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第一章 過去をつれてくる雨
絡んだ視線。
はじめに込み上げたのは、懐かしさだった。過去の恋慕がよみがえったかのように、わずかに気持ちが浮き上がった。
しかしそれは五秒と経たず突き落とされる。何事もなかったように逸らされた目と、左手の薬指に光る指輪によって。
堅苦しいスーツを着た男たちがなにやら話をしながら横を通り過ぎていく。廊下のはしで立ち止まっている和香に気をとめることはない。彼らの真ん中にいたのは宗像総司――この会社社長の御曹司であり、五年間会うことのなかった昔の恋人だ。
今、彼の目は確かに和香を捉えた。けれど表情はぴくりとも動かなかった。
気がつかなかった?
男たちの話し声は徐々に背後へ遠ざかっていく。和香はその場に立ち尽くしたまま、一歩も踏み出すことができない。
「私、どうして――」
こんなに衝撃を受けているのだろう。こんなの、まるで傷ついているみたいじゃないか。
彼が結婚していることは分かっていた。
無視されたのはきっと、周りに人がいたから。
今さら自分がこんなふうに揺さぶられる理由なんてないはず。なのに、大切なものが損なわれてしまった気がするのは、どうしてだろう。
「どうしたの、倉田さん。そんなところに立ち止まって」
はっと顔を上げると、廊下の先で元同僚の森川がこちらを振り返っていた。
仕事で来ていることを思い出し、和香は慌てて気を引き締める。
「なんでもない。ごめんなさい、待たせちゃって」
憂慮を振り払うように顔に笑みを貼りつけた。
幸い森川は数歩先を歩いていたので、二人の間にある角を曲がってきた総司の存在には気づかなかったようだ。変に気遣われる心配がないことに安堵した和香は、彼のあとについて会議室に入り、打ち合わせに集中しようとした。
けれど、森川の背後に見える窓の景色に気がついたら、頭の片隅で勝手に呼び起こされていく思い出を止めることなんてできなかった。
ああ、あの日と同じ――
不穏に垂れ込める灰色の雲から細い糸が降り注ぐ。
ガラスの向こうに見えるのは、静かな静かな雨だった。
二人で会った最後の日も、和香は雨を眺めていた。
カフェの店内にはBGMがかかっておらず、静かな水音を楽しめるように店員があえてそうしたのかもしれない、などと考えていた。
最初に切り出したのは総司だった。
『別れよう』
向かいに座った彼の声は落ち着いていた。穏やかで、雨の音にとてもよく似合っていた。
『うん』
和香の声も同じ。雨の中に溶け込んでいきそうなほど静かに凪いでいた。
二人は新卒で入社した株式会社宗像百貨店の同期だった。
好意をいだいた最初のきっかけは、仕事の悩みを聞いてもらったことだ。
――大丈夫だ。君のいいと思うようにすればいい。
デザイナーでありながらすぐ自信をなくす和香は、何度この言葉で勇気づけられたか知れない。
総司自身は力強いリーダーシップで仕事を推し進めるタイプで、自分と全く違う彼を和香は尊敬していた。けれど、彼だって他人に見せないだけで、人並みに繊細な部分を抱えているのだ。それを知ったとき、止めようもないくらい愛情は膨れ上がっていた。
彼の人となりを知るほどに、心が抗いようもなく惹きつけられる。それは総司も同じだったらしい。御曹司という立場に尻込みしなくもなかったが、歯止めにはならなかった。
これほど人を愛することはきっともうない。それくらい互いを想い合っていたし、将来だって意識していた。けれど、結局その関係は一年半ほどで幕を下ろすことになった。
こんなに静かな別れってあるんだ。
テーブルの上のコーヒーは、一度も口をつけられないまま冷たくなっている。ダークブラウンの水面には、同じくらい暗い顔をした自分が映っていた。
別れがつらくないなんてこと、あるわけがない。愛情は薄れるどころか強まるばかりで、互いがいない未来なんて考えられなかった。たくさん苦悩したし、葛藤もした。これはその結果。
彼はすでに覚悟を決めていた。出ていった長男の代わりに社長の後継者として立ち、いろんな責任や枷を負っていく覚悟を。決められた結婚もその一つだった。
大企業や名門の家というのは、個人の感情とは異なる理屈で動いている。社会に出てようやく二年になろうかという二人に、それに対抗する力も知恵もあるはずがない。
ただ拒みつづけ、その分だけ疲弊した。それでも離れたくないなんて嘆く気力は残されていなかった。
もう、終わるしかない。
互いにはっきりと理解していた。
『さようなら』
別れを口にしたとき、総司の目が潤んで見えた。目だけでなく、顔も、髪も、肩も、テーブルや、店内まで。
そのとき和香の瞳に映ったのは、ゆらゆらと揺らいでぼやける世界だけだった。
涙なんてとうに枯れたと思っていたのに。
彼がこのときどんな表情をしていたのか、今でも分からない。
二人の最後の思い出は、穏やかに降りしきる水の音だった。
苦しい別れのあと、和香は会社を辞めた。失恋の痛みだけでなく、政略結婚によって引き裂かれた御曹司とその恋人の噂が会社のあちこちで囁かれたこともあり、とても居続けられる状態ではなかったのだ。
ちょうどその頃、親友がアンティークショップを始めようとしていたため、和香はそれに共同経営者として参加し、東京を離れた。二度と総司にも会社にも関わることはないと思っていた。
なのに、また顔を合わせることになるなんて。
