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5 色香
楽茶碗
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利休は変わらず長次郎に注文を呉れるがこんな状態では今焼茶碗は納められない。
誰かが長次郎に代って仕事をしなければならないが、茶碗作りの技は雇いの工人に教えるわけにはいかない。
もし技を覚えた工人が他で今焼茶碗を作り始めれば困ったことになるからだ。
そうなれば利休にも迷惑が掛かる。
長次郎は代作を父の阿米也に頼みたいが阿米也は茶碗つくりが下手クソ過ぎて頼りにならない。
困った長次郎はリユの父の田中宗慶に手伝ってもらうことにした。
舅の田中宗慶はリユから長次郎の頼みを聞いて驚いたものの、長次郎の様子を聞くと黙って協力してくれた。
田中宗慶は土風炉師であるため土の扱いには慣れており天性の器用者でもある。
茶碗作りも問題なくこなすだろうし、なんといっても宗慶はリユの父なので信用が出来る。
長次郎の不調を口外することはないし、利休にも余計なことは言わないだろう。
田中宗慶は長次郎から今焼茶碗の技を教わるとすぐに代作を手掛けてくれた。
流石に器用者の田中宗慶である。その仕事は長次郎の作品に比べても遜色がない。
こうして長次郎は注文の今焼茶碗を利休に納めることができた。
利休は納められた今焼茶碗を見て、
「この頃の長次郎の茶碗は少々趣が変わったようだな」
と言ったものの、茶碗の出来栄えは悪くない。
利休は茶碗を見ただけで長次郎の状態を察知したが、それ以上は敢えて何も言わなかった。
長次郎一家にしてみればこれで目先の危機は回避できたが、相変わらず長次郎の気力は出ない。
思いがけない長次郎の変り様にリユや父母もどうすれば良いのか分からず気を揉むばかりである。
リユの兄の田中常慶は、
「長次郎はんは、あんまり真面目やさかい、些細なことで気持ちが硬うなってしまうんや。
たまには遊んだらどないや?そしたら気分もほぐれてまた仕事ができるわいな」
と気楽なことを言ったが、長次郎の心の内を知らぬ周囲は、なるほど、と思い常慶に長次郎を任せることにした。
リユから金をたんまり貰った常慶が長次郎を連れて行ったのは言わずと知れた遊郭である。
二人は東洞院通七条下ル(ひがしのとういんどおりしちじょうさがる)の傾城町一番の遊郭の「住之江(すみのえ)」に登楼した。
京一番と評判の玉蟲大夫(たまむしたゆう)を座敷に呼んだのは常慶の差配である。
「そうれ、飲めや歌えや!」
と陽気に騒ぐ常慶の横で不慣れな長次郎は硬くなるばかりだった。
酒を飲んでも気持ちはほぐれず沈鬱なままだ。
一人で盛り上がって楽しむ常慶が恨めしくひたすら酒をあおることしかできない。
酒席を終えて玉蟲大夫との床入りでも長次郎は緊張してろくに口もきけない。
しかしそんな長次郎を玉蟲大夫はウブだと好ましく思った。
玉蟲大夫から見れば長次郎は良いお客である、なんといっても金回りが良い。
先ほどの宴席の料理と酒も店では最も値の張るものだったし、店の役衆から下足番にいたるまで惜しみなく心付けが配られている。
これは世慣れた常慶のやったことだが、玉蟲大夫は長次郎と常慶はいずれかの良家の御曹司で、常慶が弟分の長次郎に遊びを教えに連れてきたのだと思った。
まあこれは半ば当たってはいる。
玉蟲大夫が長次郎の手を取り、
「あんさんはこないな所は初めてなんやの?」
と訊ねれば
「は、は、はじめてや、はじめてやからどうにも楽しゅうないんや、す、すまんな」
と初々しい答えが返って来る。
玉蟲大夫は握ったその手に火傷痕が多いのに気付き、良家の御曹司には似つかわしくないと思った。
「あんさんは体もご立派やけどお手もしっかりしてはりますなあ、戦に出て戦こうてはりますの?」
「そうやない、わしは茶碗つくりや、今焼茶碗いうもんを作っとるのや」
今焼茶碗は今や世に名高く、京の町で知らぬ者はいない。
