天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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「お、お邪魔…します…!」

ゆっくりと開いた扉の先。薄く開いたそこには、一週間前と同じ、ほんのりと照明が灯った薄暗い部屋が広がっていた。
自室との対比のせいか、一層薄暗く見える室内に僅かに尻込みするも、以前感じた時と同じく、好奇心を刺激するような魅力が、開いた扉の隙間から溢れていた。

「イヴ……イヴ…? …いないの?」

様子を伺う様に、ドキドキしながら部屋の主の名を呼ぶも、返事も姿も無いことに僅かに動揺が走った。

(……いない…?)

てっきり扉を開けたら待っていてくれてるとばかり思っていた予想が外れ、途端に不安が顔を出す。

(どうしよう…)

オロオロと辺りを見回しながら、既にいないはずのエルダを振り返ろうとして、グッと堪える。

(……大丈夫、だよね? 今日はだって…遊びに行って、いい日だもんね…?)

水の日ローは、イヴァニエの元へ遊びに行くと決めたのだ。
自室との境界線を見つめながらコクリと息を呑むと、ドアノブをキツく握り、大きく扉を開いた。

「イヴ……ぁ、遊びに来たよ…」

もう一度声を掛け、恐る恐る開いた扉の中へと足を踏み入れる。
足の裏に感じるふかりとした柔らかな絨毯の感触に、ホッと息を吐きながら、静かに扉を閉じた。

(……どうしよう…)

なんとか中には入れたものの、その場から動けず、立ち竦んだまま辺りを見回した。
置かれている調度品は、見事な細工が施され、つい近寄ってまじまじと見たい衝動に駆られるも、今はそれどころではない。
悩み、迷いながらも一歩、二歩と足を進めれば、部屋の奥に大きな天蓋付きのベッドが見え、ここが寝室なのだと知ることができた。
ただ場所は分かれど、シンと静まり返った室内にはやはり人の気配が無く、心細さと緊張から思わず泣きそうになる。

(…あ…扉がある)

小さく唸りながら更に視線を彷徨わせれば、広い部屋の反対側に、もう一つ扉があるのが見えた。

(……あっちに、行っていいのかな…?)

まずはイヴァニエと会わなければ何も出来ない。
もう一度部屋の中を見回すと、深く息を吸い込み、反対側にある扉に向かって歩き出した。
勝手に入って怒られないか、歩き回っていて大丈夫なのか、イヴァニエはどこにいるのか…いくつもの疑問に思考を奪われながら足を動かせば、あっという間に扉の前まで辿り着いた。

(…もし、知らない人がいたら……すぐに部屋に帰ろう)

この扉の向こう側に、イヴァニエがいるかどうかすら分からないのだ。万が一、イヴァニエ以外の誰かがいたらと思うと恐ろしいが、今はこの先に進んでみる他ない。
ドアノブに手を伸ばし、そこで一度躊躇うも、意を決して取手の金具に触れた。


「アニー」
「ひゃっ!?」


───瞬間、突然、背後から抱き締められ、それと同時に耳元で名を呼ばれ、心臓と体がビクンッと跳ね上がった。

「ひぇっ…え……、イ、イヴ…?」
「はい、私ですよ」

ドッドッドッと早鐘のように鼓動する心臓を押さえ、そろりと背後を振り返れば、にこやかに笑うイヴァニエがそこにいた。

「な、なんで……ど、どこに…?」

先ほどまで姿はおろか、気配すらしなかったはずだ。突然現れた彼に驚きと困惑が混じった声が出るも、対するイヴァニエは微笑みを崩さず、腰に回された両腕に力が籠るだけだった。

「ふふ、驚かせてごめんなさい。アニーが自分の意思で私の部屋に入って来れるか確認したくて、隠れていました」
「……入って、これたよ」
「ええ、ちゃんと出来ましたね。偉いですよ、アニー」

正直に言えば、ちょっとだけ怖気付いていたが、それを隠すように答えれば、ニコニコとした笑顔が返ってきた。
いつもより機嫌の良いイヴァニエに首を捻るも、どうしたのかと問うより先に、視界と体がグラリと揺れ、ささやかな疑問は吹き飛んだ。