メモを書き入れた書類をぱらぱらと見返している森川から、和香はゆるりと視線を外す。彼の背後では相変わらず雨が降りつづいていた。
退職して五年。細々とやりとりを続けてきた元同期の彼から、企画のために話を聞かせてほしいとお願いされたのはつい先日のことだ。会社を辞めて以降、アンティークショップの経営で試行錯誤を重ねてきたが、その経験が前職の同僚の役に立つとは思わなかった。近くの支社に彼が異動してきていたこともあり、和香はその依頼を承諾した。
ひととおりの確認を終えた森川が力強く頷くのを目にして、和香はホッと息を吐く。
「ありがとう。倉田さんが相談に乗ってくれたおかげで、なんとか企画が形になりそうだよ」
「よかった、役に立てて。宗像百貨店の催事でアンティークを取り扱うのって初めてじゃない? たくさんお客さんが来るといいけど」
「その前に、企画会議で最終のゴーサインをもらうっていう難関がまだ残ってるけどね」
テーブルの上でとんとんと書類をそろえながら森川は苦笑する。けれど、企画はきっとすんなり通ってしまうに違いない。同期だった和香は彼の優秀さをよく知っていた。
「森川ならいけるよ。私に手伝えることがあったら言ってね」
「ありがと」
手元の企画案に再度目を落とし、和香は頬を緩める。記載されているのは、会社が経営するデパートの催事フロアに骨董品店を集めて行うアンティーク販売イベントだ。アンティークのよさを多くの人に知ってもらういい機会になるだろう。外部の相談役としてしか関われないことが多少残念ではあるけれど。
「ほんと倉田さんが引き受けてくれて助かったよ。ごめんね、会社に呼んじゃって。支社とはいえ、あんまり来たくなかったでしょ」
「それは……」
彼があまりにも申し訳なさそうな顔をするから、和香はなんと答えていいか分からなくなる。
総司を除けば、森川は同期の中で一番親しかった。当然、和香と総司の出会いから別れまでを間近で見ている。和香がわざわざ本社のある東京から離れた地方都市にショップを構えたのも、総司から物理的な距離を置くためだと察しているだろう。
「否定は……しない。けど、支社だから、彼に会うこともないだろうし、手伝えることがあるのは嬉しいよ」
嘘でないことを証明するように微笑みを浮かべる。
すでに総司とばったり出くわしてしまったことは伏せておいた。本社勤務であるはずの彼が支社を訪れていることをおそらく森川は知らない。そうでなければ和香を呼ぶわけがない。ならば、黙っておいたほうがいらぬ心配をかけずに済む。
入社してからほんの二年で慌ただしく辞めてしまったせいで、この会社には世話になった人も迷惑をかけた人もたくさんいる。もちろん目の前の彼もその一人だ。その恩返しがほんの少しでもできるならしたかった。
しかし、森川はどうにも納得しかねたようだ。
「そう……? なんだか、元気がなさそうに見えたから。ここに呼んだのは失敗だったかと思ったんだ」
微笑みが強ばりそうになる。
やっぱり隠せないなあ……
彼は本当に人をよく見ている。表情の変化が乏しくて感情が分かりにくいと言われる和香だが、昔から森川は不思議と見抜いてしまう。
けれども今は、正直な気持ちを吐露するわけにいかない。自分自身もまだ、突然の再会で湧き起こった感情を整理しきれていないのだから。
「久しぶりだから緊張してるだけだよ」
「なら、いいけど」
困ったようにほんの少し眉尻を下げて、たぶん彼は和香の誤魔化しも分かっている。それでいてなにも言わないでくれるのがありがたかった。
打ち合わせはそのまま終わった。久しぶりだからゆっくり話したいという森川の食事の誘いを、予定があるからと丁寧に断り、和香は一人でエントランスフロアに下りた。
待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。さてどう時間をつぶそうか。自動ドアのガラス越しに、いまだやむ気配のない雨をぼんやりと見つめる。
次の予定は、恋人との約束だ。総司のことは言えないな、と自嘲する。過去の恋を思い出にして次の相手に向かっているのは和香も同じだ。違うのは、紙切れ一枚、指輪一つのあるなしでしかない。なのに、勝手に置いていかれたような気持ちになるのは筋違いというものだ。
たぶん、自分は寂しいのだと思う。
かつて一つに重なっていた想いが、今は別々の方向を向いているということ。二人で積み重ねた思い出を同じ気持ちで分かち合うことはもうできないということ。
それを突然思い知って動揺しているだけ。
でも、実際それは大したことではないのだ。
想いが離れてしまっても、気持ちが冷めてしまっても、過去は変わらない。一番に大切な人と確かに想い合って、宝物のような時間を過ごしたことは、揺るぎない事実だ。
たとえ未来がなくても――いや、ないからこそ。全力で散った愛の記憶は色褪せることなく、尊い輝きを帯びる。過去が動きだすことは二度とない。思い出は永遠に美しいまま。それは和香にとって慰めであり、幸福とすら言えることだった。
だから、束の間の邂逅など忘れてしまおう。そうして美しい思い出だけを大切にして生きていけばいい。
そうやって胸にわだかまる感情を振り切ろうとした。
なのに、不意に背後からかかった声を聞いて、つくづく意地悪な現実を恨みたくなった。
「どうして君がここにいるんだ」
どうしてなんて、こちらが尋ねたいくらい。
