カゲロウ

Yamato

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条件

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結婚して八年目。
もはや新鮮さなどある訳がない。
「愛」はある。だがそれは空気みたいなものだ。<あるけど見えない>
人は贅沢な生き物だと思う。
無ければ欲しくなる。
目の前に欲するものがあれば、他は見えなくなる。遮断力はすごい。
一歩外に出れば分かるはずなのに。

不倫が夫にバレた。
始めてから二年間、私は不倫に捕らわれた。
マンネリの日々に人とは違うことをしたくなった。
それだけの理由だった。
夫は初めから気付いていた。
泳がされたのだ。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「離婚だな」
「それだけは。お願いします。離婚だけは許してください」
虫のいい話だ。だが、私は本気で思った。
離婚はしたくない。
世間体もあるが、この時になって夫への愛に気づく。
私の願いに夫はたった一言。
「後は弁護士通して話す」


今日、実家に弁護士が来た。一週間後のことだった。
私と両親・兄と姉が揃っていた。
実家に戻されて死ぬほど怒られた。
特に同じ経験を持つ兄にはビンタされた。
だが、姉の説得で勘当までは行かなかった。
夫に土下座する父を見て、自分の所業を後悔した。
「もう過去は変えられません」
最後の一言で父は、私を連れて帰った。

目の前に要望書が広げられた。

<条件>

・今後、妻は夫に対し敬語で話すこと。

<今後について>

・離婚は保留とする。
・離婚の場合は、妻及び妻の実家に対して慰謝料五百万円を請求する。

「えっ、これだけですか?」父が驚く。
「ねぇ、これって復縁するってことじゃないの?」母が聞く。
「まだ愛されてるのよ。だからこんな簡単な条件だけなのよ」姉は希望を見出した。

ただ、兄だけは違った。
考え込み難しい顔をしていた。

「本当にこれだけですか?」
髭の弁護士が頷いた。

「どういうことだ? …保留の条件がこれだけ…制限なし…」
「あの、制限は全く無いのですか?」
「はい、そうです」
弁護士は麦茶を飲みながら答えた。
「制限なしか…なんでだ?」
「何も難しく考えることないでしょう? まだ彼はミサのことを愛してるのよ」
姉が問いかけるが、兄は微動だにしない。
「俺の時は…条件がある…これは条件がない…」
ブツブツと独り言を呟いていた。
「あっ!!まさか」
その瞬間、弁護士が微かにほほ笑んだ。
「そうなんですか?」
分からない。兄以外は全員が呆然としている。

「ミサ、これはとんでもなく辛い条件だぞ」
「えっ?」
「なんで?」
「なにが?」
一斉に疑問が飛んだ。
大きくため息をついた兄は私を凝視した。
「どういうこと?分かるように説明して」
弁護士が「どうぞ」と手振りをする。

「いいか、これは俺だから分かるんだが復縁で一番大事なことはなんだと思う?」
「えっ…信用?」
「そうだ、復縁するためには第一に信用を得なきゃならない。俺の時もそうだったが、信用してもらうために自らを律しなきゃならない」
「うん…」
「大抵は、復縁を望むなら<外出禁止>とか<携帯のチェック>とか制限をかけられる」
「まぁ、そうよね」横で姉が頷く。
「でもこれは見方を変えれば、信用を得るための方法を提示してくれてる、ということでもあるんだ」
「それで?」父もピンときていない。私もまだ分からない。
「俺の時も、アイツはチャンスが欲しいとせがんできた。だから、付き合いや外出に制限をかけた。
もちろん携帯も没収したよ」
「でも、それが無いのは信用してるってことじゃないのかい?」
母の問いもその通りだ。
「違うよ。全くの逆だ!! いいか、その提示すらしないということは方法は自分で考えろってことだ」
みなが固まった。
「ホントにそうなの? アキ兄の考えすぎじゃないの?」
姉はまだ納得していない。
「そうなら、そう言えばいいんじゃないかい?」
母も同様だ。
だが、今度は父が黙った。
「母さんもチサも女だから分かんないだろうけど、裏切られたときは男の方が冷酷になるんだよ」
静まった。

(ホントにそうなの?)

