定し、仲間を連れて食堂を出ていく。
そこで知ってしまった、炊事班の実態。
――『炊事班』とは。
怪我で前線を退いた者や、問題を起こした者の掃き溜めと呼ばれていた。
戦えない者が送られる『底辺の配属先』。
もちろん、志望者などいなかった――。
冷たい鍋に手を入れながら、今日も食器を洗う。
厨房に戻ると、まだ寝ているニッキー先輩の横で、エド先輩が静かにジャーキーを咥えていた。
「……よう、お疲れさん」
その一言が、なぜか少しだけ沁みた。
エド先輩の優しい声色は、酔いのせいじゃない、どこか人の傷みに慣れた響きがあった。
でも、声を返すことはできなかった。
言葉を返せば、涙が出てしまいそうだったから――。
それからは、懸命に仕事をしても、状況が変わることはなかった。
どうすることもできず、歯痒い思いをしたまま一月が経過した頃。
僕の元に「初任給支給」の連絡が届いた。
財布を握りしめたまま、ぼんやりと考える。
(……もし、少しでも美味しいものを作れたら。誰かが笑ってくれるかもしれない)
今の状況を変えるには、兵站を破るしかない。
罰を受けたってかまわない。
たった一度でいい――。
誰かを笑顔にしたい。
暗く重い厨房の天井を見上げながら、僕は明日、近隣の村へ足を運ぶ決意をした。
誰かがほんの少しだけでも笑ってくれるなら、それでいい。
――明日、僕は“炊事班の反逆者”になる。
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