少し低めのハスキーボイス。五年ぶりなのにすぐに分かってしまうその声は、まさしく彼のものだった。
「……用事があったから」
一拍置いて和香は振り返った。
少し離れたところに総司が立っている。高めの身長。見上げる角度をごく自然に身体が思い出す。あの頃よりも少しがっしりしたかもしれない。彫りの深い男らしい顔立ちは相変わらず。
見蕩れそうになって、慌てて観察するのをやめた。
「仕事で来ていたのは知ってる。ミーティングフロアでさっき見かけた」
「私がいることに、気づいてたの?」
和香が驚きをにじませると、総司は不思議そうに眉を上げた。
「目が合っただろ?」
表情一つ変えなかったくせに。
反射的に浮かんだ文句は、きっと口にすべきではない。和香の瞳は今なお彼の手の中で光るものを映していた。
「……結婚、したんだよね」
「ああ」
総司は自分の左手を確かめるようにちらりと見た。その仕草に胸がちくっとする。
「おめでとう。すごく、今さらだと思うけど」
「……ああ」
短い返答の奥には、いったいどんな感情があるのか。五年ぶりの和香に分かるはずもなかった。
自分と別れてから彼と奥さんがどんな関係を築いてきたかなんて、想像もつかないし、踏み込んで聞きたいとも思えない。うまくいっていても、いなくても、微妙な気分になることは分かりきっている。
和香にできるのは、ただ和やかに当たり障りのない会話を続けることだけだった。
「久しぶりに会ったけど、元気そうで安心した」
「君も。退職してから店を開いたとは聞いていたが、詳しいことは分からなかったからな」
「うん、まあ……なんとかやってる」
「ならよかった」
総司がなにかを思案するようにやや視線を下げる。途切れた会話が気まずい空気を作り出した。
昔はこんなふうに互いが黙っても全く苦にならなかったのに。
些細ななにかに気づくたび、寂しいような虚しいような気持ちが少しずつ胸の内に降り積もっていく。さっさと会話を切り上げたほうがいいのかもしれない。和香が立ち去るタイミングを窺っていると、彼の表情がにわかに真剣な色を帯びた。
「君は……もう二度と、俺の前に姿を現すことはないと思っていた」
持ち上げようとしていたつま先の動きがぴたりと止まる。そして元の場所に戻った。
「だから、支社とはいえ、社内で君を見かけて驚いた」
総司の視線がすっと上がり、和香を捉える。その眼差しの真っ直ぐさに、身体を縫いとめられた気がした。
「そんな……そんなわけ、ない。退職はしたけど、用があれば会社にだって顔くらい出すもの」
「そうみたいだな……」
和香は自分の心が見透かされないことを祈った。
本当は会いたくなかった。会うつもりもなかった。
和香にも総司にももう別の相手がいて、互いに別の未来を歩みはじめている。二人の道が交わることは永遠にない。顔を合わせたところで、失った未来を思って寂しくなるだけだ。過去は取り戻せない。
森川に頼まれて、支社だから平気だろうと油断してしまったけれど、こんな失敗は二度としない。
だから、総司の顔を見るのもこれで最後。今を穏便にやりすごせば、何事もなかったように日常に戻る。
――そのはずでしょう?
「和香、俺は――」
総司がなにかを言いかけたとき、和香の懐でバイブレーションの唸り声が上がった。
二回に分けて振動したあとあっさりと沈黙したそれは、おそらくメッセージの着信だ。すぐに確認すべきか悩んでいると、どうぞとでも言うように総司の手のひらがこちらを向いた。
「仕事の連絡だったら早く返したほうがいいだろ」
「……ありがと」
手早くスマートフォンを取り出してみると、メッセージは交際相手の矢野匠からだった。内容は端的な一文。
『ごめん、今日は会えなくなった』
自分の顔から表情が抜け落ちた気がした。
彼とは仕事の関係で知り合ったため、プライベートでも連絡は事務的になりがちだ。互いに自営業だから、突発的に用事ができる事情も理解はできる。
だけど、できれば今日だけは……会いたかった。この突然の再会に揺さぶられて不安定になった心を、恋人の顔を見て落ち着けたかった。
「なにかあったのか?」
怪訝そうに問いかけられて、はっと我に返る。
「な……なにも。大したことじゃ、なかった」
笑おうとして無様に頬が強ばり、咄嗟に俯く。そして失敗したと思った。今の動きは不自然だった。絶対に動揺を悟られた。
硬い床を歩く控えめな足音がして、二人の間にあった距離が詰められる。間近に迫った相手の気配に緊張が高まる。
スマートフォンを握りしめたまま和香が身動きできずにいると、いきなり頬に男の手が触れて顎を持ち上げられた。
思ったよりも近くに総司がいたことにどきりとする。後ずさろうとするが、黒髪の下からのぞく鋭い目線で制された。至近距離で見つめ合う。彼の瞳の奥に、熱いものが見えた気がした。
「男から?」
「っ……そんなの、あなたに関係ない」
「和香」
「離してっ」
手荒くその腕を払い除け、後ろに下がる。これ以上近づかれたら、冷静さを保っていられないと思った。
「のどか……?」
かすかに揺れる声は、彼の戸惑いを表している。まるでこちらの拒絶に傷ついているみたいに。やめてほしい。情のようなものが込み上げそうになる。
和香は気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた。
「お願い、やめて。私は今さら、あなたと関わる気はないの」
強い言葉で、はっきりと線を引く。固く握りこまれたこぶしを視界のすみに捉えたけれど、あえて無視した。
