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二章

10、来てほしいのは一人だけ

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「……くっ」

 壁で背中をしたたかに打ちつけ、アフタルは痛みに歯を食いしばった。

「あのさ。高価な宝石をあげたんだからさ、君の方から婚約を破棄したと両親に言ってくれないかな。できるよね『わたくしは我儘ですから、気が変わって結婚が嫌になりました。傷心のロヴナさんを、優しいフィラさんが慰めてくれたんです。わたくしも、フィラさんを推薦いたします』ってさ」

「何を勝手なことを。わたくしにそんなことを言う義務はありません」

 痛みに顔をしかめながらも、アフタルは気丈に返した。

「勝手ねぇ。君、今の自分の立場が分かってるの?」

 ロヴナの手が、アフタルの頬を力任せに叩いた。
 狭い部屋に、高い音が反響する。

 アフタルは乱れた金髪の間から、眼前の卑怯な男を睨みつける。
 痛いけれど、初めて叩かれた時のようなショックはなかった。
 この男は、簡単に暴力をふるうのだと知っているから。

「なんだい、その目は。気に食わない」

 再び平手が飛んでくる。
 さすがにまた叩かれてやるほど、お人よしではない。

 後方に避けると、ロヴナの手が空を切った。ロヴナは体の均衡を崩し、みっともなくよろけた。
 じっとりとした瞳が、アフタルをとらえる。
 なぜ避けるのだと、その目は言っていた。

「君さ、この部屋にいるってことは、神殿娼婦だからね。王女という身分は意味をなさないよ」

 ロヴナが拳を握りしめる。

 まさか叩くのではなく、殴るつもりなの?
 アフタルは息を呑んだ。

 怖くても、つらくても。あの闘技場で、豹に襲い掛かられた時のことを思えば、耐えられる。
 ただ脅えているだけの弱い王女でいたくない。
 深緑の目で、哀れな元婚約者を見据える。

「婚約を破棄してくださったこと、感謝いたします」
「なっ」
「気に入らないことがあると暴力をふるう。そんな癇癪かんしゃく持ちの子どもが夫になるなど、今考えればとても恐ろしいこと。どうぞ暴君を気取り続けてください。恐怖政治を強いるあなたの小さな王国に、わたくしがいないことが幸いだと思います」

 ロヴナの顔が、見る間に赤く染まっていく。首筋も耳もだ。

「お、お前」
「わたくしはサラーマ王国の第三王女。あなたに『お前』呼ばわりされる筋合いはありません」

 かっとなったロヴナが殴りかかってきた。
 アフタルはスカートをつまみあげ、ロヴナの下腹を足で蹴とばした。

 ――いい? アフタル。男性に襲われそうになったり、無理強いされそうになったら、下腹部よりもさらに下を狙うのですよ。そして大声で叫ぶのです。

 ――恥ずかしいですって? はしたないですって? 何を言っているの。わたくしたちの可愛い妹が危機に陥ることに比べれば、なんてことないわ。躊躇してはダメ。

 ――いっそ、釘の棒をいつも携帯させた方がいいかもしれませんね。

 ――いい考えだわ、ヤフダ姉さま。専用の棒を作っておきましょう。

 脳裏をよぎったのは、ミトラとヤフダの言葉だ。

(お姉さま。アフタルは負けません)

 初めてのことなので、狙いは外れてしまったけど。
 それでも思いがけない攻撃を受けたロヴナは、腹部を押さえて呻いた。

「誰か!」

 叫ぼうとして、アフタルははっとした。
 来てほしいのは、誰かじゃない。
 たった一人、彼だ。

「シャールーズ!」

 アフタルは叫んだ。大事な人の名を。

「シャールーズ! 助けて!」

 彼と別れた食堂から、この小部屋までは離れている。声が届くとは思えない。それでもアフタルは疑うことがなかった。
 シャールーズが来てくれるのを。
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