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番外
椅子は放置プレイが基本
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「……いいこと、宰相」
コツ、と石畳の上で靴の踵を鳴らして、私は立ち止まった。
冬の峰から吹き付ける風のような凍った眼差しで、高所にある宰相の顔を見上げる。
(こちらが高圧的に出ているのに、見下されているのはあまり良くないわね。でも、流石にこの場で跪けとは言えないし)
私は海よりも深く反省した。これまでの自分の言動を振り返ってみたのだ。宰相に振り回されて、宰相の好きにさせて……しかも、その振り回され方が段々酷くなってきた気がする。女王の座にある者として相応しくない、どころではない。内外にも示しがつかないし、私の精神衛生上も良くない。
だから、宰相に対する態度を変えると決めたのだ。一度決めたのなら、徹底的にやるしかない。獣の調教と同じ、こちらの態度がふらついていては相手を混乱させてしまう。
とは言え、ここはホテル前の馬車止めで、周囲には護衛や使用人たちが幾重にも取り巻いている。過剰な威圧は出来ない。
せめて上目遣いに見えないようにと、私は目を細めた。
「これから貴方の上に座るけれど、一切声は出さないように。貴方はただの椅子なのだから。椅子、つまり無機物。思えばこれまで、ただの無機物なのに随分と好き勝手させすぎたわ」
「完全に同意いたします」
「同意しなくていいから。私の言いたいことは分かってくれたでしょうね、宰相」
「畏まりました、陛下」
宰相が恭しく頭を下げる。
(よし)
いい流れだわ。
とどめとばかりに彼に冷たい一瞥を投げてから、私は停めてあった馬車に乗り込んだ。続いてユリウスが乗り込む。もう数百回は経験しましたとばかり、彼がさっと腰を下ろし、無言で私を見た。
その態度に微妙にイラッときたけれど、私は黙って彼の上に腰を下ろした。無機物相手にいちいち腹を立てるのがおかしい。
そう、おかしいのだ。
(本当に椅子として扱えばいいんだわ)
彼はきちんと椅子らしく振舞っている。私に不埒な真似はしないし、話し掛けられなければ沈黙している。それを人間扱いし、話し掛け、一喜一憂していたのは私の方だ。
でも、もうそんな扱いはしない。
そう心に決めて、私はもぞもぞと座り直して自分の位置を定めた。やっぱりこの椅子は、座り心地があんまりよろしくない。馬車が動き出し、揺れ始めると、浅く座っているわけにはいかなくなる。できれば身体を斜め横に倒して、窓枠に肘をつきたい。つきたいのだけれど……
(……び、微妙に遠いわ)
距離がある。あとちょっとの差で、窓枠に届かない。何なのこれ、嫌がらせ? とイラッときたところで、私は必死に気を鎮めた。相手は椅子、椅子、椅子……
溜息を堪える。この状態では、背凭れに深く身を預けるしかないのだけれど……
(この背凭れ、妙にゴツいというか)
ゴツいけど、あくまで背凭れだ。断じて胸筋とかじゃない。
体温があって温かいけれど気のせいだ。温かくて妙に包み込まれるような感覚があるけれど気のせい。何を今更気にしているのかしら、私は? もう散々慣れたはずだ。
「……」
眉間に皺を刻み込みながら、私は無の境地を模索した。王都までの道のりは、やっぱり妙に遠くて長かった。
ちなみに、今回のエンヴァスでの会合はそれなりに成功裡に終わったと見なされている。隣国との間で親書を取り交わしたり、共同開催するお祭りについて話し合いを進めたり。その交渉の相手が、ほとんどアティア姫(六歳)だったのはともかくとして。筋肉痛で客室から出て来られなくなったロクセルド王子に代わり、ハキハキと受け答えしてくれた姫の成長ぶりは本当に著しかった。その成長を促したのが何なのか、それはあまり考えたくないのだけれど。
「……なるほど、それで、宰相閣下はあの扱いを受けているんですね?」
「あれが当然の扱いよ、レルゲイト将軍。一体何を言いたいのかしら」
明るい光の差し込む執務室で、私は軽く肩を竦めた。
立って、あちこちの書類を手に取り、様々な客人と対話し、そして今、やっぱり立ったままレルゲイト将軍と向かい合っている。
将軍の笑い皺が一際深くなった。微動だにせず、執務机の前に座っている椅子(宰相)に向かって顎をしゃくってみせる。
「完全放置ですか」
「椅子というのはそういうものでしょう? こちらが座っていない時まで気に掛ける必要はないわ」
「それはそうかもしれませんが……しかし」
(宰相を庇うつもりかしら?)