やっとここまで立ち直ったのだ。
つらい失恋を乗り越え、普通に恋愛ができるようになるまで、とてつもない時間を要した。この五年間は、ほとんど痛みを忘れるためにあったといっていい。
なかったことにするには思い入れが深すぎて、けれどいつまでも心の真ん中に置いておくには悲しすぎる。ようやく美しい思い出として顧みられるようになったのだ。
なのに、こんなふうに触れ合ってしまったら、心が引き戻されそうになる。
総司は黙り込んで眉根を寄せていた。そんな顔をするのは、彼だってつらかった別れを覚えているからではないのか。自分たちがともにいることは、じわじわとした痛みをかもすだけで、きっとなんのプラスにもならない。
「ごめんなさい。……さよなら」
一方的に告げて、総司に背を向け、オフィスを出た。外はやはり雨が降っている。
別れた日と同じなんて、いやな偶然。
心の中でぼやき、手にしていた傘を広げ、和香は道路に踏み出した。
かつかつかつとヒールが地面を叩く音がする。水溜まりの水が跳ね上がり、靴とストッキングを汚していく。けれど、和香の意識は別のところにあった。
時刻はゆっくりと夜に差しかかり、定時で上がった勤め人たちが街中を賑わしはじめる。きらめく街のネオンと人々のざわめきを眺めながら、和香は先ほどの総司との会話を思い返していた。
はっきりと拒絶したことに後悔はない。穏やかに別れられなかったことが残念ではあるけれど、向こうがそうさせなかったのだからどうしようもない。
向こう――総司は、いったいなにをしたかったのだろう。彼はなにかを言いかけていた。既婚者でありながら、あんなふうに触れてくるのはどういうつもりだったのだろう。
「……もう、終わったことか」
ぽつりとした呟きは雑踏の中にまぎれていく。
今度こそ彼とは二度と会わない。最後が後味の悪いやりとりになってしまったけれど、それこそ忘れてしまえばいい。
人混みの中を歩きながら、大丈夫、大丈夫と胸の内で繰り返した。
通りをひたすらに進むと、やがて駅前にたどり着く。このあたりの中心的なターミナルは、いくつもの路線が乗り入れ、手前に広々としたロータリーを備えている。
このあとの予定がなくなった和香は真っ直ぐ帰宅すべく改札口に向かおうとした。だが、帰宅ラッシュが始まっている駅構内はひっきりなしに人が行き交い、互いに避けつつ進まねばならない。
知らず速くなっていた歩みを緩めた和香は、雑踏の中に見知った顔を見つけ、ぴたりと足を止めた。
向こう側からやってくるのは一組のカップルだ。その片方が、自分のよく知る人物だった。その男は矢野――約束をドタキャンした恋人だった。
どういうこと? 仕事相手と用事で通りかかっただけ?
そんな憶測はすぐに的外れだと分かる。その隣の見知らぬ女性がごく自然な仕草で彼の腕にしなだれかかったのだ。
和香が言葉を失って立ち尽くしていると、こちらの存在に矢野も気がついたようだ。互いの視線が一瞬だけぶつかる。けれど、彼は平然とした様子で傍らの女性へ微笑みを向けた。
「近くに美味しい店があるんだ。予約していないから空いているか分からないけど、どう?」
「いいわね、行きましょう。ごめんね、私が突然会いたいなんて言ったから」
女性は男の腕をさらに引き寄せ、甘えるように頬を預ける。
やめて――喉からほとばしりそうになった叫び声を、和香は寸前で押しとどめた。
楽しそうに行き先を決める会話には、深い仲の男女に特有の親密さが漂っている。彼らが、ただの友人や仕事の付き合いといった関係であるはずがない。
どうして? 矢野さんの恋人は、私じゃないの?
頭の中は混乱でいっぱいだった。
浮気という言葉がふっと浮かぶが、おそらくそれは能天気すぎる思考だ。
こちらのほうが約束は先だったのに、彼女の急なわがままを矢野は優先した。和香に見られていることを分かっていながら弁解しようとする素振りもなく黙殺する。それがなにを意味するか。
呆然と二人を見つめていることしかできない和香の肩を不意に誰かの力強い手が引き寄せた。見上げると、昔よりもいくぶん精悍さを増した横顔がそこにある。
「そうじ……」
どうしてここに。まさか追いかけてきたのか。
彼は前方の男女に鋭い視線を向け、冷たく目をすがめていた。大体の状況を察したのかもしれない。
こんなところを、見られるなんて……
ぽろりと涙がこぼれ、慌てて指先で払う。続けてあふれ出しそうなしずくをぐっと呑み込んだ。
泣いてはダメ。我慢して。
懸命に自分に言い聞かせる。だって、今泣いたら、あまりにもみじめだ。
けれど、もう一度前を向く勇気は持てそうになかった。再び彼らの姿を目にしたら、きっと涙が止まらなくなってしまう。和香にはただ唇を噛んでじっとこらえることしかできない。
絡んだ視線。
はじめに込み上げたのは、懐かしさだった。過去の恋慕がよみがえったかのように、わずかに気持ちが浮き上がった。
しかしそれは五秒と経たず突き落とされる。何事もなかったように逸らされた目と、左手の薬指に光る指輪によって。
堅苦しいスーツを着た男たちがなにやら話をしながら横を通り過ぎていく。廊下のはしで立ち止まっている和香に気をとめることはない。彼らの真ん中にいたのは宗像総司――この会社社長の御曹司であり、五年間会うことのなかった昔の恋人だ。
今、彼の目は確かに和香を捉えた。けれど表情はぴくりとも動かなかった。
気がつかなかった?