疑問が沸いたとき、弁護士が口を開いた。

「さすがお兄さんですね。その通りです」
「えっ?」兄以外が驚いた。
「旦那さんはこういってました。これに気づくとしたらお兄さんだろう…とね」
「ホントに?」姉の口が大きく開いてる。
「簡単にお兄さんのこともお聞きしました。旦那さんは、この条件を簡単だと思うなら復縁は到底ムリだ、と」

「あの目はそうだったのか…」
父がボソッと呟いた。
「何が?」
「いや、実は復縁が可能なのか会社に行って聞いたんだ。そしたら厳しいことになりますよ、と言われたんだ。
最初は、そりゃそーだと思ったよ。だけど、それ以外何も言わなかったんだ。文句すらな、あれに違和感を覚えたよ」

兄が続けた。

「ミサ、復縁にとって一番の敵になるものは何だと思う?」
「…彼の実家…とか?」
「違う、<時間>だよ」
「なにそれ?」姉はキョトンとしていた。

「時間は良くも悪くも、現実を風化させる力がある。これはある人が言ってたんだが、脳は本人を壊さないために過去のことを忘れさせる機能がある、とね。つまりパンクさせないように自己防衛として働くと。この場合、時間というより脳というべきかもしれないが。不倫をしたお前は、今は心底尽くそうと思っているだろう。だが、二年後も同じテンションで維持できる自信はあるか?」
答えられなかった。
「時が進むにつれ、お前の頭の中は不倫は形骸化していく。お前は自分の努力を見てほしいという気持ちが強くなる。そこに彼とのギャップが生まれる。俺がそうだったんだから間違いない」
「そういえば、あのアキヒコの嫁も復縁って騒いでたけど、結局ダメだったね」
母が振り返った。
「俺も復縁に<外出>と<つきあい>に制限をかけた。でも八か月目で断念した。その時もアイツは自分の努力を見てくれない、と文句を言ってきた。俺はそれでキレた」

兄は煙草を吸って一息はいた。
「俺も離婚して二年になるが、やっと不倫の事実が少し薄くなってきた程度だ。次の結婚なんて考えられない。分かるか? それだけ溝は深いものなんだ。しかも、彼の条件には制限が無い。これがやっかいなんだ」
「そこが分からないなぁ、アキ兄さぁ、どういうことなの?」
「それまでの日常と違う環境になれば、少しは贖罪の気持ちを維持できる。しかし、同じ環境の中で普段と変わらない付き合いとか繋がりが保てる、ということは何もない日常と心は錯覚する。そしてさっきの時間の経過と相まって贖罪の気持ちは風化するのが早くなるんだ」
誰もが黙った。
「彼は頭がいい。最初に会ったときにそう感じたよ。だからミサを安心して任せられた。俺だってこんな条件は思いつかない。たぶん俺の離婚騒動の時に頭の中でシュミレートしていたんだろう」
兄が続けた。
「数字には出来ないが恨みと贖罪の思いの差は、五倍以上になると思っていた方がいい…」
「そんなに…」
「俺だって離婚してすべてが消えたわけじゃない。愛していれば、愛が深ければ、それだけ反動も大きいんだ。
仮に一年間頑張ったとしても、彼には五分の一程度の溝しか埋まらない、そう思っていた方がいい」

「やめな!ミサには無理だよ」姉が口火を切った。
「そうだな、末っ子のアンタには無理な話だ」母も同調する。
「慰謝料は父さんがなんとかするから…」父も同じだ。
「半分は俺が貸してやる」兄も私の性格を見越してた。

「結論は急がないそうです。決まったら私に連絡ください。あっ、それから…えーと、お相手の川上裕也さん
には慰謝料として同額の五百万円が請求されます。どうも向こうは離婚のようですが…」
弁護士はそれだけ残して去っていった。