まして玉蟲大夫は日々に豪商や大身の武家を相手にする身である、世情に疎いはずがない。
「あんさんがあの利休さまの今焼茶碗を作るお人なんやの。
これはえらい人に来てもろうたもんやなあ。
今焼茶碗はお大名や茶人はんが欲しがってもなかなか手に入らんいう評判や。
うちにも一遍でええからその今焼茶碗いうもんを見せとくんなはれ」
京一番の遊女にも自分が作った今焼茶碗は知られているのかと長次郎は驚いた。
「そうかあ、そないに今焼茶碗は有名なんかいな?」
「なに言うてはりますの、京の町で今焼茶碗の名を聞いたことのない者はおりまへんやろ。
なんで作ったお人がそんなことを知りまへんのや?」
「いや、わしは窯場に籠るばかりで世間を知らんのや。
そやがこのところ今焼茶碗がどうにも出来んのや。
そんで兄貴が気持ちを変ええ、言うてここに連れて来たんや」
長次郎は初めて会った玉蟲大夫に自分のことを洗いざらい喋った。
長次郎は妻のリユ以外に若い女と親しく話したのはこれが生まれて初めてである。
玉蟲大夫は、利休の関わりや、父の阿米也が唐土から渡って来て京の町で焼き物商売を始めたことなど目を丸くして聞いてくれる。
長次郎は夢中になって明け方まで話し続けたが疲れてそのまま眠ってしまった。
巳の刻(午前十時)になって長次郎は常慶に揺り起こされた。
「長次郎はん、長次郎はん、帰りまっせ、起きなはれ」
長次郎が目を開けるとすでに玉蟲大夫の姿はない。慣れぬ酒を飲み過ぎたせいか頭がズキズキする。
「長次郎はん、ゆうべの首尾はどないでしたんや?玉蟲大夫はええ女でっしゃろ、わしの方も絶品でしたわ」
常慶はちゃっかりと住之江で二番の初花大夫と床入りをしていたのだ。
「ああ、常慶はん、玉蟲大夫はええ女でしたで、わしの話を明け方までよう聞いてくれましたんや」
「長次郎はん、明け方まで話したゆうて、肝心な方はどないしたんでっか?」
「そこからは寝てしもたわ、せやけどよう話したで」
「話しただけで他にはなんもせんかったんかいな?」
「そや、まあ途中で喉が渇いて水を飲んだがなあ」
「なんやてえ、あんさんいうお人は・・・」
常慶は呆れ顔で長次郎を押小路柳馬場の家に連れ帰った。
その日から長次郎はすっかり明るくなり、仕事も始めてリユら家族も胸をなで下ろした。
常慶は、
「やはり長次郎はんを遊びに連れ出してよかったやろ」
とリユに自慢した。
ところが一月ほど経つとまた長次郎の元気がなくなって来た。
察した常慶が、どうしたと?訊ねると玉蟲大夫に会いたいと言う。
常慶はそれを聞いて笑った。
「そんならまた住之江に行きまひょ、楽しゅう遊んだらよろし」
常慶は長次郎のお付きならば誰にも気兼ねせずに遊べる。
しかも金はリユが出してくれるのだ、こんな結構な役得は無い。
常慶は喜んで長次郎を住之江に連れていった。
長次郎も男である、二度目の住之江では玉蟲大夫とすべきことをしてこの世の極楽を知った。
ところがこれがいけなかった。
それからというもの長次郎は玉蟲大夫に惚れこんで、寝ても覚めても玉蟲大夫、玉蟲大夫である。
リユから金を貰い毎日のように住之江に通った。
長次郎は通えば通うほど女の色香から抜け出せなくなっていった。
リユはこんなことをしていては家が潰れてしまう、長次郎のこんな姿を利休様がお知りになればどれほど悲しまれることか、と長次郎に金を渡すのを止めた。
リユが金の無心を拒むと長次郎は怒り狂った。
「この家の身代はわしがこしらえたんじゃ。
今焼茶碗を作って利休さまに買うてもらうようにしたのはこのわしや。
いくら金を使おうがわしの勝手や、金や、金を出せ金を!」
と怒鳴り散らす。
リユは舅の阿米也から長次郎に意見してもらおうと阿米也を呼んだが、怒った長次郎に腕を捩じ上げられ手酷く殴られた。
長次郎は六尺に余る大男である、細腕のリユが敵うわけがない。
長次郎は痛みで動けなくなったリユから金箱をひったくるとさっさと住之江に行ってしまった。
残されたリユは泣いた。体以上に心が痛んだ。
リユのお腹には子がいるのに長次郎は殴ったのだ、なんという無体なことをするのだ!