男たちの話し声は徐々に背後へ遠ざかっていく。和香はその場に立ち尽くしたまま、一歩も踏み出すことができない。
「私、どうして――」
こんなに衝撃を受けているのだろう。こんなの、まるで傷ついているみたいじゃないか。
彼が結婚していることは分かっていた。
無視されたのはきっと、周りに人がいたから。
今さら自分がこんなふうに揺さぶられる理由なんてないはず。なのに、大切なものが損なわれてしまった気がするのは、どうしてだろう。
「どうしたの、倉田さん。そんなところに立ち止まって」
はっと顔を上げると、廊下の先で元同僚の森川がこちらを振り返っていた。
仕事で来ていることを思い出し、和香は慌てて気を引き締める。
「なんでもない。ごめんなさい、待たせちゃって」
憂慮を振り払うように顔に笑みを貼りつけた。
幸い森川は数歩先を歩いていたので、二人の間にある角を曲がってきた総司の存在には気づかなかったようだ。変に気遣われる心配がないことに安堵した和香は、彼のあとについて会議室に入り、打ち合わせに集中しようとした。
けれど、森川の背後に見える窓の景色に気がついたら、頭の片隅で勝手に呼び起こされていく思い出を止めることなんてできなかった。
ああ、あの日と同じ――
不穏に垂れ込める灰色の雲から細い糸が降り注ぐ。
ガラスの向こうに見えるのは、静かな静かな雨だった。
二人で会った最後の日も、和香は雨を眺めていた。
カフェの店内にはBGMがかかっておらず、静かな水音を楽しめるように店員があえてそうしたのかもしれない、などと考えていた。
最初に切り出したのは総司だった。
『別れよう』
向かいに座った彼の声は落ち着いていた。穏やかで、雨の音にとてもよく似合っていた。
『うん』
和香の声も同じ。雨の中に溶け込んでいきそうなほど静かに凪いでいた。
二人は新卒で入社した株式会社宗像百貨店の同期だった。
好意をいだいた最初のきっかけは、仕事の悩みを聞いてもらったことだ。
――大丈夫だ。君のいいと思うようにすればいい。
デザイナーでありながらすぐ自信をなくす和香は、何度この言葉で勇気づけられたか知れない。
総司自身は力強いリーダーシップで仕事を推し進めるタイプで、自分と全く違う彼を和香は尊敬していた。けれど、彼だって他人に見せないだけで、人並みに繊細な部分を抱えているのだ。それを知ったとき、止めようもないくらい愛情は膨れ上がっていた。
彼の人となりを知るほどに、心が抗いようもなく惹きつけられる。それは総司も同じだったらしい。御曹司という立場に尻込みしなくもなかったが、歯止めにはならなかった。
これほど人を愛することはきっともうない。それくらい互いを想い合っていたし、将来だって意識していた。けれど、結局その関係は一年半ほどで幕を下ろすことになった。
こんなに静かな別れってあるんだ。
テーブルの上のコーヒーは、一度も口をつけられないまま冷たくなっている。ダークブラウンの水面には、同じくらい暗い顔をした自分が映っていた。
別れがつらくないなんてこと、あるわけがない。愛情は薄れるどころか強まるばかりで、互いがいない未来なんて考えられなかった。たくさん苦悩したし、葛藤もした。これはその結果。
彼はすでに覚悟を決めていた。出ていった長男の代わりに社長の後継者として立ち、いろんな責任や枷を負っていく覚悟を。決められた結婚もその一つだった。
大企業や名門の家というのは、個人の感情とは異なる理屈で動いている。社会に出てようやく二年になろうかという二人に、それに対抗する力も知恵もあるはずがない。
ただ拒みつづけ、その分だけ疲弊した。それでも離れたくないなんて嘆く気力は残されていなかった。
もう、終わるしかない。
互いにはっきりと理解していた。
『さようなら』
別れを口にしたとき、総司の目が潤んで見えた。目だけでなく、顔も、髪も、肩も、テーブルや、店内まで。
そのとき和香の瞳に映ったのは、ゆらゆらと揺らいでぼやける世界だけだった。
涙なんてとうに枯れたと思っていたのに。
彼がこのときどんな表情をしていたのか、今でも分からない。
二人の最後の思い出は、穏やかに降りしきる水の音だった。
苦しい別れのあと、和香は会社を辞めた。失恋の痛みだけでなく、政略結婚によって引き裂かれた御曹司とその恋人の噂が会社のあちこちで囁かれたこともあり、とても居続けられる状態ではなかったのだ。
ちょうどその頃、親友がアンティークショップを始めようとしていたため、和香はそれに共同経営者として参加し、東京を離れた。二度と総司にも会社にも関わることはないと思っていた。
なのに、また顔を合わせることになるなんて。
メモを書き入れた書類をぱらぱらと見返している森川から、和香はゆるりと視線を外す。彼の背後では相変わらず雨が降りつづいていた。
退職して五年。細々とやりとりを続けてきた元同期の彼から、企画のために話を聞かせてほしいとお願いされたのはつい先日のことだ。会社を辞めて以降、アンティークショップの経営で試行錯誤を重ねてきたが、その経験が前職の同僚の役に立つとは思わなかった。近くの支社に彼が異動してきていたこともあり、和香はその依頼を承諾した。