「少し考えたい」

私は整理がつかなかった。当たり前といえばそうかも知れない。非は私にある。

その夜は晩御飯も食べられなかった。

私以外の家族は、ずっと話している。

私の部屋は昔のままだ。

暗闇の部屋に満月の光が差し込んでいる。
(本当にごめんなさい…)
家族の会話が聞こえてくる。

「ねぇ、アキヒコから言ってくれないかい?」
「何を?」
「なんとか復縁の条件を出してもらうとか、何をしたらいいかとか…」
「母さん、それは出来ないよ」
「でもさ、アキ兄だって経験者だから分かるでしょ?」
「わかるから出来ないんだよ。彼の心には誰も入れないんだ、俺だって母さんたちの意見なんて聞かなかっただろう?」
「まぁ…そうだな。夫婦のことは夫婦にしか分からない」父も少し飲んでいるようだ。
「でも…あの条件は酷すぎない? 確かにミサに原因はあるけど…なんか裏を読めって言われてもさぁ」
「たぶん、俺が同じ経験をしてるから出したんだ。もし未経験なら即離婚だよ。だが…分かっていることはある」
「なにそれ?」
「分かってること?」

「保留にしたことだ。まだ小さいけど希望はある」
「そっか。まだ愛してるってこと?」
「それはなんとも言えない。イジメたいのかも知れん。だが、そうなると虐待になってしまう。頭のいい彼が
そうするとは思えない。まだ片隅に愛が残っていると思いたいもんだが…」

こんなにも家族を悩ませることをしてしまったのか、と改めて後悔した。
あまりに稚拙で軽率だった。

だけど、兄の言うようにまだ「愛」が残っているのかも知れない。それに賭けたかった。

リビングに戻った。

「どうした?」
「考えはまとまったのか?」父の顔色が少し赤い。

「…頑張ってみようと思う」

「どうして?あんたにはムリだよ」
「かなり辛いことになるんだぞ」やはり兄も反対した。

「さっき兄さんが言ったでしょ?わずかに希望はあるって。それに賭けようと思う」
「でも、確かなことじゃないぞ」
「うん、わかってる」
父が立ち上がった。
「やってるといい」
「お父さん!」母が止めた。
「ダメなら仕方ない。やれるところまでやればいい。だが、アキヒコの言う通り容易い道じゃないぞ。もしかしたら十年はかかるかも知れない。それも覚悟してるか?」
「…はい、私の甘えを治すいい機会かもしない。でも、今は償いたい。あの人に罵られても償いたい」

私は翌日の夜に自宅に戻った。
インターホンを押すのさえ勇気がいる。
「…はい」
「ミサです」
無言なった。
玄関が開いた。
十日ぶりの夫の顔は無機質のように冷たかった。
「入れ」
声も低い。少ししゃがれていた。

「用件は?」
私は正座した。
「その前に謝罪をさせてください。大変申し訳ありませんでした」
何度目の土下座だろう。
兄からは謝罪だけは気持ちを込めろ、と言われた。
伝わっているのだろうか?
「それで?」
「はい、自分なりに色々考えました。あなたから頂いた、復縁の条件を真摯に受け止めて信用していただけるように努めたいと思いました」
夫はため息をついた。
「これを読め」
一枚の紙を渡された。

<同居要項>と書かれている。

・生活費として月七万円を渡す。余った分は妻の自由にしてよい。
・服類などの必要品は、妻が自分で出すこと。
・家賃として毎月三万円を夫に払うこと。(但し、仕事が見つかってからでよい)
・部屋内のものは自由に使用してよい。但し、食事と洗濯は別々とする。
・夫の生活には干渉しない。
・夫も妻の生活には干渉しない。
・夫婦としての必要な事項については、都度対応する。

「これは…」
「嫌なら離婚だ。飲めるか?」
(試されてる)そう思った。
「分かりました、飲みます」

だが、予想しない生活が始まった。

毎朝、「おはようございます」「おかえりなさい」と言っても無視された。
必要最低限の会話以外はとことん無視された。
これがかなり辛かった。
家賃とお小遣いのためにパートを探した。
これは幸い近くの事務用品店で空きがあった。
ここは土日が休みのため、夫との休日と合わせることが出来た。
しかし、日中は外に出ていくのでいつも一人だった。
洗濯はいいとしても、食事も一人だった。
夫は外食で済ませていた。
いつもと変わらず作っているのに美味しくなかった。
料理一つ満足に出来ない私を母がみっちり仕込んでくれた。
その時いつも言ってたのが「料理は誰かのために作るから美味しくなるんだよ」だった。
その通りだ。
泣けてきた。

