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六章
9、夜明け
ぽたり……とヤツデの葉から雨の雫が落ちていく。
翠子さんは、俺の腕の中で眠っている。
縁側で彼女を愛していたが、いつしか瞼が重くなったらしく、俺のキスを受けながら翠子さんは熟睡してしまっていた。
「まったく子どもでもあるまいに」
俺は苦笑しつつ翠子さんを横抱きにして、布団へと運んだ。夜明けまであと少しあるだろう。
古い傷痕の残る俺の手を、翠子さんは眠りながらも握りしめてくる。彼女は本当に心から、俺のこの傷を心配してくれる。
母に折檻されていたのは、もう二十五年以上も前のことだ。
――生意気な子。あんたなんか生みたくもなかったわ。
「痛い」と叫んでも「やめて」と懇願しても、俺は鞭で打たれ続けた。家庭を顧みない夫にぶつけることのできない鬱憤を、母はすべて子どもである俺に向けた。
逃げ場のない壁に追い詰められ、意識を失うまで背中を鞭打たれたことも一度や二度ではない。
血にまみれた俺の手当てをしてくれたのは、お清だ。だが使用人であるお清は、母に意見することはできなかった。
一生、独りでいいと思っていたのに。家族などいらないと考えていたのに。
幼いあなたと、苦手な甘味を口にした時。
そうか、家族とは自分で作れるのだ。大事な家族は自分で選ぶことができるのだと知った。
夏布団をかけてはいるが、裸体のままの翠子さんは小さく肩を震わせた。俺は彼女を抱き寄せて、暖めてやる。
父である男爵に置屋に売り飛ばされそうになったあなたにとって、我が家は夜明けの光となってあげられるだろうか。
あなたが、俺にとっての煌めく朝日であるように。
孤独な二人がそれぞれ手を伸ばせば、互いにもう一人ではない。そうして手をつないで、歩いていけるならば、と。そう願わずにはいられない。
◇◇◇
鳥のさえずりで、わたくしは目を覚ましました。ぱっちりというか、すっきりというべきか。
目の前には、旦那さまの顔があります。
その静謐な寝顔に、そっと手を伸ばします。
存外、長い睫毛、整った鼻筋、少し薄い唇をすっと指で触れてみました。
「……くすぐったいんだが」
「す、すみません。眠っていらっしゃるとばかり」
「君は俺が眠っていたら、いたずらをするのだな」
「いえ、普段はそんなことないのですけど」
夏布団をめくって上体を起こすと、わたくしは素肌をさらしていました。もちろん旦那さまも。
思わず赤面しましたが、昨夜のことを考えれば当然です。
わたくしは、旦那さまを……。
無理です、これ以上考えてはいけません。
「まったく何を今更。あれほど大胆だったのに」
「言わないでくださいっ」
起き上がった旦那さまが、夏布団ごとわたくしの体を包みます。背後から抱きしめられて、旦那さまの逞しい胸にもたれかかる格好になりました。
「ありがとう。俺を受け入れてくれて」
「旦那さま……」
わたくしをこの家に迎え入れてくださったのは、旦那さまですのに。
でも……どこか寂しい影のよぎる高瀬先生が、この家では……わたくしの前では笑顔でいてくださるのなら。
あなたの傍にいることを許されているのが、とても嬉しいのです。
旦那さまは壁の時計を見上げました。時計の針は六時前です。
「起きるには、まだ少し早いな」
「もうひと眠りなさいますか?」
「いや、そうではない」
そう仰ると、旦那さまはわたくしの体を敷布団に倒しました。そしてご自分もわたくしと同じ夏布団をかぶります。
あの……お互い寝間着を身に着けていないのですけど。
ですが旦那さまはお構いなしに、わたくしを抱きしめました。
引き締まった筋肉が、素肌に触れて。どきどきしてしまいます。胸の鼓動が旦那さまに聞こえやしないかと、緊張します。
掛け布団を頭が隠れるほどに引き上げた旦那さまは、わたくしの額に、頬に接吻なさいました。
狭い布団の中です。逃れようとすると「駄目だよ。今度は俺がいたずらする番だから」などと仰います。
「わ、わたくしは、指で触れただけです」
「うん、俺は唇で触れているだけだ。なに、大差ない」
「あります。大ありです」
「大丈夫。あと一時間ほどしかしないから」
そんな。あと一時間もキスを受け続けるのですか?