ひととおりの確認を終えた森川が力強く頷くのを目にして、和香はホッと息を吐く。
「ありがとう。倉田さんが相談に乗ってくれたおかげで、なんとか企画が形になりそうだよ」
「よかった、役に立てて。宗像百貨店の催事でアンティークを取り扱うのって初めてじゃない? たくさんお客さんが来るといいけど」
「その前に、企画会議で最終のゴーサインをもらうっていう難関がまだ残ってるけどね」
テーブルの上でとんとんと書類をそろえながら森川は苦笑する。けれど、企画はきっとすんなり通ってしまうに違いない。同期だった和香は彼の優秀さをよく知っていた。
「森川ならいけるよ。私に手伝えることがあったら言ってね」
「ありがと」
手元の企画案に再度目を落とし、和香は頬を緩める。記載されているのは、会社が経営するデパートの催事フロアに骨董品店を集めて行うアンティーク販売イベントだ。アンティークのよさを多くの人に知ってもらういい機会になるだろう。外部の相談役としてしか関われないことが多少残念ではあるけれど。
「ほんと倉田さんが引き受けてくれて助かったよ。ごめんね、会社に呼んじゃって。支社とはいえ、あんまり来たくなかったでしょ」
「それは……」
彼があまりにも申し訳なさそうな顔をするから、和香はなんと答えていいか分からなくなる。
総司を除けば、森川は同期の中で一番親しかった。当然、和香と総司の出会いから別れまでを間近で見ている。和香がわざわざ本社のある東京から離れた地方都市にショップを構えたのも、総司から物理的な距離を置くためだと察しているだろう。
「否定は……しない。けど、支社だから、彼に会うこともないだろうし、手伝えることがあるのは嬉しいよ」
嘘でないことを証明するように微笑みを浮かべる。
すでに総司とばったり出くわしてしまったことは伏せておいた。本社勤務であるはずの彼が支社を訪れていることをおそらく森川は知らない。そうでなければ和香を呼ぶわけがない。ならば、黙っておいたほうがいらぬ心配をかけずに済む。
入社してからほんの二年で慌ただしく辞めてしまったせいで、この会社には世話になった人も迷惑をかけた人もたくさんいる。もちろん目の前の彼もその一人だ。その恩返しがほんの少しでもできるならしたかった。
しかし、森川はどうにも納得しかねたようだ。
「そう……? なんだか、元気がなさそうに見えたから。ここに呼んだのは失敗だったかと思ったんだ」
微笑みが強ばりそうになる。
やっぱり隠せないなあ……
彼は本当に人をよく見ている。表情の変化が乏しくて感情が分かりにくいと言われる和香だが、昔から森川は不思議と見抜いてしまう。
けれども今は、正直な気持ちを吐露するわけにいかない。自分自身もまだ、突然の再会で湧き起こった感情を整理しきれていないのだから。
「久しぶりだから緊張してるだけだよ」
「なら、いいけど」
困ったようにほんの少し眉尻を下げて、たぶん彼は和香の誤魔化しも分かっている。それでいてなにも言わないでくれるのがありがたかった。
打ち合わせはそのまま終わった。久しぶりだからゆっくり話したいという森川の食事の誘いを、予定があるからと丁寧に断り、和香は一人でエントランスフロアに下りた。
待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。さてどう時間をつぶそうか。自動ドアのガラス越しに、いまだやむ気配のない雨をぼんやりと見つめる。
次の予定は、恋人との約束だ。総司のことは言えないな、と自嘲する。過去の恋を思い出にして次の相手に向かっているのは和香も同じだ。違うのは、紙切れ一枚、指輪一つのあるなしでしかない。なのに、勝手に置いていかれたような気持ちになるのは筋違いというものだ。
たぶん、自分は寂しいのだと思う。
かつて一つに重なっていた想いが、今は別々の方向を向いているということ。二人で積み重ねた思い出を同じ気持ちで分かち合うことはもうできないということ。
それを突然思い知って動揺しているだけ。
でも、実際それは大したことではないのだ。
想いが離れてしまっても、気持ちが冷めてしまっても、過去は変わらない。一番に大切な人と確かに想い合って、宝物のような時間を過ごしたことは、揺るぎない事実だ。
たとえ未来がなくても――いや、ないからこそ。全力で散った愛の記憶は色褪せることなく、尊い輝きを帯びる。過去が動きだすことは二度とない。思い出は永遠に美しいまま。それは和香にとって慰めであり、幸福とすら言えることだった。
だから、束の間の邂逅など忘れてしまおう。そうして美しい思い出だけを大切にして生きていけばいい。
そうやって胸にわだかまる感情を振り切ろうとした。
なのに、不意に背後からかかった声を聞いて、つくづく意地悪な現実を恨みたくなった。
「どうして君がここにいるんだ」
どうしてなんて、こちらが尋ねたいくらい。
少し低めのハスキーボイス。五年ぶりなのにすぐに分かってしまうその声は、まさしく彼のものだった。
「……用事があったから」
一拍置いて和香は振り返った。
