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番外

宰相付第一書記官は語る

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※モブ視点挿話




 ……はい?

 は、確かに自分は宰相閣下の第一書記官を務めております。それは確かでありますが。

 何の御用でしょうか? その前に貴方はどなたで……あ?! あ、あ、貴方様は………………いえ、何でもございません。宰相閣下は今、どちらに? 近くにはいらっしゃらないようですが。一時間ほど、絶対に抜けられない用事を作って押し付けてきた? それはお見事です。

 では、改めまして。御用をお聞きしても宜しいですか?

 宰相閣下について、話を聞きたい。特に失敗談、黒い噂、恥ずかしい話や弱みであればなお良い? あの方の黒い噂というのは、本当に洒落にならないのですが……いえ、物証や証人を残しておくような方ではないので、実際の事件の暴露というより、単なる噂話の域を出ないのですが。そういった話には事欠かないお方ですね。酒の場であの方の話題が出ると、底冷えするほど場の空気が盛り下がるんですよ、ははは。

 笑い事じゃない? そうですねえ、それはそうなんですが。十年もあの方に仕えていると、自ずとどこか麻痺するというか、感覚がずれてしまうというか。しかし、以前の惨状を思えば、今は平和も平和、気も緩むというものです。以前というのは、宰相閣下が現れて、我々が閣下にお仕えするようになる前、ということですが……無能な貴族が我が物顔にのさばって、大声で怒鳴り、押し付け、手柄を奪い、憂さ晴らしのために殴り飛ばす世界。王族もあれでしたし……王宮というよりは、やたら金だけは掛かっている場末の売春宿みたいな状態でしたね。

 私は平民出身でして、少しばかり賢いとおだてられ、自分も驕り高ぶった結果、周囲の期待を一身に担って王宮に上がったんです。それからはもう……毎日薄い水のようなスープと黴の生えたパンを食べ、肥えた貴族に杖で殴られ、不興を買った同僚が潰されていくのを眺めながら、これが夢に見た王宮仕えの現実と思い知らされる日々で。弱い者というより、まっとうな者の方から先に消えていきましたね。あと少し続いていたら、私もどうなっていたことか、ははは。

 それが、あれは女王陛下が即位なさる少し前、現在の宰相閣下が台頭なさいまして。その三日後に起きたのが、あの「血染めの手袋事件」です。

 え、「血染めの手袋事件」をご存知ない?

 まあ、我々もはっきりと仔細を理解しているわけではないのですが……

 新たな宰相閣下が立たれても、宮中の貴族たちの態度は変わらないままで、我々を殴ったり、下働きの娘を泣かせたり、心の赴くままに愉快に暮らしておられまして。宰相閣下が彼らを執務室に呼び付けられたのですが、彼らは叱責されるとも夢にも思っていないようで、へらへらした笑いを浮かべながら部屋の中に入っていかれまして。

 重たい扉が閉ざされ、それから何かがぶつかるような、骨に響くような音が数回。しばらくして扉が開いて、宰相閣下が出て来られたのですが、入っていったはずの面々の姿はどこにも無く。私を始め、近くで控えていた者たちは疑問に思って尋ねたのです。「あの方たちはどちらへ?」と。

 宰相閣下は直接その問いに答えられることはなく、肩を竦めて、「獣相手には獣の作法に限る」と仰いました。その手に嵌めてらっしゃる手袋が、血のような……やたらと濃い赤に染まっておいでで、我々は思わず凝視してしまったのですが、すると、宰相閣下は鬱陶しそうな仕草で剥ぎ取って投げ捨てられました。その手袋と、汚れた絨毯を片付けるために小間使いが呼ばれた、それ以外のことは我々には知らされていないのですが、これが後に血染めの手袋事件として広まりまして。

 その貴族たちはどうなったのか? どうでしょう……二度と日の目を見ることはなかったと婉曲に言われておりますが、命は助かったのではないかと。流石に就任三日目で大量殺人は思い留まられたのではないでしょうか。あまり手段を選ぶような方ではないとはいえ。

 ともあれ、それ以後は我々が悩まされるような、高貴かつ無能な方々は綺麗に一掃されまして。

 たまに無茶振りはされますが、その分給料はたっぷり出して下さるし、たまに悪魔も真っ青というような案件を見てしまったりしますが、ご本人はいたって無欲な方ですしね。お仕えするのに不足はないです。

 え、どこが無欲? 欲の塊ではないかと?

 まあ、そうですね、女王陛下に対する態度は、我々下々の者もたまに思うところがありますが……あの方が陛下に関してはひたすら忠誠を貫いていらっしゃるのは確かですし。それがあの方も機械ではなく人なのだと、しかも清廉なものに対する憧れをお持ちなのだと、改めてあの方を近しく感じさせているところはありますね。あの方も弱みをお持ちなのだというか。そうでなければ、もっと深く恐れられていたと思います。

 そんな弱みは求めていなかった?

 他にないのかと仰られても……もとより「五十歳になる前に宰相職を返上する」と仰っておられた方ですからねえ。「老害になるつもりはない」とも。

 本当にそんなことを言っていたのか? それはもう。ご自分が一線を退くときを想定して、できる限り簡便に、自発的に回る機構を作り上げることに尽力してらっしゃいまして。今、こうして宰相閣下が椅子になられても、大きな問題が起きていないのはその為かと。しかし、五十歳どころか四十にもならないうちに第二の人生を歩まれて、それがあの椅子としての人生だと発覚したとき、我々は……割と複雑ではありましたねえ。

 いえ、その、申し訳ありません。分かったようなことを申し上げて。女王陛下の方が余程、複雑な心境でいらっしゃるというのは重々お察し申し上げているのですが……

 というか、陛下、そのような格好ではあまり変装の意味がないというか。宰相閣下は匂いで陛下を嗅ぎ分けられるともっぱらの噂ですし、今も恐らく監視の目が……

 ええ、では、我々下々の者が使っている抜け道をご案内いたしましょう。少しは時間が稼げるかと思います。いえ、陛下に逃げられた時の宰相閣下の顔を見てみたいとか、そんな不純な気持ちが少々あるのは確かでして。最近の閣下は、美味しそうな兎が飛び跳ねているのをじっと見守る狼みたいな顔をなさっておいでですからね……いえ、全く余計なことを申し上げました。どうぞお気になさらず。こちらの道をまっすぐ、そのままお進み下さい。心からご健闘をお祈り申し上げております。
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