一か月を過ぎた日曜日に実家に戻った。
父から心配してるから報告に来いと連絡があったからだ。
夫は出かけたから言う必要もない。

「なにこれ?」
「同居って…」
「家賃とるのか…」
みんな口々にビックリしていた。
「仕事見つかったのか?」
「うん、近所の事務用品店で働いてるの」
兄も姉も日々の生活がどうなのか根掘り葉掘り聞かれた。
「えっ、会話ないの?」
「うん、必要な時以外は話してくれない…」
「ねぇ、それイジメじゃないの?」母が一番心配している。
「アキ兄さぁ、どう思う?」
「チサ、お前の旦那が浮気したら話出来るか?」
「…うーん」
「そういうことだ。ミサ、これは異常なことじゃない。普通の反応だ」
「うん…そうだよね」
「但し、無理はするなよ。途中で諦めても責めはしないぞ」
「そうだよ、まだ一か月だしさ」
姉はいつも元気だ。
子供の相手で疲れているのに、ちゃんと話を聞いてくれる。ありがたいことだ。

この一か月はかなり疲れた。
夫と同じ空間にいるときは特に気を使った。
帰って、お風呂に入り自室にこもる。
寝室も別々だ。夫は和室を使い、私はもともとの寝室で寝ていた。
トイレや飲み物が必要な時以外は出てこない。
たまにトイレでバッティングした時は夫を優先にした。
この時も夫は何も言わない。
テレビもパソコンもあるから用は足りているのだろう。
私はリビングで本を読んでいた。
しばらくテレビも見ていない。

夫はこの生活をどう感じているのだろうか?
窮屈ではないのだろうか?
どうして同居を許したのだろうか?

扉一枚向こうの部屋には行けない。
まだ、とても高い壁があるから。

それでも、部屋に向かって「おやすみなさい」は言い続けた。

ベッドに入ったときメールが来た。
「えっ?」
それは不倫相手の川上裕也だ。
<久しぶりです。元気ですか? 私は離婚しました。ミサはまだ続いてると聞いたけど、また会えないかな?>
私より三つ年上の会社員だ。
親が金持ちということもあるが、スマートなイケメンだった。恋心が無かったと言えば嘘になる。
レディーファーストが身についていて、私は完全に浮かれた。
完全に飲まれてしまい、どこかでダメと思っても抜け出せなかった。

だが今は違う。あれは虚構の世界なんだ、現実じゃないんだ。
私は完全に切るつもりでメールを送った。
<もう連絡しないで下さい>
また返信がきた。
<いっそ離婚した方がいいよ。壊れた夫婦は戻らないから。そしたら結婚しようよ」
余計なお世話だ! 何が結婚よ! そう思ったが、少しだけぐらついた。
壊れた夫婦は戻らない…確かにそうだ。
自分のしていることに意味があるのだろうか?そんな思いもこみ上げた。
また泣いた。
押し潰されそうなこの空間に、私は耐えられる自信が無い。
ギリギリの所で何かが繋ぎ止めていた。
たぶん意地だ。

三ヶ月目に入った。
「今月の家賃です」
三万円を渡して、七万円を渡された。
何も言わない。
そのまま夫は仕事に行った。
玄関を出たら隣の小林夫婦が、どこかに出かける様子だった。
「お出かけですか?」
「えぇ、ちょっとディズニーシーへね…」
五歳ぐらいの女の子を肩車して去った。
羨ましかった。
隣の部屋は冷たい空間だ。
この差に落ち込みは激しくなる。

最近は歩いてても、家族連れに目が向いてしまう。
浮気しなければ、ウチもああいう家庭になっていたのだろうか?
優しい夫が隣で笑ってくれてたのだろうか?
そんな〈たられば妄想〉が尽きない。