少し離れたところに総司が立っている。高めの身長。見上げる角度をごく自然に身体が思い出す。あの頃よりも少しがっしりしたかもしれない。彫りの深い男らしい顔立ちは相変わらず。
見蕩れそうになって、慌てて観察するのをやめた。
「仕事で来ていたのは知ってる。ミーティングフロアでさっき見かけた」
「私がいることに、気づいてたの?」
和香が驚きをにじませると、総司は不思議そうに眉を上げた。
「目が合っただろ?」
表情一つ変えなかったくせに。
反射的に浮かんだ文句は、きっと口にすべきではない。和香の瞳は今なお彼の手の中で光るものを映していた。
「……結婚、したんだよね」
「ああ」
総司は自分の左手を確かめるようにちらりと見た。その仕草に胸がちくっとする。
「おめでとう。すごく、今さらだと思うけど」
「……ああ」
短い返答の奥には、いったいどんな感情があるのか。五年ぶりの和香に分かるはずもなかった。
自分と別れてから彼と奥さんがどんな関係を築いてきたかなんて、想像もつかないし、踏み込んで聞きたいとも思えない。うまくいっていても、いなくても、微妙な気分になることは分かりきっている。
和香にできるのは、ただ和やかに当たり障りのない会話を続けることだけだった。
「久しぶりに会ったけど、元気そうで安心した」
「君も。退職してから店を開いたとは聞いていたが、詳しいことは分からなかったからな」
「うん、まあ……なんとかやってる」
「ならよかった」
総司がなにかを思案するようにやや視線を下げる。途切れた会話が気まずい空気を作り出した。
昔はこんなふうに互いが黙っても全く苦にならなかったのに。
些細ななにかに気づくたび、寂しいような虚しいような気持ちが少しずつ胸の内に降り積もっていく。さっさと会話を切り上げたほうがいいのかもしれない。和香が立ち去るタイミングを窺っていると、彼の表情がにわかに真剣な色を帯びた。
「君は……もう二度と、俺の前に姿を現すことはないと思っていた」
持ち上げようとしていたつま先の動きがぴたりと止まる。そして元の場所に戻った。
「だから、支社とはいえ、社内で君を見かけて驚いた」
総司の視線がすっと上がり、和香を捉える。その眼差しの真っ直ぐさに、身体を縫いとめられた気がした。
「そんな……そんなわけ、ない。退職はしたけど、用があれば会社にだって顔くらい出すもの」
「そうみたいだな……」
和香は自分の心が見透かされないことを祈った。
本当は会いたくなかった。会うつもりもなかった。
和香にも総司にももう別の相手がいて、互いに別の未来を歩みはじめている。二人の道が交わることは永遠にない。顔を合わせたところで、失った未来を思って寂しくなるだけだ。過去は取り戻せない。
森川に頼まれて、支社だから平気だろうと油断してしまったけれど、こんな失敗は二度としない。
だから、総司の顔を見るのもこれで最後。今を穏便にやりすごせば、何事もなかったように日常に戻る。
――そのはずでしょう?
「和香、俺は――」
総司がなにかを言いかけたとき、和香の懐でバイブレーションの唸り声が上がった。
二回に分けて振動したあとあっさりと沈黙したそれは、おそらくメッセージの着信だ。すぐに確認すべきか悩んでいると、どうぞとでも言うように総司の手のひらがこちらを向いた。
「仕事の連絡だったら早く返したほうがいいだろ」
「……ありがと」
手早くスマートフォンを取り出してみると、メッセージは交際相手の矢野匠からだった。内容は端的な一文。
『ごめん、今日は会えなくなった』
自分の顔から表情が抜け落ちた気がした。
彼とは仕事の関係で知り合ったため、プライベートでも連絡は事務的になりがちだ。互いに自営業だから、突発的に用事ができる事情も理解はできる。
だけど、できれば今日だけは……会いたかった。この突然の再会に揺さぶられて不安定になった心を、恋人の顔を見て落ち着けたかった。
「なにかあったのか?」
怪訝そうに問いかけられて、はっと我に返る。
「な……なにも。大したことじゃ、なかった」
笑おうとして無様に頬が強ばり、咄嗟に俯く。そして失敗したと思った。今の動きは不自然だった。絶対に動揺を悟られた。
硬い床を歩く控えめな足音がして、二人の間にあった距離が詰められる。間近に迫った相手の気配に緊張が高まる。
スマートフォンを握りしめたまま和香が身動きできずにいると、いきなり頬に男の手が触れて顎を持ち上げられた。
思ったよりも近くに総司がいたことにどきりとする。後ずさろうとするが、黒髪の下からのぞく鋭い目線で制された。至近距離で見つめ合う。彼の瞳の奥に、熱いものが見えた気がした。
「男から?」
「っ……そんなの、あなたに関係ない」
「和香」
「離してっ」
手荒くその腕を払い除け、後ろに下がる。これ以上近づかれたら、冷静さを保っていられないと思った。
「のどか……?」
かすかに揺れる声は、彼の戸惑いを表している。まるでこちらの拒絶に傷ついているみたいに。やめてほしい。情のようなものが込み上げそうになる。
和香は気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた。
