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第九章 幸せ

第三十五話

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 イラホン様が、あの夜のように十字架の前に立っている。

 月夜に煌めく長い銀髪、月夜の中で宝石のように煌めく淡い水色の瞳。

 イラホン様は……出会った時と変わっていないお姿でそこにいる。

 それに比べて、私は……イラホン様と出会った頃とはだいぶ変わったように思う。

 けれど、根本は何も変わっていなかったのかもしれないとカーフィンとの会話で思い知らされた。

 ちゃんと、イラホン様と話さなければ。

 そう思うのだけれど……イラホン様のお姿があまりにも神々しくて、美しすぎて尻込みしていると、隣で手を取ってくれていたカーフィンが優しく背を押してくれた。

 心細さと頼もしさ、不思議な感情で振り返ると……カーフィンはいつものように笑ってくれていた。

「俺は帰るよ……ちゃんとお互いの幸せについて、話し合ってくださいね」

 私に言ったのだろうか、イラホン様に仰ったのだろうか……優しい笑顔とその言葉だけを残して、カーフィンは教会を後にした。

 教会に残された私達。

 どちらも口を開くことができずに、気まずい沈黙が流れる。

 私がイラホン様にお伝えした言葉は全て本心であったけれど、私が勝手に突っ走って決めつけたことを謝罪するべきだろうか……でも婚約破棄なんてだいそれた事を口にした私を、イラホン様は許してくださるだろうか。

 それに……イラホン様の幸せが何なのか、結局のところ私にはまだ分かっていない。

 せっかくカーフィンに勇気をもらったのに、いざとなると私はやっぱり臆病だ。

 ただ押し黙っていることしかできずにいると、イラホン様が先に口を開いた。

「お互いの幸せか……俺はアルサを幸せにすると言いながら、君がどうすれば幸せになってくれるのかちゃんと確認したことがなかったね」

 申し訳無さそうにそういうイラホン様に、私は慌てて言葉を返す。

「いえ、私も……同じですから」

 私は幸せが何なのか分からない……だから自分がどうすれば幸せになれるのかも分からない。

 だから、私はイラホン様の『幸せにする』という言葉に甘えきっていた。

 自分の幸せが何なのか……自分でちゃんと考えようとしていなかった。

 それに私も、イラホン様の幸せを確認しないまま勝手に決めつけて……イラホン様に、こんなにも悲しそうな表情をさせてしまった。

 イラホン様にはいつもの笑顔でいてほしい……悲しい顔を見ると、胸が締め付けられるように痛んだ。

 私まで悲しくなっていると、イラホン様は優しい笑顔で話しだした。

「……俺は隣にアルサがいてくれるのが好き。参拝者の願いを聞いて嬉しそうに応援しているアルサを見るのが好き。俺の言動によって色々な表情を見せてくれるアルサが好き」

 突然の好き連呼に、訳も分からず戸惑っていると今度は困ったように笑いながら、さらに続けた。

「でも、泣いているのや悲しそうな顔を見るのはツラい。笑顔になってほしいと思う」

 そう言われて、イラホン様も同じことを考えていたのだなと驚いた。

 悲しそうなイラホン様の表情は見たくない……笑顔になってほしいと……同じことを考えていた。

 嬉しい……だけではない、心に何か温かい感情が広がっていくのを感じる。

 でもその感情の正体が分からずに何も言えないでいると、イラホン様は穏やかな笑みを浮かべて結論を出した。

「俺の幸せは、アルサが俺の隣で……笑顔でいてくれることだよ」

 そう言われて、自分の中に広がっていた感情の正体がやっと分かったような気がする。

 ずっと求めていたもの、でも何なのかずっと分からなかったもの……イラホン様に言われて、自分のことがやっと分かった。

 嬉しいのと驚きで頭の中がぐちゃぐちゃになったような、真っ白になったような不思議な感覚がする。

 呆然とする私に、イラホン様は言葉を続けた。

「……アルサの幸せも教えてほしい。俺は、アルサと一緒に幸せになりたいんだ」

 イラホン様の淡い水色の瞳がキラキラと輝いていて、私の視線を捉えて離さない。

 私の……幸せ。

 イラホン様は私を幸せにしてくださる方……そう思っていたけど、そうじゃなかったんだなと今になって分かる。

 イラホン様はずっと、二人で幸せになろうとしてくださっていた。

 最初の私みたいに幸せが何なのかも分からず、ただ求めていただけなのとも……今の私みたいに幸せになってほしいと押し付けていただけなのとも違う。

 ずっと……一緒に幸せになろうと、考えていてくださったんだ。

 嬉しくて泣きそうになる。

 でも、イラホン様の言葉に答える前に泣くわけにはいかない。

 私はなんとかイラホン様の瞳から逃れて、少しだけ俯いてゆっくりと呼吸を整える。

 そして私の幸せについて話すために、ゆっくりと顔を上げた。
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