実家は変わらずだった。
「どう?」母が変わらず心配顔で寄ってくる。
「うん…変わらずかな」
「まだ無口なの?もうやめたらいいのに」
甥っ子を連れた姉は、最近では少しだけ呆れ顔だ。
無理もない。私ですら思う時がある。
「家賃入れてるのか?」
「うん、ちゃんと払ってる」
兄はいつも細かく聞いてくる。
多分、夫の変化を見てるのだろう。
「それはキチンと払えよ」
「分かってる…」
「どうも分からんな…」
「何が?」
「家賃の意味だよ。干渉しないと言えど、掃除とかはしてるんだよな?」
「…うん、してるよ。何かあるの?」
「分からん。だが、彼は意味の無い事はしない筈なんだが…」

分からないままに部屋に戻った。
夕日が差し込んだ。
また、私だけのご飯を作った。
二人だけの食事は楽しかった。
「これ、美味いね」
「ミサも煮物作れるんだ」
そんな会話も戻らない。
ダメだ。もう自爆しそうだ。
何でもいい。バカでもアホでもいい。
話したい…
ワガママですか?
少しの会話もダメですか?
一人しかいない部屋に問いかけてた。

夫が帰って来た。
「おかえりなさい」
何も言わない。
「あの!」
大声に振り向いた。
「何?」
「あの…」
沈黙が流れた。
そのまま自室に消えた。
話したい事が沢山あるのに。
聞いてもらいたい事も沢山あるのに。
何も言えなかった。

(ダメだよ、アキ兄さん…埋まらないよ)
泣き崩れた。
この扉を開けたい!
顔が見たい!
でも、勇気が出ない。

朝はいつも夫より早く起きる。
リビングで待って、出てきたら後をついて玄関で見送る。
「いってらっしゃい」
背中を向けたまま出て行く。
無言の背中が冷たい。

潰れる…そう思った。

職場の経営してる老夫婦が、土曜日のお昼に誘ってくれた。
私が落ち込んでるのを察してのことだった。
聞けば、長男が遠くにいるとか。
「ミサさん、なんかあったでしょ?」
「えっ、いや…」
「話してごらん。ババァの知恵が役に立つかもしらんよ」
「おぅ、話せばいいぞ。このババはズルイからのぉ。オレも逃げられないんだ」
お爺さんがからかう。
「うるさい!ジジィはあっち行っとれ!」
気が少しだけ楽になり経緯を話した。
お婆さんは頷きながらお茶を飲む。
一通り話してから口を開けた。
「ミサさん、アンタ旦那の事分かっとらんわ」
「はい…?」
「辛いのはアンタだけじゃない。旦那もまた辛いんだよ」
「それは…分かります。けど!」
「アンタの浮気で受けたキズは、そんな簡単には治らんよ。人間ってのは、色んな考えを持って生きてる、でも、根っこはやるか、やらないか?出来るか、出来ないか?なんよ」
「どういう意味ですか?」
「ウチもな、何度も店を閉めようと思った。大型スーパーとか、デカイ事務の店が出来たりしてな…でも閉めなかった」
「どうしてですか?」
「辞めるのはいつでも出来る。けど、辞めたら続けられん…ならトコトン続けて納得行くまでやろう!とジジと決めたんよ」
「納得…」
「アンタ、自分に納得してるか?途中で放り出そうとしとらんか?」
何も言えなかった。
「夫婦続けるのも、店続けるのもな、最後はやるかやらないか?しかないんよ。他のことはどうでもいいんじゃよ」
「…」
「こんな小粒の店でも、支えてくれるお客さんはいる。頑張れって無言で言ってくれる。それならやれるのが人ってもんだよ。家族が支えてくれとるじゃないか!それなら覚悟を決めて、トコトン尽くせばいいの。利口になれなくてもバカになればいい…いつか伝わる日が来ると信じてな」
「旦那も最後は信じれるか、信じられないか?のどちらかしかないんだよ。旦那も胸の中は悩んでるはずよ」
心に響く。
また泣いた。

部屋に戻ると、少しだけ違って見えた。
うまく表せないが、一筋の光があるような気がした。
その晩。
夫が帰ってくると、私は頭を下げてゆっくりと「おかえりなさい」と言った。
無言の夫が「あぁっ」とだけ返した。
それだけだった。
だが、私は嬉しかった。
ここに来て初めて反応してくれた。