将軍と宰相、この二人の関係は結局よく分からない。お互いにそこそこ理解し合っているようなのだけれど、仲良しというにはタイプが違いすぎて、常に少し距離を置いているような気もする。会えば暇潰しのように口喧嘩を交わしたりするけれど。
「あの処遇は気の毒だとでも言いたいの?」
「いえ、むしろ逆です」
「逆?」
「この扱い、むしろ奴は大喜びなんじゃないですかね……うわぁっ、と」
レルゲイト将軍が軽く足をもつれさせ、後ずさった。何事? 私がまじまじと見つめると、彼は大きく頭を振り、
「いや、今、余計なことを言うなと、あいつが目から光線を発しましてね……うわ、本気で止めろって」
「光線?」
私は宰相を振り返った。
執務室はしんとしている。椅子(宰相)は何事も無かったかのように無言だ。
「……宰相の目から光線が出るの?」
「たまに見せる陛下の無邪気さが辛い……いえいえ、陛下におかれましてはお気になさらず。我々がいつも馬鹿なやり取りをしていることはご存知でしょう」
「それはまあ、知っているけれど」
「じゃ、まあ、そういうことで。どうかご健勝で!」
熊のような大きな手を打ち振って、将軍がそそくさと出て行く。その背中を見送って、私は首を傾げた。
(むしろ奴は大喜び……って、言っていたわね)
大喜び? 完全に放置され無視され、喋るな、じっとしていろと命じられて、大喜びすることってある?
宰相が狂人なのは分かっているけれど、むしろ積極的に私を弄びたい方向性の狂人だったはずだ。今の状況は宰相にとっても不本意なはず。
(まあ、レルゲイト将軍も冗談好きだものね)
私は肩を竦め、欠伸を噛み殺した。
宰相が宰相として使い物にならないので、今日の執務は遅々として進まない。大分疲れてきたので、休憩を入れることにした。人を呼んでお茶を運ばせ、宰相(椅子)の上に腰を下ろす。漂うお茶の芳香にほっと気を緩め、しばし眠気と戦って──
(あ、本当に眠い)
いや、そこまで眠気と戦う必要はないのでは? 宰相はただの椅子なのだし。数秒、いや数分間ぐらい目を閉じていたって、誰にも文句は言われないはずだ。
ちょっとだけ、ちょっとだけ目を瞑ろう……
「……」
眠気はすぐに、分厚いビロードの帳のように押し寄せてきた。うっかり眠りの波にさらわれて、私はうとうととまどろみ、気が付くと全身の力を抜いていた。
宰相が椅子である弊害だと思う。温かいし、力を抜いてもずり落ちるということがないのだ。何かあったら起こして貰えるだろうし。いや、彼は椅子なのだから人間みたいな真似をさせてはならない。もっと冷たく、物に対するように扱わなくては。いや、実際に私は彼を物扱いしたいわけではないし、多少の罪悪感を覚えないでもないのだけど、宰相はすぐ調子にのるから……いや、でも、流石にこの状況は宰相も堪えたはず……
「……くく」
うっすらと、誰かがくぐもった声で笑いを洩らすのが聞こえた。
「く……ははは……!」
酷い悪人笑いだ。押し殺しているけれど、邪悪さがだだ漏れだ。
(宰相……じゃないわよね)
私は一瞬、意識が冴えるのを感じたけれど、一度閉じた瞼は開かなかった。眠気のあまり、磁石のようにくっついて、こじ開けられない。そうしているうちに、再び眠りの底に引き摺り込まれていく。
だから、それ以上考えなかった。
まさか、この状況を宰相が死ぬほど愉しんでいたなんて。それこそ気が狂いそうなほど愉快な気分で過ごしていたなんて、私は思い付きもしなかったのだ。
コツ、と石畳の上で靴の踵を鳴らして、私は立ち止まった。
冬の峰から吹き付ける風のような凍った眼差しで、高所にある宰相の顔を見上げる。
(こちらが高圧的に出ているのに、見下されているのはあまり良くないわね。でも、流石にこの場で跪けとは言えないし)