だって、わたくしが旦那さまに触れていたのは、ほんの一分ほどでしたのに。
「あなたの一分は、俺の一時間に相当するんだよ。つまりあなたの六十倍は触れていたいということだ」
「理屈が分かり……んっ……」
反論の途中で唇を塞がれて、わたくしの言葉は旦那さまの口の中に消えていきます。
「はいはい。抗議は後でいくらでも受けるから。もう観念しなさい」
止むことなく降ってくる接吻に、わたくしは身悶えしながら応じました。
翠子さんは、俺の腕の中で眠っている。
縁側で彼女を愛していたが、いつしか瞼が重くなったらしく、俺のキスを受けながら翠子さんは熟睡してしまっていた。
「まったく子どもでもあるまいに」
俺は苦笑しつつ翠子さんを横抱きにして、布団へと運んだ。夜明けまであと少しあるだろう。
古い傷痕の残る俺の手を、翠子さんは眠りながらも握りしめてくる。彼女は本当に心から、俺のこの傷を心配してくれる。
母に折檻されていたのは、もう二十五年以上も前のことだ。
――生意気な子。あんたなんか生みたくもなかったわ。
「痛い」と叫んでも「やめて」と懇願しても、俺は鞭で打たれ続けた。家庭を顧みない夫にぶつけることのできない鬱憤を、母はすべて子どもである俺に向けた。
逃げ場のない壁に追い詰められ、意識を失うまで背中を鞭打たれたことも一度や二度ではない。
血にまみれた俺の手当てをしてくれたのは、お清だ。だが使用人であるお清は、母に意見することはできなかった。
一生、独りでいいと思っていたのに。家族などいらないと考えていたのに。
幼いあなたと、苦手な甘味を口にした時。
そうか、家族とは自分で作れるのだ。大事な家族は自分で選ぶことができるのだと知った。
夏布団をかけてはいるが、裸体のままの翠子さんは小さく肩を震わせた。俺は彼女を抱き寄せて、暖めてやる。
父である男爵に置屋に売り飛ばされそうになったあなたにとって、我が家は夜明けの光となってあげられるだろうか。
あなたが、俺にとっての煌めく朝日であるように。
孤独な二人がそれぞれ手を伸ばせば、互いにもう一人ではない。そうして手をつないで、歩いていけるならば、と。そう願わずにはいられない。
◇◇◇
鳥のさえずりで、わたくしは目を覚ましました。ぱっちりというか、すっきりというべきか。
目の前には、旦那さまの顔があります。
その静謐な寝顔に、そっと手を伸ばします。
存外、長い睫毛、整った鼻筋、少し薄い唇をすっと指で触れてみました。
「……くすぐったいんだが」
「す、すみません。眠っていらっしゃるとばかり」
「君は俺が眠っていたら、いたずらをするのだな」
「いえ、普段はそんなことないのですけど」
夏布団をめくって上体を起こすと、わたくしは素肌をさらしていました。もちろん旦那さまも。
思わず赤面しましたが、昨夜のことを考えれば当然です。
わたくしは、旦那さまを……。
無理です、これ以上考えてはいけません。
「まったく何を今更。あれほど大胆だったのに」
「言わないでくださいっ」
起き上がった旦那さまが、夏布団ごとわたくしの体を包みます。背後から抱きしめられて、旦那さまの逞しい胸にもたれかかる格好になりました。
「ありがとう。俺を受け入れてくれて」
「旦那さま……」
わたくしをこの家に迎え入れてくださったのは、旦那さまですのに。
でも……どこか寂しい影のよぎる高瀬先生が、この家では……わたくしの前では笑顔でいてくださるのなら。
あなたの傍にいることを許されているのが、とても嬉しいのです。
旦那さまは壁の時計を見上げました。時計の針は六時前です。
「起きるには、まだ少し早いな」
「もうひと眠りなさいますか?」
「いや、そうではない」
そう仰ると、旦那さまはわたくしの体を敷布団に倒しました。そしてご自分もわたくしと同じ夏布団をかぶります。
あの……お互い寝間着を身に着けていないのですけど。
ですが旦那さまはお構いなしに、わたくしを抱きしめました。
引き締まった筋肉が、素肌に触れて。どきどきしてしまいます。胸の鼓動が旦那さまに聞こえやしないかと、緊張します。
掛け布団を頭が隠れるほどに引き上げた旦那さまは、わたくしの額に、頬に接吻なさいました。
狭い布団の中です。逃れようとすると「駄目だよ。今度は俺がいたずらする番だから」などと仰います。
「わ、わたくしは、指で触れただけです」
「うん、俺は唇で触れているだけだ。なに、大差ない」
「あります。大ありです」
「大丈夫。あと一時間ほどしかしないから」
そんな。あと一時間もキスを受け続けるのですか?
だって、わたくしが旦那さまに触れていたのは、ほんの一分ほどでしたのに。
「あなたの一分は、俺の一時間に相当するんだよ。つまりあなたの六十倍は触れていたいということだ」
「理屈が分かり……んっ……」
反論の途中で唇を塞がれて、わたくしの言葉は旦那さまの口の中に消えていきます。
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