四ヶ月目。
また家賃を渡した。
夫が七万円を渡してきた。
「今週の土曜日は空いてるのか?」
「は…はい」
ドキドキした。
「恒例の創立パーティがある。結婚組は夫婦同伴なんだ。まだ会社には言ってないから、空いてるなら行くか?」
「はい!行きます」
今の私には充分な話だった。
「一応、ドレス用意してくれ。無いなら手配するが…」
「いえ、実家にあると思います。用意します」
毎年恒例の行事だ。
もう、そんな時期だった。
家を出た時にドレスは実家に預けてた。
仕事終わりに実家に戻り、バタバタとドレスを見つけ合わせた。
少し緩い。
痩せていた。
母が何かと不安げに見ていた。
事情を話すと笑顔を見せた。

パーティはいつも夕方だった。
貯金から美容代を出して、髪のセットを頼んだ。
思いきったメークもしてみた。
部屋に戻りドレスと合わせた。
(何言われるかな…)
派手とか、やり過ぎとか文句を言われるかな?とか考えた。
リビングにいた夫に披露した時、夫は一瞬微笑んだ。
「似合ってるな…」
「ありがとうございます」

会場は盛況だった。
社長の考えで、独身者の見合いも兼ねてると聞いた事があった。
私達は束の間の夫婦になった。
見た目には仲の良い夫婦だ。
楽しく終わった。
帰りの車でも、家に戻れば何かあるのでは?と思った。

だが、私は更に落ち込んだ。
部屋に戻ると、また夫はサッと部屋に消えた。
現実が戻った。
心の片隅で抱いてくれるのでは、と期待もしていた。
それは私の独りよがりでしかなく、儚い夢でしか無いことを思い知らされた。
(汚れた体なんだ)
そんな風に言われてる気がした。
行かなきゃよかった、こんな惨めな思いをするならパーティなんて…

それからしばらくは何もなく過ごした。
変わらず夫は話してくれない。
八ヶ月目。
もう会話の期待は無くなっていた。
ほとんど諦めモードしかない。

ちょうど兄の離婚成立と同じ期間だ。
兄が食事に誘ってくれた。
「たまの息抜きだ」と少し高めのレストランを奮発してくれた。
「どうだ?」
「…変わらない」
「そうか」
「ちょうど兄さんの離婚と同じ八ヶ月目なの」
「…」
赤ワインを久しぶりに飲んだ。
幸せな頃は美味しかった。
でも、今は苦い。
「そういえば、俺の離婚の事、あんまり話してなかったな…」
「そうだね…聞くのも悪いかなって思ってたから」
「つくづく思うんだけどね、男の浮気より女の浮気の方がインパクトはデカいよな」
「どうして?」
「女って心で寝る生き物だからな」
「男の人は違うの?」
「うん、下衆な話になるが男は性欲だけで寝れるんだよ。だから、風俗がある訳よ」
「…私の立場では言えないけど、それってズルい気がする」
「確かにな。でもさ、世の中から風俗が無くなったら犯罪が増えてしまう」

「ねぇ、このまま溝は埋まらないのかな?」
「俺は離婚したから少し立場は違うが、復縁はひたすら耐えるしかない」
「どうして、なつみさんは浮気したのかな?」
「責任は俺にもあると思う、仕事も忙しかったからな。たぶん、感謝がお互いに無かったんだよ」
「今でも怒ってる?」
「いや、離れたからそれはない。でも、お前は顔を合わせてるからな。怒りは続くだろう」
「やっぱりかぁ…ダメかな」
「だがな、怒りもエネルギーがいるもんだ。そう長くは続けられない。この間<時間>の話をしたろう?お互いに同じ時が流れる。もちろんされた側のスピードは遅いけどな。そのエネルギーが無くなるまで、ミサがもつかどうかだな」
「どうしたらいいのかな?」
「こういう時は欲を出したらダメだ。遠くても相手を第一に考えることだ。それが結局近道になる。」
「…うん」
「飛び道具なんて無いんだよ、間違っても夜を求めるなよ。ドン引きされるぞ」

思ってしまった。


















































































































































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