私は海よりも深く反省した。これまでの自分の言動を振り返ってみたのだ。宰相に振り回されて、宰相の好きにさせて……しかも、その振り回され方が段々酷くなってきた気がする。女王の座にある者として相応しくない、どころではない。内外にも示しがつかないし、私の精神衛生上も良くない。
だから、宰相に対する態度を変えると決めたのだ。一度決めたのなら、徹底的にやるしかない。獣の調教と同じ、こちらの態度がふらついていては相手を混乱させてしまう。
とは言え、ここはホテル前の馬車止めで、周囲には護衛や使用人たちが幾重にも取り巻いている。過剰な威圧は出来ない。
せめて上目遣いに見えないようにと、私は目を細めた。
「これから貴方の上に座るけれど、一切声は出さないように。貴方はただの椅子なのだから。椅子、つまり無機物。思えばこれまで、ただの無機物なのに随分と好き勝手させすぎたわ」
「完全に同意いたします」
「同意しなくていいから。私の言いたいことは分かってくれたでしょうね、宰相」
「畏まりました、陛下」
宰相が恭しく頭を下げる。
(よし)
いい流れだわ。
とどめとばかりに彼に冷たい一瞥を投げてから、私は停めてあった馬車に乗り込んだ。続いてユリウスが乗り込む。もう数百回は経験しましたとばかり、彼がさっと腰を下ろし、無言で私を見た。
その態度に微妙にイラッときたけれど、私は黙って彼の上に腰を下ろした。無機物相手にいちいち腹を立てるのがおかしい。
そう、おかしいのだ。
(本当に椅子として扱えばいいんだわ)
彼はきちんと椅子らしく振舞っている。私に不埒な真似はしないし、話し掛けられなければ沈黙している。それを人間扱いし、話し掛け、一喜一憂していたのは私の方だ。
でも、もうそんな扱いはしない。
そう心に決めて、私はもぞもぞと座り直して自分の位置を定めた。やっぱりこの椅子は、座り心地があんまりよろしくない。馬車が動き出し、揺れ始めると、浅く座っているわけにはいかなくなる。できれば身体を斜め横に倒して、窓枠に肘をつきたい。つきたいのだけれど……
(……び、微妙に遠いわ)
距離がある。あとちょっとの差で、窓枠に届かない。何なのこれ、嫌がらせ? とイラッときたところで、私は必死に気を鎮めた。相手は椅子、椅子、椅子……
溜息を堪える。この状態では、背凭れに深く身を預けるしかないのだけれど……
(この背凭れ、妙にゴツいというか)
ゴツいけど、あくまで背凭れだ。断じて胸筋とかじゃない。
体温があって温かいけれど気のせいだ。温かくて妙に包み込まれるような感覚があるけれど気のせい。何を今更気にしているのかしら、私は? もう散々慣れたはずだ。
「……」
眉間に皺を刻み込みながら、私は無の境地を模索した。王都までの道のりは、やっぱり妙に遠くて長かった。
ちなみに、今回のエンヴァスでの会合はそれなりに成功裡に終わったと見なされている。隣国との間で親書を取り交わしたり、共同開催するお祭りについて話し合いを進めたり。その交渉の相手が、ほとんどアティア姫(六歳)だったのはともかくとして。筋肉痛で客室から出て来られなくなったロクセルド王子に代わり、ハキハキと受け答えしてくれた姫の成長ぶりは本当に著しかった。その成長を促したのが何なのか、それはあまり考えたくないのだけれど。
「……なるほど、それで、宰相閣下はあの扱いを受けているんですね?」
「あれが当然の扱いよ、レルゲイト将軍。一体何を言いたいのかしら」
明るい光の差し込む執務室で、私は軽く肩を竦めた。
立って、あちこちの書類を手に取り、様々な客人と対話し、そして今、やっぱり立ったままレルゲイト将軍と向かい合っている。
将軍の笑い皺が一際深くなった。微動だにせず、執務机の前に座っている椅子(宰相)に向かって顎をしゃくってみせる。
「完全放置ですか」
「椅子というのはそういうものでしょう? こちらが座っていない時まで気に掛ける必要はないわ」
「それはそうかもしれませんが……しかし」
(宰相を庇うつもりかしら?)