「お願い、やめて。私は今さら、あなたと関わる気はないの」
強い言葉で、はっきりと線を引く。固く握りこまれたこぶしを視界のすみに捉えたけれど、あえて無視した。
やっとここまで立ち直ったのだ。
つらい失恋を乗り越え、普通に恋愛ができるようになるまで、とてつもない時間を要した。この五年間は、ほとんど痛みを忘れるためにあったといっていい。
なかったことにするには思い入れが深すぎて、けれどいつまでも心の真ん中に置いておくには悲しすぎる。ようやく美しい思い出として顧みられるようになったのだ。
なのに、こんなふうに触れ合ってしまったら、心が引き戻されそうになる。
総司は黙り込んで眉根を寄せていた。そんな顔をするのは、彼だってつらかった別れを覚えているからではないのか。自分たちがともにいることは、じわじわとした痛みをかもすだけで、きっとなんのプラスにもならない。
「ごめんなさい。……さよなら」
一方的に告げて、総司に背を向け、オフィスを出た。外はやはり雨が降っている。
別れた日と同じなんて、いやな偶然。
心の中でぼやき、手にしていた傘を広げ、和香は道路に踏み出した。
かつかつかつとヒールが地面を叩く音がする。水溜まりの水が跳ね上がり、靴とストッキングを汚していく。けれど、和香の意識は別のところにあった。
時刻はゆっくりと夜に差しかかり、定時で上がった勤め人たちが街中を賑わしはじめる。きらめく街のネオンと人々のざわめきを眺めながら、和香は先ほどの総司との会話を思い返していた。
はっきりと拒絶したことに後悔はない。穏やかに別れられなかったことが残念ではあるけれど、向こうがそうさせなかったのだからどうしようもない。
向こう――総司は、いったいなにをしたかったのだろう。彼はなにかを言いかけていた。既婚者でありながら、あんなふうに触れてくるのはどういうつもりだったのだろう。
「……もう、終わったことか」
ぽつりとした呟きは雑踏の中にまぎれていく。
今度こそ彼とは二度と会わない。最後が後味の悪いやりとりになってしまったけれど、それこそ忘れてしまえばいい。
人混みの中を歩きながら、大丈夫、大丈夫と胸の内で繰り返した。
通りをひたすらに進むと、やがて駅前にたどり着く。このあたりの中心的なターミナルは、いくつもの路線が乗り入れ、手前に広々としたロータリーを備えている。
このあとの予定がなくなった和香は真っ直ぐ帰宅すべく改札口に向かおうとした。だが、帰宅ラッシュが始まっている駅構内はひっきりなしに人が行き交い、互いに避けつつ進まねばならない。
知らず速くなっていた歩みを緩めた和香は、雑踏の中に見知った顔を見つけ、ぴたりと足を止めた。
向こう側からやってくるのは一組のカップルだ。その片方が、自分のよく知る人物だった。その男は矢野――約束をドタキャンした恋人だった。
どういうこと? 仕事相手と用事で通りかかっただけ?
そんな憶測はすぐに的外れだと分かる。その隣の見知らぬ女性がごく自然な仕草で彼の腕にしなだれかかったのだ。
和香が言葉を失って立ち尽くしていると、こちらの存在に矢野も気がついたようだ。互いの視線が一瞬だけぶつかる。けれど、彼は平然とした様子で傍らの女性へ微笑みを向けた。
「近くに美味しい店があるんだ。予約していないから空いているか分からないけど、どう?」
「いいわね、行きましょう。ごめんね、私が突然会いたいなんて言ったから」
女性は男の腕をさらに引き寄せ、甘えるように頬を預ける。
やめて――喉からほとばしりそうになった叫び声を、和香は寸前で押しとどめた。
楽しそうに行き先を決める会話には、深い仲の男女に特有の親密さが漂っている。彼らが、ただの友人や仕事の付き合いといった関係であるはずがない。
どうして? 矢野さんの恋人は、私じゃないの?
頭の中は混乱でいっぱいだった。
浮気という言葉がふっと浮かぶが、おそらくそれは能天気すぎる思考だ。
こちらのほうが約束は先だったのに、彼女の急なわがままを矢野は優先した。和香に見られていることを分かっていながら弁解しようとする素振りもなく黙殺する。それがなにを意味するか。
呆然と二人を見つめていることしかできない和香の肩を不意に誰かの力強い手が引き寄せた。見上げると、昔よりもいくぶん精悍さを増した横顔がそこにある。
「そうじ……」
どうしてここに。まさか追いかけてきたのか。
彼は前方の男女に鋭い視線を向け、冷たく目をすがめていた。大体の状況を察したのかもしれない。
こんなところを、見られるなんて……
ぽろりと涙がこぼれ、慌てて指先で払う。続けてあふれ出しそうなしずくをぐっと呑み込んだ。
泣いてはダメ。我慢して。
懸命に自分に言い聞かせる。だって、今泣いたら、あまりにもみじめだ。
けれど、もう一度前を向く勇気は持てそうになかった。再び彼らの姿を目にしたら、きっと涙が止まらなくなってしまう。和香にはただ唇を噛んでじっとこらえることしかできない。
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