素朴で真っ直ぐな気性だった長次郎が遊女に狂っておかしくなってしまった。
こんなことで長次郎は父親になれるのか?あまりに情けなさすぎる。
舅の阿米也と姑の燕もこの頃では急に元気を無くし老け込んでしまった、もちろん長次郎の不行状のせいである。
それを思うとリユはますます悲しくなり一人泣き続けた。
ついこの前まであれほど幸せな家だったのにこの変わりようはなんなのだ。
どうしてこんなことになってしまったのだ。リユは悲しくてならなかった。
だがひとしきり泣くとリユは思い直した。
このお腹には子がいる、この子のためになんとしても自分が家を守らねばならない。
リユは阿米也と燕に許しをもらい、金や値打ちものを実家の田中家に移した。
これ以上長次郎に持ち出しさせないためである。
そして押小路焼を兄の常慶と弟の宗味に仕切らせることにした。
それを常慶に話したところ、
「わしにも家の土風炉の仕事があるさかい、それは困るわ」
と言ったが、
「そもそも兄さんがうちのひとを遊郭に連れ出しておかしくしたんやで、どないしてくれますのや」
とリユから睨まれるとなす術もない。
常慶は仕方なく弟の宗味と共に押小路焼の差配人となった。
田中家の土風炉の仕事は押小路焼の工房で一緒に行うことにして、押小路焼の差配に勤めた。
長次郎は家から金を持ち出せなくなり、家に帰って来なくなった。
そのため、あちこちから借金をしては住之江に通っているらしい。
他人と話すのが苦手で、交渉事などまるで無理だった長次郎が、遊郭の女のためならば借金の交渉は出来るようになったらしい。人とは窮すれば変じるものである。
こうした長次郎の不行状はいよいよ千利休の知るところとなった。
利休はリユに長次郎と共に屋敷に来るように伝えたが、酒臭い息をして現れた長次郎を見て言葉を失った。
さらに長次郎は、
「利休さま、あんたは今焼茶碗でようけ儲けはりましたやろ、半分でええから、わしに回しとくんなはれ」
と言ったのだ。
利休は目を閉じて、
「帰れ」
とだけ言うと奥に引っ込んでしまった。
リユは何も言えずただ涙するばかりである。それからは利休の注文は来なくなった。
さらに追い打ちを掛けるように今焼茶碗には肥(こえ・人糞)が入っているとのあらぬ噂が飛び交うようになった。これは千利休の権勢に嫉妬した者が流した根も葉もない噂だったが、今焼茶碗を求める者はいなくなり、その余波を食って押小路焼の焼き物まで売れなくなってしまった。
雇いの工人たちもどんどん辞めていき、家に残ったのは病身の阿米也と燕、そして身重のリユだけになってしまった。
リユの兄弟の常慶と宗味は押小路焼の仕事が無くなったので田中家に戻って土風炉の仕事をしている。
長次郎は家に寄り付かずどこでなにをしているのか分からない。
そんな中でリユに陣痛が来た。
病身の燕がヨロヨロしながら産婆を呼びに行き、なんとか無事に出産することが出来たが、せっかく跡継ぎの男の子が生まれたのにその父親はどこにいるのかも分からない。
年老いた阿米也と燕はかわいい初孫を抱きながらも情けなさに涙を流した。
阿米也はこの初孫を「惣吉(そうきち)」と名付けた。
全て(惣)が幸せ(吉)であるようにとの願いからである。
阿米也は元をただせば大明国の朝廷に仕えた役人の鄭建である、漢籍の知識にはこと欠かない。
「惣」の文字は本来「揔」である。「惣」は唐代に作られた「揔」の俗字である。
明国では「惣」は廃って今では使われない。逆に日本では本字の「揔」が定着せず「惣」を使っている。
「揔」は明国では「束ねる、合わせる」という意味だが、日本の「惣」は、「惣村、惣中、惣領」といったように「全て」という意味があり、森羅万象、全宇宙を指すこともある縁起の良い文字である。
これは日本が大陸の文化を受け入れて、日本の言葉に合うように自在に漢字を取捨選択をしてきた一例といえるであろう。
阿米也は堺に居た頃からこうした日本独自の漢字の使い方を面白く思っていた。
