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八章
25、旅館【6】
眠ってしまった翠子さんに、俺は布団をかけてやった。
あなたに噛まれていた指は、今もじんじんと痛んでいる。その痛みを嬉しいと思うなんて、おかしいだろうか。
すでに時刻は深夜のはずだが。離れた場所に位置する工場は稼働しているらしく、窓の外はうすぼんやりと明るい。
今もなお窓ガラスに、俺に抱かれたあなたのなまめかしい姿態が映っているようで。
一度だけでよく我慢できたものだと、我ながら感心する。
どうやら近くに川があるらしく、水が流れるさらさらという音が聞こえてきた。
工場地帯なので、水がきれいだとは思わないが。翠子さんと二人で蛍狩りに行った、川辺を思い出した。
湿った草と清らかな水の匂い、明滅する緑の光。俺を初恋の人だと告白してくれたあの夜は、心の中の宝箱にちゃんとしまってある。
「翠子さん」
眠りに落ちた翠子さんの手を取り、その甲にそっとくちづける。狸寝入りでもないのに、彼女の口許が柔らかく微笑んだ。
◇◇◇
翌朝、すぱーんと派手な音を立てて襖が開かれた。
「お早う。朝やで、起きろ。欧之丞、翠子さん」
なんだよ、やめてくれよ。
せめて翠子さんの「旦那さま、お早うございます」か「旦那さま、遅刻なさいますよ」か「十数えるうちに起きてくださらないと、わたくしが接吻してしまいますよ」とか「今日はお休みですから、もうしばらく一緒のお布団でごろごろしましょ」とかなら……最高だな、それ。
「欧之丞。自分、なんでにやけとん?」
翠子さんを腕に閉じ込めたまま、俺はぼんやりと瞼を開いた。視界が明瞭になってくると、なぜか琥太兄が俺の顔を覗きこんでいた。
なんで琥太兄がいるんだ? いや、違うぞ。ここは家じゃない。
頭の中が混乱したが。そういえばこいつは学生時代に下宿していた時も、いきなり人の部屋に乱入してくる奴だった。
着替え中でもおかまいなしに部屋に入ってきて。「何が恥ずかしいんや?」と無神経なことを言うものだから。
子どもの頃から、大勢の大人にかしずかれてきた人間は、これだから困るんだ。
「おや。布団は二つあるのに、一つの布団で寝とんのか。いやらしいことや」
「うるさいな。女性が眠っている部屋に入ってくる琥太兄の方がいやらしいだろ」
「ん? 欧之丞。指を怪我しとるやないか」
琥太兄の言葉に、俺は慌てて左手を後ろにまわした。同時に、まだ眠っている翠子さんも背中に隠す。
「翠子さんが起きたら着替えるから。自分の部屋に戻っていてくれないか」
「まったく、つれないな。じきに朝食が部屋に運ばれるから、ちゃんと翠子さんに服を着せたげなさい」
慌てて後ろを見ると、肩を露わにした翠子さんの姿があった。腕と肩、そして鎖骨の辺りまで素肌をさらし、何もまとっていないのが一目瞭然だ。
「お前も寝間着くらい着て寝ろ」
ひらひらと手をふりながら、琥太郎兄さんは部屋を出て行った。
◇◇◇
目を覚ましたわたくしは、昨日と同じ浴衣を着て、運ばれてきたお膳の前に座りました。
「三條の若さまが、こちらのお嬢さまには、お粥がいいだろうと仰られましたので」
仲居さんが運んでくださった膳は、おかずは同じですが、わたくしの分だけご飯がお粥でした。確かにその方が食べやすく思います。
温かな湯気と、柔らかく煮込まれたお米の甘い香り。
「三條の若さまと仰ると、琥太郎さんのことですよね。お優しいんですね」
「気が利くんだか、利かないんだか。分からんな、あの人は」
「なぜですか?」
わたくしが問いかけると、旦那さまは渋い表情を浮かべました。
そして仲居さんが立ち去った後に「翠子さんが寝ている時に、琥太郎兄さんは部屋に乱入してきたんだぞ。覚えていないだろうが」と仰いました。
お、覚えていません。知りません。
眠っている時って……わたくし、起きたら素っ裸でしたのに。旦那さまに「お早う」と耳元で囁かれて、自分が何も身にまとっていないのが恥ずかしくて。大慌てで背中を向けてしまったのに。
「嘘ですよね、冗談ですよね?」
蚊の鳴くような声で、わたくしは念を押しましたが。答えは「否」でした。
ふと見ると、お味噌汁のお椀を持つ旦那さまの指に血がついていました。
まさか、その傷は昨夜の。
わたくしの手から落ちたお箸が、お皿で跳ねてお膳に落ちます。
急いで旦那さまに寄り添って、左手に顔を寄せました。
「ごめんなさい、旦那さま。わたくし、お怪我をさせてしまいました」
「いや、いいんだ。噛めと言ったのは、俺だから」
「でも、こんなひどい傷になるなんて」
「大丈夫。もう血は止まっているよ」
けれど……とおろおろするわたくしの頭を、旦那さまが撫でてくださいます。
いけません。こんな凶暴な翠子を甘やかしたりなさっては。
「家に戻ったら、翠子さんに手当てをしてもらうよ。それでいい?」
「……はい。申し訳ございません」
「あなたが指に怪我することに比べたら、どうということはないよ」