「ぁわっ!?」

何事かと体が強張るも、床から離れた両足と宙に浮いた肉体、膝裏と背中に触れた温もりに、イヴァニエに抱き上げられたのだと遅れて理解する。
思わず彼の肩にしがみついたことでぴたりと密着した体と、至近距離で見つめる形になってしまったことに、体温が一気に上昇した。

「イ、イヴ…?」
「なんですか、アニー」
「ど、うしたの…?」
「まずは部屋の中を案内しようかと思いまして」
「…自分で、歩けるよ?」
「ええ、そうですね」

その返答に「あ、これは言っても聞いてもらえないやつだ」と瞬時に悟る。
この一週間で、「できるよ」という言葉に対して肯定する返事は『出来る出来ないは関係ない』という彼らの法則があることを学んだのだ。
つまり今は、イヴァニエに抱き上げられたまま移動するのが正解で、何を言っても降ろしてもらえないのだろう。

「…なんで、抱っこするの?」
「アニーを抱っこしたいからですね」
「……んむ」

恥ずかしさを隠すように尋ねるも、余計に恥ずかしくなるだけだった。観念して口を噤めば、満足したようにイヴァニエが微笑んだ。

「では先に、少しだけ寝室の中を見て回りましょうか」

そう言って歩き出した足取りは軽く、僅かに伝わる振動すら楽し気な様子に、次第に抱き上げられている羞恥心は薄れていった。
広い室内を端から隈なく周るイヴァニエのペースはのんびりとしたもので、装飾品等も一つ一つじっくり眺めることができた。
美術品のような華やかな照明や、美しい刺繍の施された敷物、見事な天蓋付きのベッドは、そこだけで小さな部屋のように広く、ついまじまじと見つめてしまった。

「…ベッド、大っきいね」
「ふ…、その内、一緒に寝ましょうね」
「あぇ!? ……ぅ、うん…」

大きいベッドだなと思う以上の他意など無かったのだが、まさかの返事に変な声が出てしまった。
もしや「寝てみたい」と強請ったように聞こえてしまったのだろうか…と顔に熱が集まるのを感じながら、はたと昨夜の出来事を思い出す。

(…エルダと一緒に寝たのって…言わなきゃいけないのかな?)

昨日は感情の赴くまま、エルダと同じベッドで眠ってしまったが、もしかしたらこれは『平等』でなければいけない事柄だっただろうか?
なんとなく言い出しにくい雰囲気に躊躇いつつ、黙っているのも隠し事をしているようで、おずおずと口を開いた。

「……イヴ…あの…」
「どうしました?」
「あの…ね、あの……昨日、エルダと一緒に…寝たの」
「………そうですか」

(あ、やっぱりいけなかったかもしれない…!)

スッと瞳を細くしたイヴァニエに、ひくりと喉の奥が鳴る。慌てて言葉を継ぎ足そうとするも、真実それ以上でもそれ以下でもなく、まともな言葉が出てこなかった。

「あ、あの…! 一緒にって…本当に、一緒に、寝ただけで…!」
「アニー、落ち着いて。…大丈夫。分かってますよ」

柔らかな表情に戻ったイヴァニエに、ホッと息を吐き出すも、先ほどよりも強く抱き寄せられた肩に、僅かな不安が残った。

「イヴ…?」
「教えてくれて、ありがとうございます。アニーがエルダとのことを教えてくれた理由は、なんとなく分かりますが、例の平等性については、アニーは気にしなくて大丈夫ですからね?」
「う…でも…」
「ルカーシュカが言っていたでしょう? アニーはアニーのまま、あなたが望むままに、私達を愛してくれるならそれでいいんです。色々考え過ぎて、アニーの純粋な気持ちが歪んでしまう方が、私にはよっぽど恐ろしい」
「……うん」

気にするな、と言われても気になるのだ。
ただ平等性ばかりを気にして考えているのも良くないのだということは、イヴァニエの言葉や態度から察することができた。

(難しいなぁ…)

