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一章

5、食べますから

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「食べないのか? 冷めてしまうぞ」

 箸を持った先生の姿が、教室で白墨はくぼくを手に「答えないのか? 授業時間が終わってしまうぞ」という姿と重なりました。
 
「無理です。できません」
「そうか。なら夕食はいらない……と。そういうことだな?」

 え? どうしてそうなるんですか。
 わたくしは驚いて目を見開きました。でも、もっと驚いたのはわたくしの胃でした。
 きゅうぅぅ、と突然騒ぎ出したのですから。

「あ、あの。今日は朝から何も食べておりませんから」
「びっくりするくらい、騒々しい腹の虫だね」

 高瀬先生の指摘に、わたくしは顔が熱くなるのを感じました。きっと頬は真っ赤でしょう。

「で、どうするんだ。まだ食べないつもりか?」
「そんなはしたないこと、できません」

 かすれる声で訴えると、先生は目を細めました。とても意地悪そうに。

「ふーん。じゃあ、翠子さんは朝まで空腹のままなのか。かわいそうに。腹が減って一睡もできないかもしれないな。ああ、この家は古いから。夜は怖いものが出るかもしれない。眠ってしまえば平気なんだが。そうか、起きているのか」
「な、なんですか? 怖いものって」

「さぁね」と先生は箸をおいて、青い切子のグラスから日本酒を飲みました。
 
 高瀬先生は意地悪です。学校での冷たい雰囲気そのままに、やはり私生活でも冷淡な人のようです。

 また、わたくしのお腹が鳴りました。
 浴衣の帯の部分を押さえて、身を屈めると少しは音が小さくなる気がしましたが。ここには先生とわたくししかおらず、外の音も聞こえてはきません。

「風情のない音だな。少し静かにしてくれないか」
「先生の夕餉の邪魔にならないように、わたくしは下がっています。別の部屋に行ってもいいですね?」
「そんなことは許可しない」

「……ひどいです。こんなにも恥ずかしいのに」

 思わず涙声になってしまい、わたくしは手で口を押さえました。

「なら、食事をとればいい。簡単なことだ」

 先生は、ご自分の太腿を軽く手でたたきました。そこへ乗れということでしょう。
 お腹はまた自己主張を始めます。
 グラスを置いた先生が、またてんぷらを挟んだ箸をわたくしに向かって差し出しました。

「恥ずかしいのは最初だけだ。すぐに慣れる」
「でも」
「さぁ『いただきます』と言いなさい」

 没落してからは食事内容が貧しくとも、空腹に苦しんだことはありませんでした。
 こんなのはまるで道に捨て置かれた犬や猫に、餌を与えるようではないですか。

 ああ、そうですね。わたくしは使用人としてではなく、愛玩動物として買われたのですね。
 ならば、覚悟を決めないと実家に返品されてしまうかもしれません。

「い……いただき、ます」

 震える声で呟くと、わたくしは先生の膝に手を置きました。
 先生の足が瞬間、びくっと反応し、身を固くしたのがてのひらに伝わってきます。
 
 箸につままれた海老を、わたくしは一口齧りました。
 さくっと軽い歯ごたえの後、弾力のある海老を噛み切ります。塩味と甘みのある海老。
 なんて美味しいのでしょう。

 一口だけにとどまらず、二口、三口と一気に食べてしまいました。
 先生の端から、赤い海老の尾が落ちていきます。

 間近にある高瀬先生の顔を、わたくしは見上げました。
 先生は驚いたように目を丸くしていらっしゃいました。こめかみに伝う一筋の汗が、行灯の明かりに照らされています。

「これでよろしいんですか?」
「あ、ああ。合格だ」
 
 先生の喉が、ごくりと動くのが間近で見えました。
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