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第二章
第六話 最悪の瞬間
しおりを挟むその日、空は鈍く曇っていた。
僕はクッキーの包みを手に、ディルクのもとを訪ねることにした。
ディルクもまた、クッキーを作ったのはエリンだと勘違いしているかもしれない。
(他のみんなに誤解されても、ディルクには僕の気持ちをわかっていてほしい……)
今はすれ違っているけど、いつかきっとディルクと和解できる日が来るはずだ。
そう思いながらテントに近づくと、中から笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ……」
耳に馴染みのある声――エリンだ。
嫌な予感がして、胸がざわついた。
「……ディルク、ダメよ……っ」
「大丈夫。誰も来ない。お前が欲しかったんだ、ずっと……エリン」
ふたつのシルエットが重なり、視界が凍りつく。
僕の足元に、クッキーの包みが音もなく落ちた。
呼吸がうまくできなくなって、喉が焼けるように痛む。
それでも声が出せなくて、僕はその場を逃げるように離れた。
何も考えられなかった。
足元はぐらぐらで、前が見えなくて、気づいたら厨房の隅で膝を抱えていた。
◇ ◇ ◇
結局、一睡もできないまま、朝を迎えた。
昨日の出来事がぐるぐると頭の中を回っている。
昼食の片付けが終わった後、ディルクから「話がある」と呼び出された。
場所は、軍本部裏の古い木陰。
人目につかない場所を選んだのは、僕と一緒にいるところを見られたくないからだろう。
重い足取りで向かえば、すでにディルクはいた。
伸びた茶色の髪が風になびく。
陽射しを背に、仏頂面で僕を見下ろすように立っている。
「遅い」
約束の時間にはまだ早いけれど、ディルクは待たされたことに苛立っていた。
久しぶりに会えたことに喜ぶ様子は、一切見られない。
「……話って……」
「エリンが妊娠した。俺の子だ」
その言葉は、冷水を頭からぶっかけられたようだった。
堂々と浮気したことを打ち明けるディルクからは、僕への罪悪感なんてカケラも感じられなかった。
「……エリンが、妊娠……」
「だから、俺たちの婚約は解消する。もう決まったことだ。エリンとも話はついている」
「そんなっ!!」
一方的に話すディルクは、エリンとの未来しか見ていなかった。
「ま、待って……! 僕、聞いてほしいことがあるんだ」
「……なんだよ、早くしてくれ」
ディルクの目が、明らかに苛立ちを帯びた。
それでも僕は、事実を伝える。
ディルクの気持ちがもう僕にはなくて、エリンにあったとしても――。
「僕が……あのクッキーを焼いたんだ。あれは僕が、エリンに託したんだよ」
何度も脈打つように鼓動が早くなる。
それでも僕は、勇気を振り絞って言葉にした。
「ディルクにも伝わってると思ってた。少なくとも、食べればわかるって……」
けれど、ディルクは冷笑を浮かべた。
「……は? それ、本気で言ってんのか?」
「っ、」
「お前が、あのクッキーを焼いたって? 冗談だろ。どこまで惨めになりたいんだよ」
半笑いのディルクに、僕は絶句する。
僕の話をこれっぽっちも信じていない。
むしろ、嘘つきを見るような、見下すような目だった。
「貴族の令嬢が作ったって方がよっぽど説得力あるし、味だって別に特別だったわけじゃない。誰が作っても同じだよ」
「でも、僕は……!」
「いい加減にしろよ。お前みたいな炊事兵が、どれだけ吠えたところで誰も信じない。俺が選ぶのはエリンだ。お前じゃ話にならないんだよ」
鋭い言葉が、矢のように突き刺さった。
(……僕の目の前にいる人は、本当にディルクなの?)
まるで別人を見ているようだった。
「……ディルクは、僕を支えてくれるって……ずっと、言ってくれたのに……」
「いったい、いつの話をしてるんだよ」
ディルクがハッと鼻で笑った。
変わってしまった婚約者の姿が、涙で歪む。
僕が俯けば、ディルクはうっとうしそうにため息を吐いた。
「……確かに、昔はお前を守りたいと思ってた。でも、今は違う。お前と一緒にいると、俺まで笑われる。“役立たずの炊事兵と婚約中”ってな」
過去に食堂で、仲間たちと一緒になって僕を馬鹿にしていた日が思い起こされる。
今思えば、その時からディルクは僕を疎ましく思っていたのかもしれない。
悲しくて仕方がないのに、追い打ちをかけるようにディルクの愚痴は止まらなかった。
「この前も言ったよな? 俺が、どれだけ戦場で功績を上げようと、婚約者が炊事兵って知ると、周りからは、俺まで問題を起こしたことがあるんじゃないかって目で見られるんだ。その気持ちが、お前にわかるか?」
「っ、僕は、問題を起こしたから炊事兵になったわけじゃ……」
「そんなことは関係ないんだよ。お前が炊事兵か、そうじゃないか。周りが重要視しているのは、その事実だけだ」
それくらいわかるだろ、とディルクが吐き捨てた。
炊事兵は、怪我で前線を退いた者や、問題を起こした者の掃き溜めと呼ばれている。
戦えない者が送られる『底辺の配属先』。
それが炊事班という認識だ。
けれど、これまで炊事班の一員として働いてきて、炊事兵はただの雑用係ではないと、僕は思ってる。
誰かが食事を作ってくれるありがたみを、僕は知ってる。
戦場では、命を削って戦う者だけが評価される。
けれど僕は、それを支える手のひとつになりたかった。
熱々のスープひとつで、疲れた兵士が笑うことだってある。
――その笑顔のために、僕は鍋を振ってきたんだ。
その想いが、ディルクには伝わっていなかったことが、何より悲しかった。
「……僕の想いは、そんな軽いものじゃなかったよ」
「俺にとっては軽いんだよ。俺は、一緒にいて恥ずかしくない相手を選ぶ。それに、エリンは妊娠してるんだ。男として、責任を取らなきゃいけないだろ?」
「…………」
浮気をした方が悪いはずなのに、なんでそんなこともわからないんだと、ディルクに責められているような気分になる。
「なあ、もういいか? エリンが心配してるんだ」
……僕はもう、何も言う気力もなかった。
僕が無言だからか、納得したと思ったのだろう。
別れの挨拶もなく、ディルクは背を向けた。
その背中が、完全に僕を突き放していた。
◇ ◇ ◇
その夜、僕は厨房の片づけをしていた。
鍋を洗い、まな板を拭き、これまで作った料理のレシピ帳を丁寧に閉じる。
気づけば、あのクッキーの甘い匂いも、もう何も残っていなかった。
(ありがとう。ごめんなさい……)
それだけを心の中で呟いた。
僕は軍を去る準備を整える。
夜の風は冷たくて、でもどこか、静かに背中を押してくれるような気がした。
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