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一章
6、手に入れたかった
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俺は手にした箸を落としそうになって、はっとした。
笠井翠子は、俺が担当する学級の生徒だ。年は十六。三十一歳の俺とは、ひとまわり以上離れている。
華族や商家のお嬢さんたちが集まる女学校は、華やかだ。だが家が没落し、父の会社が傾いた翠子さんは目立たない存在だ。
翠子さんは知らないことだが、このままでは女学校を自主退学しなければならないと、先日、彼女の両親から相談を受けていた。
ならば、うちで住み込みとして預かり、卒業まで面倒を見ることを提案し、彼女の給金としてまとまった金を渡したのだ。
翠子さんの両親には「住み込みで」と言ったが「住み込みの使用人として」とは言っていない。
なぜ、あなたを下働きとして迎えなければならないんだ。
ようやく会えたのに。
俺は海老の尾を挟んだ箸を皿に置き、次にガラスの器に入った蓴菜を手にした。
ぬるりとした蓴菜は、箸ではつまみにくい。
「そのまま飲みなさい」
「匙は使わせてもらえないんですか?」
「この俺が命じているんだよ」
「……はい」
従順に育った翠子さんは、素直にうなずいた。
家が没落するまでは、苦労もせずに人を疑うことも知らないのだろう。
だから、だ。初心なあなたを、危険に晒しかねない実家には、置いておけなかったのだ。
器を差し出すと、翠子さんは身を乗り出してきた。彼女の手が置かれた太腿に、ぐいっと力が加わる。
浴衣の布越しに翠子さんのてのひらを感じ、目眩がしそうになる。
そんなことは、おくびにも出さないが。
学校での彼女と会話をすることはめったにない。すれ違った時の挨拶と、数学の問題が解けなくて「済みません」と謝るか細い声くらいしか聞くことはない。
友人とは仲良くしゃべっているのに、その笑顔を決して俺には向けてくれない。
俺を取り巻くお嬢さんたちは、うるさいくらいに喋りかけ、常に笑顔でいるというのに。あいつらだって、翠子さんと同じくらい数学は苦手だというのに。
なぜあなたは、俺に笑顔を見せてはくれないんだ。あの時のように。
薄桃色の唇が、ガラスの器に寄せられる。
「ちゃんと噛むんだ。一息に飲み込めば、苦しいぞ」
「はい」
俺が器を傾けると、つるりとした透明なジェリィのような膜に覆われた蓴菜が、翠子さんの口に入っていった。
「ん……っ」
酢に噎せたのか、翠子さんが小さく咳き込んだ。
「そんなに腹が減っていたのか。はしたないな」
「……言わないでください」
頬を染めながら、翠子さんは器を持つ俺の手に指を添えた。
不意に、しかも直に触れられて、胸が高鳴りそうになる。
いい年をして、初恋みたいなことを。馬鹿か、俺は。
蓴菜の膜でとろりとした酢が、翠子さんの口からこぼれて白い肌を伝う。
背筋に稲妻のようなものが走った気がした。
誰もまだ踏んでいない新雪に手を突っ込んで、強く握りしめるような。高揚感と背徳感だ。
俺は翠子さんに顔を近づけて、そのあごまで垂れた酢を舐めた。
だしの味と微かな甘みと、そして酸味を感じる。
「先生っ?」
急に正気に戻ったのか、翠子さんが俺から離れようとする。
させない、そんなことは。
俺は空いた手で彼女の手首を掴んだ。
笠井翠子は、俺が担当する学級の生徒だ。年は十六。三十一歳の俺とは、ひとまわり以上離れている。
華族や商家のお嬢さんたちが集まる女学校は、華やかだ。だが家が没落し、父の会社が傾いた翠子さんは目立たない存在だ。
翠子さんは知らないことだが、このままでは女学校を自主退学しなければならないと、先日、彼女の両親から相談を受けていた。
ならば、うちで住み込みとして預かり、卒業まで面倒を見ることを提案し、彼女の給金としてまとまった金を渡したのだ。
翠子さんの両親には「住み込みで」と言ったが「住み込みの使用人として」とは言っていない。
なぜ、あなたを下働きとして迎えなければならないんだ。
ようやく会えたのに。
俺は海老の尾を挟んだ箸を皿に置き、次にガラスの器に入った蓴菜を手にした。
ぬるりとした蓴菜は、箸ではつまみにくい。
「そのまま飲みなさい」
「匙は使わせてもらえないんですか?」
「この俺が命じているんだよ」
「……はい」
従順に育った翠子さんは、素直にうなずいた。
家が没落するまでは、苦労もせずに人を疑うことも知らないのだろう。
だから、だ。初心なあなたを、危険に晒しかねない実家には、置いておけなかったのだ。
器を差し出すと、翠子さんは身を乗り出してきた。彼女の手が置かれた太腿に、ぐいっと力が加わる。
浴衣の布越しに翠子さんのてのひらを感じ、目眩がしそうになる。
そんなことは、おくびにも出さないが。
学校での彼女と会話をすることはめったにない。すれ違った時の挨拶と、数学の問題が解けなくて「済みません」と謝るか細い声くらいしか聞くことはない。
友人とは仲良くしゃべっているのに、その笑顔を決して俺には向けてくれない。
俺を取り巻くお嬢さんたちは、うるさいくらいに喋りかけ、常に笑顔でいるというのに。あいつらだって、翠子さんと同じくらい数学は苦手だというのに。
なぜあなたは、俺に笑顔を見せてはくれないんだ。あの時のように。
薄桃色の唇が、ガラスの器に寄せられる。
「ちゃんと噛むんだ。一息に飲み込めば、苦しいぞ」
「はい」
俺が器を傾けると、つるりとした透明なジェリィのような膜に覆われた蓴菜が、翠子さんの口に入っていった。
「ん……っ」
酢に噎せたのか、翠子さんが小さく咳き込んだ。
「そんなに腹が減っていたのか。はしたないな」
「……言わないでください」
頬を染めながら、翠子さんは器を持つ俺の手に指を添えた。
不意に、しかも直に触れられて、胸が高鳴りそうになる。
いい年をして、初恋みたいなことを。馬鹿か、俺は。
蓴菜の膜でとろりとした酢が、翠子さんの口からこぼれて白い肌を伝う。
背筋に稲妻のようなものが走った気がした。
誰もまだ踏んでいない新雪に手を突っ込んで、強く握りしめるような。高揚感と背徳感だ。
俺は翠子さんに顔を近づけて、そのあごまで垂れた酢を舐めた。
だしの味と微かな甘みと、そして酸味を感じる。
「先生っ?」
急に正気に戻ったのか、翠子さんが俺から離れようとする。
させない、そんなことは。
俺は空いた手で彼女の手首を掴んだ。
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