将軍と宰相、この二人の関係は結局よく分からない。お互いにそこそこ理解し合っているようなのだけれど、仲良しというにはタイプが違いすぎて、常に少し距離を置いているような気もする。会えば暇潰しのように口喧嘩を交わしたりするけれど。
「あの処遇は気の毒だとでも言いたいの?」
「いえ、むしろ逆です」
「逆?」
「この扱い、むしろ奴は大喜びなんじゃないですかね……うわぁっ、と」
レルゲイト将軍が軽く足をもつれさせ、後ずさった。何事? 私がまじまじと見つめると、彼は大きく頭を振り、
「いや、今、余計なことを言うなと、あいつが目から光線を発しましてね……うわ、本気で止めろって」
「光線?」
私は宰相を振り返った。
執務室はしんとしている。椅子(宰相)は何事も無かったかのように無言だ。
「……宰相の目から光線が出るの?」
「たまに見せる陛下の無邪気さが辛い……いえいえ、陛下におかれましてはお気になさらず。我々がいつも馬鹿なやり取りをしていることはご存知でしょう」
「それはまあ、知っているけれど」
「じゃ、まあ、そういうことで。どうかご健勝で!」
熊のような大きな手を打ち振って、将軍がそそくさと出て行く。その背中を見送って、私は首を傾げた。
(むしろ奴は大喜び……って、言っていたわね)
大喜び? 完全に放置され無視され、喋るな、じっとしていろと命じられて、大喜びすることってある?
宰相が狂人なのは分かっているけれど、むしろ積極的に私を弄びたい方向性の狂人だったはずだ。今の状況は宰相にとっても不本意なはず。
(まあ、レルゲイト将軍も冗談好きだものね)
私は肩を竦め、欠伸を噛み殺した。
宰相が宰相として使い物にならないので、今日の執務は遅々として進まない。大分疲れてきたので、休憩を入れることにした。人を呼んでお茶を運ばせ、宰相(椅子)の上に腰を下ろす。漂うお茶の芳香にほっと気を緩め、しばし眠気と戦って──
(あ、本当に眠い)
いや、そこまで眠気と戦う必要はないのでは? 宰相はただの椅子なのだし。数秒、いや数分間ぐらい目を閉じていたって、誰にも文句は言われないはずだ。
ちょっとだけ、ちょっとだけ目を瞑ろう……
「……」
眠気はすぐに、分厚いビロードの帳のように押し寄せてきた。うっかり眠りの波にさらわれて、私はうとうととまどろみ、気が付くと全身の力を抜いていた。
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「……くく」
うっすらと、誰かがくぐもった声で笑いを洩らすのが聞こえた。
「く……ははは……!」
酷い悪人笑いだ。押し殺しているけれど、邪悪さがだだ漏れだ。
(宰相……じゃないわよね)
私は一瞬、意識が冴えるのを感じたけれど、一度閉じた瞼は開かなかった。眠気のあまり、磁石のようにくっついて、こじ開けられない。そうしているうちに、再び眠りの底に引き摺り込まれていく。
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