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第一章
第三話 一杯のスープから始める
しおりを挟む翌朝、僕は夜明け前に目を覚ました。
静かに深呼吸をする。
緊張して、胸が高鳴っていた。
(……今日だけは、許してください)
支給された初任給の袋をそっと握りしめ、僕は厨房を抜け出した。
◇ ◇ ◇
馬も馬車もないため、泥道をひたすら歩く。
一時間ほどで、近隣の村に到着する。
まだ店が開く前の市場には、ぽつぽつと農民たちが野菜を並べ始めていた。
「あら、見ない顔だね。旅の人かい?」
声をかけてくれたのは、腰の曲がった老婆だった。
「実は僕、軍で炊事班に配属されてて……。規則違反かもしれませんが、どうしても美味しい料理を作りたくて――」
僕の説明に、老婆は驚くことなく、ただゆっくりとうなずいた。
手には、売り物にできないような古びた野菜が入った籠を抱えている。
「それで、もしよければ、売れ残りでもいいので、少しだけ……これで、野菜を買わせてもらえませんか?」
僕は懐から給料袋を取り出す。
老婆は目を細め、僕が差し出した銀貨をじっと見つめる。
「……あんた、料理人の手だね」
「えっ?」
「わかるよ。私も昔は、長く鍋を振っててねぇ。野菜を大事に扱う人の手は、あったかい」
その言葉に、思わず自分の手のひらを見つめた。
お世辞にも綺麗とは言えない手荒れした手だけど、少しだけ誇らしくなれた気がした。
「これでよければ、持っていきな」
ふわりと笑った彼女は、僕に小さな籠を差し出してくれた。
中には、しなびかけたニンジン、土付きのじゃがいも、割れた玉ねぎ、そしてハーブの束が入っていた。
「っ、こんなに……っ。ありがとうございますっ!!」
あまりに僕が喜んだからか、老婆が他の農民たちにも声をかけてくれ、売り物になりそうにない野菜を安価でまとめて売ってくれた。
炊事班の給料は、おそらく第一線で活躍するディルクやエリンたちと比べると、かなり低いだろう。
でも、そんな僕の給料でも、これだけの野菜があれば、三百人分の食事を作れそうだった。
「人に食べさせるもんはね、気持ちがいちばん大事さ。――あんたの想いが、最高のスパイスだよ。……なぁんてね」
老婆が笑い、僕は心がじんと熱くなる。
彼女の言葉が、泣きそうな気持ちをぐっと支えてくれた。
◇ ◇ ◇
厨房に戻った僕は、誰にも見られないようにこっそり鍋を火にかけた。
昨日の残りの干し肉を少し使い、持ち帰った野菜を炒め、じっくり煮込む。
「うーん。もう少しかな……」
何度も味を確かめる。
ハーブを最後に加えると、香りが引き立った。
やさしい、だけどしっかりとした味。
胃に染み渡るような、そんなスープの完成だ。
(きっと大丈夫……)
老婆の笑顔を思い出す。
最後に、まだ誰にも使われていない、ただ一つの最高のスパイスを加える。
それは、“僕の想い”。
鍋の湯気が立ちのぼると、厨房全体に香りが満ちていった。
やがて香りは、厨房を抜けて風に乗り、外の空気をそっと包んでいく。
「……なんだ、この匂い……?」
「腹、鳴った……」
気づけば、厨房の前に人が集まり始めていた。
最初は少し離れた場所から様子を見ていた兵士たちも、次第に列を作り始める。
「今日の飯、いつもと違くねぇか?」
「……これ、食っていいのか?」
差し出した器に、僕は丁寧にスープを注いだ。
最初の一口を食べた騎士が、そっと息を吐いた。
「……あったけぇ……」
ぽつりと漏れたその一言で、緊張していた僕の肩がふっと軽くなる。
「うめぇ、これ」
「野菜の甘さがちゃんとする……」
「はじめて、ここの飯がうまいと思った」
瞬く間にスープを飲み干した兵士が、おかわりしようと列に並ぶ。
「次は大盛りにしてくれ!!」
「オイ、俺が先だ!!」
我先にと、喧嘩する兵士たちで大騒ぎになる。
喜んでもらえて嬉しいけど、こんなに騒ぎになるとは思ってもいなかった。
「全員分はあると思うのですが、まだ食べていない人から順番にお願いしますっ」
「まだか!?」
「早くしてくれ!!」
どうしよう。
興奮する兵士たちに、僕の声が届かない。
――その時だった。
「よう、新人。ずいぶんと良い匂いだな? ――俺たちにも手伝わせろよ」
聞き慣れた声に振り返ると、ジャーキーを咥えたエド先輩がいた。
その後ろには、右目に眼帯をつけている長い銀髪の男性もいる。
ニッキー先輩だった。
「エド先輩っ!! それに、ニッキー先輩も……!! 起きていたんですね!! はじめまして!!」
ようやくニッキー先輩に挨拶ができたことに喜んでいると、紫の瞳は驚いたように見開かれた。
それから彼は、優しく微笑む。
「ニッキー先輩って……。なんて可愛らしい後輩なのでしょう」
寝癖のままでも麗しいニッキー先輩が、ぼそっとつぶやく。
紫の瞳がやわらかく揺れて、彼の声にほんのかすかなぬくもりが宿る。
まるで、氷の奥にある静かな春のようだった。
「では、私はおかわりの列を整備してきますね」
さらりと僕の手の甲にキスをしたニッキー先輩は、エルフのように綺麗だった。
凛とした姿勢で、所作も美しい。
彼が歩くと、今まで騒いでいた兵士たちが急に静かになった。
ニッキー先輩の美貌に目を奪われている兵士も大勢いる。
でも、ただそれだけじゃなくて、一目置かれているような気もする……。
「ニ、ニコロ様ッ! お会いできて光栄ですっ!」
ひとりの兵士が声を上げ、恍惚とした表情でニッキー先輩を見つめる。
すると、我も我もと兵士たちがニッキー先輩を囲み出した。
すごい人気だ。
「こんなところでお目にかかることができるとは……」
「――きちんと列に並びましょうね」
ニッキー先輩は、誰が相手でも丁寧な口調だった。
(いつも寝てばかりだったけど……。ニッキー先輩ってきっと、上流階級の人、だよね?)
炊事班に所属していなければ、言葉を交わせるような人ではなかっただろう。
しかも、みんなからニコロ様と呼ばれていることから、ニッキーはあだ名だったのかもしれない。
(――ニッキー先輩って、まさか……ニコロ・フォン・なんとか……とか?)
有名貴族の名前が頭をよぎって、思わず目を丸くした。
「本名を知らなかったとはいえ、馴れ馴れしすぎたよね? あとで怒られないかな……?」
不安になっていると、ヴァル先輩が無言のまま鍋を支えに来た。
彼が火加減を見てくれているのに気づいた時、涙がこぼれそうになる。
(……これが、僕たちのスープ)
缶詰じゃない。
レシピ通りでもない。
誰かの笑顔のために、僕が作った、はじめての料理。
――このスープの味を、覚えていてほしい……。
疲れた時に思い出せば、きっと元気が出てくるはずだ。
次々とスープをよそい続けるけれど、列はなかなか終わらない。
兵士たちがお代わりに並んでいたからだ。
何度も、何度も――。
その誰もが、昨日とはまるで違う表情をしていた。
炊事班の反逆は、誰にも責められなかった。
――一杯のスープが、誰かの心と、この戦場の空気を、静かに変えていった。
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