孫の名前に阿米也が帰化した日本の文化を尊重する気持ちと、全てが幸せであるように、全てが幸せで「吉」だったあの頃に戻りたいとの切ない願いを込めたのだった。
跡継ぎの惣吉が生まれ、少しだけ希望が持てたリユだったが、思いもかけぬ事態が生じた。
長次郎が遊郭の住之江で大暴れして店を壊し人に怪我までさせたというのだ。
今では長次郎に金を貸す人もおらず金欠で玉蟲大夫に袖にされたのに腹を立てたらしい。
住之江からは長次郎が暴れまわった補償をしろとリユに言って来た。
なんと二千貫文をよこせという、払わなければお上に訴えると言うのだ。
長次郎は今まであちこちで借金をしたがその返済は全てリユに回ってきた。
夫の借金なので断ることも出来ず泣く泣く返してきたが蓄えはもう尽きかけている。
その上さらに二千貫文を払うなど堪ったものではない、どこにそんな金があるというのだ。
かねて患っていた阿米也と燕はその心労から立て続けに亡くなってしまった。
長次郎は両親の弔いにも顔を出さなかった。
リユは金がないので弔いはごく質素に行い、その金もリユの実家の田中家に建て替えてもらった。
弔いの三日後になって長次郎はようやく帰って来た。
家に帰ってはきたものの自暴自棄からか酒浸りになっていた。長次郎が両親を殺したのも同然なのだ。
酒代をどう工面しているのか知らないが、押小路焼の家屋敷は何重にも借金のカタになっているようだ。
いつ借金取りが差し押さえに来るか分からない。長次郎はいつも家にいてどこにも行かなくなったが、今では行く場所さえないのだろう。
借金取りが屋敷を差し押さえに来ないのは、おそらくは長次郎が家にいるからだ。
ガタイが大きく凶暴な男を相手にすればどんな目に遭うか分かったものではない。
長次郎が遊女の色香に狂って遊郭をぶっ壊した噂は京の街ではよく知られている。
借金取りもそんな男を相手にはしたくないのだろう。
こんな状況なのに、リユが長次郎に利休に謝るようにいくら言っても長次郎は言うことを聞かず酒も止めなかった。さすがに遊郭に行きたいとは言わなくなったが、長次郎はもう当てにならない。
今では借金だらけの家なのだ、これではリユは生きていけない。
出来るものなら長次郎とは離縁をしたいが、生まれた子のためにこの家を守らねばと歯を食いしばりひたすら辛抱している。
そこでリユは父の田中宗慶と共に利休屋敷を訪ねて詫びを入れた。
利休に、今後は田中宗慶、田中常慶、田中宗味の田中父子三人が今焼茶碗を作るので助けて欲しいと必死に頼んだ。利休も子供のころから可愛いがってきたリユに涙顔で哀願されれば助けぬわけにはいかない。
それにこのまま今焼茶碗の火が消えるのも残念に思っていたのだ。
幸いなことに今焼茶碗に肥が入っているとの下らぬ噂は下火になり、今では誰もが笑い飛ばす与太話となっている。こうして利休は生まれ変わった今焼茶碗の工房に注文を出してくれた。
器用な田中父子は見事にその注文をこなして利休を安心させた。
天正十六年(1588)懸命に仕事に励む田中父子の熱意を買った利休は豊臣秀吉に願って田中宗慶に「天下一茶碗師」の称号と、秀吉の聚楽第にちなんだ「楽」の金印を貰ってやった。
この楽の金印を捺せば関白様が認めた天下一の茶碗ということになるのだ。
これ以降、今焼茶碗は「楽茶碗」と呼ばれるようになり、田中親子も楽を苗字として名乗るようになった。
さらに楽親子は秀吉から油小路一条下ルに屋敷地を与えられ、新たなと工房と家を営んだ。
こうして長次郎が始めた茶碗の工房は作者と場所を変えて再び隆盛を取り戻すことになった。
その一方、長次郎は押小路柳馬場の古い家に一人残って相変わらず酒浸りの日々を送っていた。
リユは油小路一条下ルの新たな楽家と押小路柳馬場の長次郎の間を行き来して食事を運んでいるが、今では夫は廃人同様である。
長次郎にしてみればあの欝々とした苦しみから玉蟲大夫だけが自分を解き放ってくれたのだ。
玉蟲大夫に会わないとあの苦しさがまたやって来るのが恐ろしかった。
