炊き出しをしていただけなのに、大公閣下に溺愛されています

ぽんちゃん

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第二章

第七話 いない厨房 《ニコロ視点》

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 朝の点呼が終わっても、炊事場に湯気は立たなかった。

 兵たちは腹を空かせて整列し、誰からともなく「まだか?」と首を伸ばす。
 しかし、いつもなら漂ってくる香ばしい匂いも、食欲をそそる湯気も、そこにはなかった。

「なんだ……? 今日、遅くね?」

「炊事班、寝坊したんじゃねぇの?」

「ていうか、匂いがしねぇ。まさか……」

 嫌な予感が、兵士たちの間を伝染する。
 数人が我慢しきれず、厨房の奥を覗きに来る。

 けれど、まな板の上は空っぽ。
 釜には水一滴も張られていない。
 代わりに、缶詰の箱がいくつか床に転がっていた。

「な、なんだこれ……。缶詰かよ?」

「しかもこれ、“例の保存食”だよな?」

 兵士の一人が顔をしかめる。

 “例の保存食”――それは、戦地での非常用に支給される最下級の缶詰で、開けた瞬間から鼻を突く酸味が漂い、食べ終えるころには味覚がしばらく麻痺することで有名だった。

「食うもんがあるだけ、ありがたく思え」

「ヒッ!」

 言葉を失う兵士たちに、私の戦友――エドゥアルドがぎろりと睨みを利かせる。

 二十年前の戦で活躍した元英雄のひとりであるエドゥアルドは、国王陛下からテオフィロスの姓を賜った、平民の星である。

 貧しい境遇から苦労を重ねて、下積みから這い上がってきた、いわゆる叩き上げだ。
 ゆえに、地位や人の努力を馬鹿にする者を、誰よりも嫌っていた。

 だからこそ、レーヴェを軽視する者たちに嫌悪感を抱いている。
 冷たい態度でも仕方ないだろう。
 寝袋にこもる私は、知らんふりを決めていた。



 ◇ ◇ ◇



 レーヴェがいなくなって、今日で三日目。


 夕方まで寝ていた私は、のっそりと起き上がる。
 レーヴェがいない厨房は、寂しくてつまらない。
 二度寝しようとしたところで、声をかけられる。

「あの、すみません……おれたちの飯は……」

 おそるおそる声をかけてきたのは、前線帰りの兵士だった。
 殺気立つエドゥアルドに話しかけられない兵士たちは、マクミラン侯爵家出身の私ならなんとかしてくれるかも、と思ったのだろう。
 そんな愚かな彼らに、私はにっこりと微笑んだ。

「支給された缶詰があるじゃないですか」

「「「っ……」」」

 私の態度に、兵士たちが絶句する。
 レーヴェが炊事班に来るまでは、まずい缶詰と味気ないスープが当たり前だったというのに。
 どうやら忘れてしまったらしい。

 しかも、私たちを恐れて何も言えなかったくせに、弱者であるレーヴェには八つ当たりしたことを、エドゥアルドから聞いて知っている。

「い、いや、でも……この間までは……」

「今は料理する奴がいねぇんだよ」

 エドゥアルドはぶっきらぼうに言い捨てて、蓋の固い缶詰を放り投げる。
 兵士が「えっ」と戸惑う間もなく、缶は床に落ちて鈍い音を立てた。

 私たち炊事班は、意図的に何も作っていない。
 できないわけじゃない。
 ――作らないだけ。

 誰も、レーヴェの代わりにはなれない。
 そう痛感したからこそ、私たちは鍋に火を入れることすら拒んでいる。

 まっすぐで純粋な青年――レーヴェ。
 あの子がいなくなって、私たち炊事班のメンバーは悲しみに暮れていた。


 そんなときに、厨房にある男が乗り込んできた。


「夕飯に缶詰しかないって、どういうことですか!?」


 垂れた目元を吊り上げる、ディルク・ストーン伯爵令息だ。
 仲間に頼まれたのだろう。
 新人でありながら一小隊を任されている男は、責任感が強い男として頼りにされているらしい。
 小隊の仲間を引き連れていた。

「俺たちだって、毎日魔物と戦って、しんどい思いをしてるんです。でも、戦場に出ていないなら、飯くらい作ってくださいよ!」

 私たちの存在を知らない新米兵士が吠え、食堂は騒然とする。

 だが、エドゥアルドは昼間から飲んだくれているし、ヴァレンタインは厨房に顔を出してすらいない。
 誰も料理する気なんてなかった。

 私はゆっくりと立ち上がり、皆の前に出た。


「……作れないんですよ。リーダーが不在なので」


 食堂に、静寂が落ちた。

「えっ? リーダーって、マクミラン様ではないのですか……?」

 どうやらディルクは、炊事班のリーダーは私だと思っていたらしい。
 マクミラン侯爵家が後ろ盾になっているから、美味い飯が食えていたのだと、勘違いしていたようだ。

「マクミラン様でないなら、あの薪割り担当の人?」

「あっ、義足の人じゃ? 態度デカかったし……」

 ディルクの率いる小隊の者たちが、こそこそと話しだす。
 何もわかっていない愚か者たちに、私は現実を叩きつけてやることにした。


「私たち炊事班のリーダーは、ですよ」


「……………………は?」

 理解不能だったのか、ディルクは間抜けな声を発した。
 まさかここで、レーヴェの名前が出るとは思わなかったのだろう。

「え? レーヴェって、あの……?」

「役立たずだったあいつ?」

「……嘘だろ、あいつが?」

「炊事班の新米、だよな?」

 ざわつく声が広がっていく中で、私はゆっくりと言葉を発する。


「今まで、炊事班の飯が美味しかったのは、あの子がいたからです。ぬかるむ道を一時間近く歩いて、近隣の村まで行き、あなたたち三百人分の野菜や香辛料を調達していました。……使、ね?」

「「「っ……!!」」」


 話を聞いていた者たちが、ヒュッと息を呑む。
 まさか、レーヴェが自身の給料を使って食材を調達しているとは思ってもいなかったのだろう。

「味付けも、メニューも、仕入れの工夫も、全部あの子の手柄です。私たちは、その補佐をしてただけ」

「で、でも、指揮してたのは、マクミラン様じゃ……」

 レーヴェがリーダーだったことを受け入れられないのだろう。
 ディルクは青を通り越して白い顔になっていた。


「厨房を動かしてたのは、いつだってあの子でしたよ」


 信じられないという顔で兵たちは顔を見合わせた。

 あの炊事場で、ひっそり働いていた少年。
 華があるわけでも、偉そうな態度でもなかった。
 だが、レーヴェ・ノアールの作った食事は、どこまでも温かくて、優しかった。

 だから、彼らはこれから、改めて思い知ることになるだろう。

 レーヴェが、どれほどの存在だったのかを……。

 食事とは、単に腹を満たすだけではない。
 兵士たちの疲れた心を癒し、士気を高め、戦場という非情な世界の中で、人としての尊厳を守ってくれるものだった。

 それを当たり前のように提供してくれていたのが、レーヴェだった。

「……もしかして、レーヴェって、すげぇ奴だったんじゃ……?」

 誰かが呟いた言葉に、全員が押し黙る。

 遅すぎる気づきだった。


 









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