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一章
7、夜更け
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はしたないことをしてしまいました。
食事を終えたわたくしは、我に返りました。結局、先生がすべて食べさせてくれたのです。
そのせいで、先生の食事は冷えてしまったでしょう。
「申し訳ありません」と頭を下げましたが、先生は不思議と笑顔でいらっしゃいました。
「別にてんぷらが少々冷めたところで、問題はない」
学校で高瀬先生の笑顔を見ることはなく、教員と話している時も、取り巻きの女学生に囲まれている時も、常に難しい顔をしていらっしゃいます。
空腹に負けたわたくしを、嘲笑っているのかと訝しみましたが。そんな風ではありません。
なんと申しますか、柔らかな春風が吹くような笑みなのです。
「高瀬先生でも、そんなお顔をなさるんですね」
思わず問いかけると、先生ははっとしたように急に眉間にしわを寄せました。
「ここは学校ではない。名前で呼ぶか、せめて『旦那さま』と言いなさい」
え? そちらなのですか。
笑顔は恋人に向けるもので、お前に見せる価値などないと罵られるとばかり思っていましたが。
「明日は学校があるが、まだここでの生活に慣れていないからな。休みなさい」
「でも、宿題が」
「ああ、俺が出した宿題か」
先生は苦笑なさいました。今度は、ちょっと馬鹿にされていると分かります。
どうせ解けっこないと思っているのでしょう。
「ふむ、そうだな。朝まで宿題を教えるのと、俺と閨を共にするのと、どちらかを選ばせてやろう」
「閨を共にするって、あの……まさか」
突然の申し出に、わたくしの声は裏返ってしまいました。
でも、そういうことですよね。男女の交わりというか、要は体を重ねるということですよね。
女学校ではすでに婚約者がいる方もいらっしゃいます。でも、わたくしは誰ともお付き合をしたこともないですし、無論手を繋いだことすらありません。
先生がわたくしの耳元に口を寄せました。
「別に、すぐに抱こうというわけじゃない。あなたと共に夜を過ごしたいだけだ」
「えっと、その。添い寝……ですか」
「子どもじゃあるまいし」
では何を? 本の読み聞かせでもありませんよね。高瀬先生の方が学がありますもの。
「あなたを見ていたい。なぁに、朝までなどとは言わない。風邪をひかせたくはないからな。そうだな、夜更けまでくらいならいいだろう」
何を仰っているんですか?
わたくしのすぐ傍で、黒い瞳が細められました。
使用人が夕餉の膳を下げ、布団を敷いてくれました。
二組の布団が並べられ、まるで夫婦の寝所のようです。
布団の前に正座するわたくしを、先生が見下ろしています。
「立ちなさい、翠子さん」
促されるままに立ち上がると、座敷と縁側の間にある柱へと導かれました。先生の手がわたくしの帯にかかったと思うと、しゅるりと帯が解かれました。
「えっ? きゃあっ」
「顔や腕も白いが、服に隠れている部分は白磁のようだな」
「見ないでください」
「では徹夜で勉強をするか? 俺は指導はするが、答えは教えない。もし君が居眠りをしたら、頭から水をかけて起こすが。それでいいのか?」
水を? どうしてそんな厳しいことを仰るのでしょう。
怯えるわたくしを、先生は腕を組んだまま眺めています。先生が教室で生徒を叱ることもありますが、こんな風に脅かすようなことは誰も言われていませんでした。
なぜ、わたくしだけが? やはりお金で買われたからなのですか?
みじめな思いに、唇を噛みしめることしかできません。
「どうするんだ?」
「先生の思うようになさってください」
食事を終えたわたくしは、我に返りました。結局、先生がすべて食べさせてくれたのです。
そのせいで、先生の食事は冷えてしまったでしょう。
「申し訳ありません」と頭を下げましたが、先生は不思議と笑顔でいらっしゃいました。
「別にてんぷらが少々冷めたところで、問題はない」
学校で高瀬先生の笑顔を見ることはなく、教員と話している時も、取り巻きの女学生に囲まれている時も、常に難しい顔をしていらっしゃいます。
空腹に負けたわたくしを、嘲笑っているのかと訝しみましたが。そんな風ではありません。
なんと申しますか、柔らかな春風が吹くような笑みなのです。
「高瀬先生でも、そんなお顔をなさるんですね」
思わず問いかけると、先生ははっとしたように急に眉間にしわを寄せました。
「ここは学校ではない。名前で呼ぶか、せめて『旦那さま』と言いなさい」
え? そちらなのですか。
笑顔は恋人に向けるもので、お前に見せる価値などないと罵られるとばかり思っていましたが。
「明日は学校があるが、まだここでの生活に慣れていないからな。休みなさい」
「でも、宿題が」
「ああ、俺が出した宿題か」
先生は苦笑なさいました。今度は、ちょっと馬鹿にされていると分かります。
どうせ解けっこないと思っているのでしょう。
「ふむ、そうだな。朝まで宿題を教えるのと、俺と閨を共にするのと、どちらかを選ばせてやろう」
「閨を共にするって、あの……まさか」
突然の申し出に、わたくしの声は裏返ってしまいました。
でも、そういうことですよね。男女の交わりというか、要は体を重ねるということですよね。
女学校ではすでに婚約者がいる方もいらっしゃいます。でも、わたくしは誰ともお付き合をしたこともないですし、無論手を繋いだことすらありません。
先生がわたくしの耳元に口を寄せました。
「別に、すぐに抱こうというわけじゃない。あなたと共に夜を過ごしたいだけだ」
「えっと、その。添い寝……ですか」
「子どもじゃあるまいし」
では何を? 本の読み聞かせでもありませんよね。高瀬先生の方が学がありますもの。
「あなたを見ていたい。なぁに、朝までなどとは言わない。風邪をひかせたくはないからな。そうだな、夜更けまでくらいならいいだろう」
何を仰っているんですか?
わたくしのすぐ傍で、黒い瞳が細められました。
使用人が夕餉の膳を下げ、布団を敷いてくれました。
二組の布団が並べられ、まるで夫婦の寝所のようです。
布団の前に正座するわたくしを、先生が見下ろしています。
「立ちなさい、翠子さん」
促されるままに立ち上がると、座敷と縁側の間にある柱へと導かれました。先生の手がわたくしの帯にかかったと思うと、しゅるりと帯が解かれました。
「えっ? きゃあっ」
「顔や腕も白いが、服に隠れている部分は白磁のようだな」
「見ないでください」
「では徹夜で勉強をするか? 俺は指導はするが、答えは教えない。もし君が居眠りをしたら、頭から水をかけて起こすが。それでいいのか?」
水を? どうしてそんな厳しいことを仰るのでしょう。
怯えるわたくしを、先生は腕を組んだまま眺めています。先生が教室で生徒を叱ることもありますが、こんな風に脅かすようなことは誰も言われていませんでした。
なぜ、わたくしだけが? やはりお金で買われたからなのですか?
みじめな思いに、唇を噛みしめることしかできません。
「どうするんだ?」
「先生の思うようになさってください」
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