玉蟲大夫のあの美しい顔、白く柔らかで良い香りのする肢体を抱いていなければ生きている心地がしない。
それさえ出来れば他のことなどどうでもよくなって白い女体にのめり込み莫大な金を蕩尽してしまった。
しかし金が無くなると玉蟲大夫は会ってくれなくなった。
手の平を返したような非情さを長次郎は恨んで、せめて別れの挨拶だけでもさせてくれと言ったのだが、遊郭の役衆は嘲笑って長次郎を店の外に突き飛ばした。
カッとなった後のことはよく覚えていない。
六尺を超える長次郎が怒り狂えば猛牛と熊が一緒に暴れるようなものである。
住之江の玄関先はたちどころに廃墟となり気が付けば役衆は血を流して倒れていた。
長次郎がお上に突き出されなかったのはせめてもの幸運だった。
実は、このときにお咎めなしだったのは利休が裏から手を廻してもみ消してくれたからだった。
利休は遊郭に金を渡して補償もしていたのだが、そのことは誰にも他言せずリユにも話さなかった。
一人家にこもる長次郎は酒を飲んでいないと己の情けなさに打ちのめされて奈落の底に沈み込んでしまう。
自分のせいで両親が死んで押小路焼の窯場も潰れた。大恩ある利休にも顔向けができない。
酔った勢いで利休にはなんと無礼なことを言ってしまったのか!
思いだすだけで息が止まりそうになる。
「こんな愚かな男なぞいっそ死んでしまった方がいい」
と思うのだが、リユには自害だけはするなと堅く戒められている。
長次郎が自ら死を選べばあの世の父母は無間地獄に堕ちてさらに苦しむだろう。
それに生まれた我が子・惣吉のためにも生きねばならないと諭された。
だが、仕事が手に付かず酒浸りの自分に生きる値打ちがないことはよく分かっている。
あまりに申しわけなくて我が子を抱きたいとは言えないが、そもそもリユは初めから惣吉を長次郎に会わせない。
酒に頭を侵された長次郎がひょっとしたら赤ん坊の惣吉に危害を加えるかもしれないと思っているから。
リユでさえ長次郎を信用していないのだ。
長次郎がこの苦しさから逃れるには酒を飲むほかない。
酒で頭を鈍らせ眠ってしまえば苦しみからは逃れられるが、目が覚めれば悲しく惨めでならない。
それでまた酒を飲むしかない。
長次郎は体も洗わず着物は汚れ、髪もヒゲも伸び放題、リユが運んでくる食事にも殆ど手を付けず酒だけ飲んでやせ細り、目ばかりギラつかせて壁に向かい座っている。その姿はまるで疫病神である。
自分はなぜ茶碗が作れなくなってしまったのだろう。
いくら考えても自分のことが分からない。
きっと自分があまりにも愚かだから利休さまの言うことが聞けなかったのだろう。
自分の無能さは利休さまの茶の湯の手伝いをして嫌というほど思い知らされた。
利休さまの偉大さの前では自分は虫けら同然なのに、新しい茶碗が作りたいなどとつまらぬ思いを抱いてしまった。
それはなんとか抑えたものの、心がおかしくなり土を触ることさえ出来なくなってしまった。
そこへ来たのがあのどうしようもない沈鬱である。
自分があんな気持ちにならなければ、あんな沈鬱に憑りつかれなければ、自分も家族も幸せでいられたはずだ。
どうして自分はそうなってしまったのか?どうすればよかったのだ?
今更考えてもどうしようもないのだが、長次郎は酔っ払った頭で答えの出ない堂々巡りを繰り返すしかない。
天正十七年(1589)の暮れ、長次郎は酒毒で亡くなった、まだ32歳の若さであった。
長次郎の死を聞いた利休はその死を悼み、自分が長次郎の人生を翻弄してしまったことを悲しんだ。
自分が引き立てなければ長次郎は凡庸ながらも穏やかな人生が送れたのかもしれない。
あるいはその豊かな天分を違った形で花開かせていたかもしれない。
「己の理想の茶の湯の追及と引き換えに長次郎という純粋な男を私は殺したのだろうか?」
利休は一人茶室に籠り、長次郎の茶碗に茶を点てながら物思いに耽った。
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