炊き出しをしていただけなのに、大公閣下に溺愛されています

ぽんちゃん

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第二章

第八話 もう一度、会えたら 《ディルク視点》

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 どうして、こんなにも静かなのだろう。

 騒がしいはずの食堂に、湯気の立つ匂いも、笑い声も、もうなかった。

 俺の前に置かれたのは、錆びた缶切りと、例の保存食。
 それを見た瞬間、俺はようやく異変に気づいた。

(――あいつが、いない)

 レーヴェ・ノアール。
 俺の“元”婚約者。

 正直、レーヴェが嫌いだったわけじゃない。
 むしろ、最初はあいつの無垢さに心惹かれていた。

 軍に所属することが決まったとき、レーヴェは笑顔で言った。


『僕、医療班を希望する。だって医療班なら、ディルクが怪我をしたとき、すぐに駆けつけられるから』


 エリンのように誰の目も引く容姿ではないけれど、レーヴェは野に咲く花のように、素朴で優しい子だった。

 それなのに、なぜか炊事班に回された。

 貴族の子息でありながら、下働きのような部署に甘んじていたレーヴェ。
 周囲から「役立たず」と嘲られながらも、何も言い返さない。
 そんなあいつを見ていると、苛立ちさえ覚えた。

 でも、料理は美味かった。
 どこまでも、あたたかくて優しい味がした。

 鍋に向かうあの小さな背中を、俺は何度も目にしている。

 ――あのクッキーだって、そうだった。

 兵舎に甘い香りが立ちこめた日。
 怪我で休んでいた俺のもとに、クッキーを差し出してきたのはエリンだった。

「ディルクを、元気づけたくて……」

 その瞳には、涙のような光が揺れていた。

 クッキーを口に入れた瞬間、ほんのわずかに胸がざわついた。

 どこかで知っている、懐かしい味――。

 でも、俺は目をそらした。

(……これは、エリンが作ったんだ。そういうことにしておこう)

 エリンは清楚な外見で、儚げな雰囲気だったことから、兵士たちの中で絶対的な人気を誇っていた。

 一方で、炊事兵のレーヴェは、どれだけ頑張っても誰にも評価されなかった。
 上を目指す俺には、相応しくないと思った。

 ――……俺はいったい何様なんだよ、最低だ。

 だから、あのクッキーがどれだけレーヴェの味でも、あいつの気遣いそのものであっても、俺は気づかないふりをした。

 婚約者が炊事兵だなんてかわいそう、と言われたくない。
 そんな情けない理由で。

 あいつは、何も悪くなかったのに……。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「……あの、クッキーの件なんですけど」

 誰かが声を潜めて言った。
 焚き火のそばで、兵士たちがこそこそと話し合っている。

「クッキーの話? もしかして……」

「ああ。エリン様が被害者みたいに言ってるけど……。あれ、完全に奪ってたよな、手柄」

「なんか、最近エリン様の態度、おかしくない? 目の前で泣くくせに、裏で笑ってたって話もあるし」

 その瞬間、俺の中で、何かが崩れた。

 エリンは皆の前で、涙を浮かべてこう言った。


『私は、自分が作ったなんて、一言も言ってません。ただ、皆が元気になればと思ってクッキーを配っていただけ……それだけなんです……』


 儚げに肩を震わせ、まるで“可哀想な少女”を演じるように。

 けれど、俺は知っている。
 あれが確信犯だったことを……。

(……俺は、守るべき人を間違えたんじゃないのか)

 レーヴェは、いつだって俺のそばにいた。
 不器用で、控えめで、それでも一途に俺を想ってくれていた。

「一緒にいて、恥ずかしくない相手がいいんだ」

 あの日、自分が吐き捨てた言葉を思い出す。
 胸が痛かった。

(……恥ずかしいのは、俺の方だった)

 あいつは、ずっと俺を見てくれていたのに。
 俺はその手を自分から振り払って、別の女を選んだ。

 その結果が、今だ。

 

「……レーヴェは、もう戻ってこないのかな」

 誰も返事をできなかった。
 あまりにも、静かで、寒々しい。

(……そうだよな。俺があいつを裏切ったんだから)

 皆から少し離れた場所でひとり、まずいスープと向き合う。

 以前は祝福されていたはずのエリンとの関係も、今や冷たい目で見られていた。
 小隊の絆も崩れ、全体の士気も下がっている。

 缶詰を開ける音、鼻につく酸味のあるにおい。
 どれを取っても、あいつの手料理には遠く及ばない。

(……気づくのが、遅すぎた)

 レーヴェを裏切った俺と、被害者ぶって嘘を重ねるエリン。
 今では、陰で「お似合い」などと皮肉られているが、反論する気にもなれなかった。

(レーヴェがいないだけで、こんなにも空っぽになるなんて)

 何を食べても、どこか味がしなかった。

 ……あの温もりを、一度でいいから取り戻せたら。

(でも、今更、何を言える? エリンの腹には、俺の子が……)

 その瞬間、ふと脳裏によぎった。

「……いや、そもそも、妊娠も……」

 最近、エリンの話すことすべてが嘘に思えてくる。
 泣き顔の裏で笑っていたと聞いたときから、何かが崩れていった。

 今、確かなのはひとつだけ――

 レーヴェに、もう一度会いたい。

「……レーヴェ。いったい、どこに行ったんだよ……」

 まだ、遠くには行っていないかもしれない。
 ほんの少しでも、遅くなっても、今からでも謝れたら――。

(レーヴェ。お願いだ。やり直させてくれ。今度こそ……)

 現状を打破すべく、俺は立ち上がった。

 レーヴェさえ戻って来れば、すべてが丸くおさまるはずだ。
 離れていった小隊の仲間たちも、きっと俺のもとに戻ってくる。

 無言で俺を見つめる小隊の仲間たちの冷ややかな視線を、真っ直ぐ受け止める。

「……レーヴェを連れ戻す」

 沈黙の中で、誰も反対はしなかった。

 むしろ、それを待っていたかのように、ほんの少しだけ皆の目が輝いたように見えた。

(次は絶対に、手を離さない)

 自分にそう言い聞かせて、俺は駆け出した。

 あの日の甘いクッキーの香りを思い出しながら――。














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