柔らかく微笑む旦那さまは、お優しすぎます。
あなたに噛まれていた指は、今もじんじんと痛んでいる。その痛みを嬉しいと思うなんて、おかしいだろうか。
すでに時刻は深夜のはずだが。離れた場所に位置する工場は稼働しているらしく、窓の外はうすぼんやりと明るい。
今もなお窓ガラスに、俺に抱かれたあなたのなまめかしい姿態が映っているようで。
一度だけでよく我慢できたものだと、我ながら感心する。
どうやら近くに川があるらしく、水が流れるさらさらという音が聞こえてきた。
工場地帯なので、水がきれいだとは思わないが。翠子さんと二人で蛍狩りに行った、川辺を思い出した。
湿った草と清らかな水の匂い、明滅する緑の光。俺を初恋の人だと告白してくれたあの夜は、心の中の宝箱にちゃんとしまってある。
「翠子さん」
眠りに落ちた翠子さんの手を取り、その甲にそっとくちづける。狸寝入りでもないのに、彼女の口許が柔らかく微笑んだ。
◇◇◇
翌朝、すぱーんと派手な音を立てて襖が開かれた。
「お早う。朝やで、起きろ。欧之丞、翠子さん」
なんだよ、やめてくれよ。
せめて翠子さんの「旦那さま、お早うございます」か「旦那さま、遅刻なさいますよ」か「十数えるうちに起きてくださらないと、わたくしが接吻してしまいますよ」とか「今日はお休みですから、もうしばらく一緒のお布団でごろごろしましょ」とかなら……最高だな、それ。
「欧之丞。自分、なんでにやけとん?」
翠子さんを腕に閉じ込めたまま、俺はぼんやりと瞼を開いた。視界が明瞭になってくると、なぜか琥太兄が俺の顔を覗きこんでいた。
なんで琥太兄がいるんだ? いや、違うぞ。ここは家じゃない。
頭の中が混乱したが。そういえばこいつは学生時代に下宿していた時も、いきなり人の部屋に乱入してくる奴だった。
着替え中でもおかまいなしに部屋に入ってきて。「何が恥ずかしいんや?」と無神経なことを言うものだから。
子どもの頃から、大勢の大人にかしずかれてきた人間は、これだから困るんだ。
「おや。布団は二つあるのに、一つの布団で寝とんのか。いやらしいことや」
「うるさいな。女性が眠っている部屋に入ってくる琥太兄の方がいやらしいだろ」
「ん? 欧之丞。指を怪我しとるやないか」
琥太兄の言葉に、俺は慌てて左手を後ろにまわした。同時に、まだ眠っている翠子さんも背中に隠す。
「翠子さんが起きたら着替えるから。自分の部屋に戻っていてくれないか」
「まったく、つれないな。じきに朝食が部屋に運ばれるから、ちゃんと翠子さんに服を着せたげなさい」
慌てて後ろを見ると、肩を露わにした翠子さんの姿があった。腕と肩、そして鎖骨の辺りまで素肌をさらし、何もまとっていないのが一目瞭然だ。
「お前も寝間着くらい着て寝ろ」
ひらひらと手をふりながら、琥太郎兄さんは部屋を出て行った。
◇◇◇
目を覚ましたわたくしは、昨日と同じ浴衣を着て、運ばれてきたお膳の前に座りました。
「三條の若さまが、こちらのお嬢さまには、お粥がいいだろうと仰られましたので」
仲居さんが運んでくださった膳は、おかずは同じですが、わたくしの分だけご飯がお粥でした。確かにその方が食べやすく思います。
温かな湯気と、柔らかく煮込まれたお米の甘い香り。
「三條の若さまと仰ると、琥太郎さんのことですよね。お優しいんですね」
「気が利くんだか、利かないんだか。分からんな、あの人は」
「なぜですか?」
わたくしが問いかけると、旦那さまは渋い表情を浮かべました。
そして仲居さんが立ち去った後に「翠子さんが寝ている時に、琥太郎兄さんは部屋に乱入してきたんだぞ。覚えていないだろうが」と仰いました。
お、覚えていません。知りません。
眠っている時って……わたくし、起きたら素っ裸でしたのに。旦那さまに「お早う」と耳元で囁かれて、自分が何も身にまとっていないのが恥ずかしくて。大慌てで背中を向けてしまったのに。
「嘘ですよね、冗談ですよね?」
蚊の鳴くような声で、わたくしは念を押しましたが。答えは「否」でした。
ふと見ると、お味噌汁のお椀を持つ旦那さまの指に血がついていました。
まさか、その傷は昨夜の。
わたくしの手から落ちたお箸が、お皿で跳ねてお膳に落ちます。
急いで旦那さまに寄り添って、左手に顔を寄せました。
「ごめんなさい、旦那さま。わたくし、お怪我をさせてしまいました」
「いや、いいんだ。噛めと言ったのは、俺だから」
「でも、こんなひどい傷になるなんて」
「大丈夫。もう血は止まっているよ」
けれど……とおろおろするわたくしの頭を、旦那さまが撫でてくださいます。
いけません。こんな凶暴な翠子を甘やかしたりなさっては。
「家に戻ったら、翠子さんに手当てをしてもらうよ。それでいい?」
「……はい。申し訳ございません」
「あなたが指に怪我することに比べたら、どうということはないよ」
柔らかく微笑む旦那さまは、お優しすぎます。
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