あえて言葉にしなくとも、きっと出来ることがあるのだろうが、自分にはまだ少しばかり難しい様だ。

「難しく考えなくていいんですよ?」
「…! う、うん」

頭の中を見透かしたかのような言葉に、柔く喰んでいた唇を解けば、イヴァニエがふっと笑ってくれた。

「まぁ、少しばかりしたいことはありますが…それは後でいいでしょう」
「…?」
「また後でね。さぁ、それじゃあそろそろ隣の部屋に行きましょうか」

くるりと踵を返し、先ほど自分も向かおうとしていた扉へ向かってイヴァニエが歩き出す。

「…あっちは、どこに繋がってるの?」
「アニーの部屋と一緒ですよ。寝室の隣は、私的な部屋に続いてます」
「…それ以外のお部屋があるの?」
「誰かが訪ねて来た時に通す部屋ですとか、皆で寛ぐ為の部屋がありますね」
「…? 私の部屋は、全部一緒だよ?」
「ふふ、そうですね。アニーのお部屋はなんでもできるお部屋ですね」

クスクスと楽しそうに笑うイヴァニエに抱きかかえられたまま、部屋の中を突っ切り、隣室へと続く扉の前に辿り着く。
両手が塞がった状態では扉を開けられないだろうと、イヴァニエの腕の中から降りようとするも、身じろぎをする前にカチャリと静かにドアノブが動いた。

「…!」

そのままゆっくりと開いた扉の向こう側、目の前に広がった室内の光景に目は釘付けになり、ただただ圧倒された。

(……なに、ここ…)

自室も広いと思っていたが、そこに広がっていた空間はその比ではなかった。
自分の部屋が丸々三部屋は入ってしまうであろう面積と、見上げるほど高い天井に、ポカンと口を開いたまま固まった。
相変わらず室内は照明が絞られ、ほんのりと薄暗かったが、部屋の広さ故か圧迫感はない。それよりも、広過ぎて落ち着かないような心細さに、無意識の内にイヴァニエの肩に置いた手に力が籠った。

「…すごい」

物珍しさと圧倒されるような迫力に、キョロキョロと周囲を見回す。と、室内の壁の一面が、カーテンのような垂れ幕で覆われていることに気づき、はて? と首を傾げた。

(窓…かな?)

それにしてはあまりにも光を通していないような…と考えている内に、イヴァニエがまた歩き出した。
イヴァニエと自分以外、誰もいない室内は周囲を観察するのには最適で、高い天井や何人掛けになるのかも分からない大きなソファー等、好奇心の赴くままに視線を遊ばせた。

(お部屋の中に階段がある…)

同じ室内には段差があり、寝室へと続く扉は少し高い場所に位置している様だった。部屋の片隅には細い手摺りの細工が美しい螺旋状の階段があり、天井を突き抜けてどこかへと繋がっている様子は妙に胸が躍った。

「すごい……素敵なお部屋だね」
「ありがとうございます。アニーに気に入ってもらえたのは嬉しいですね。これからも、いつでも遊びに来て下さいね」
「…うん」

そう言って嬉しそうに笑うイヴァニエは本当に嬉しそうで、よほど自室への愛着があるのだろうと、こちらまで嬉しくなりながらコクリと頷いた。
そうこうしている内に部屋の中央まで辿り着き、ふかふかとした大きなソファーが並ぶ空間でイヴァニエが足を止めた。
四方を満遍なく見渡せることにワクワクとした気持ちは止まらず、ぐるりと周囲を見回す。
そこで気になったのは、やはり壁の一面に掛けられた大きな垂れ幕の存在だった。

「…あそこは…窓があるの?」

思ったまま口にすれば、イヴァニエの笑みが深くなった。

「いいえ、窓ではありませんよ。ただ、という意味では、窓のような物かもしれませんね」
「…?」

どういう意味だろう? と頭を傾げると、不意に垂れ幕がスルスルと両側に向けて動き出した。
カーテンのように開けたその向こう側は、予想に反して真っ暗で、大きな闇が広がっているような空間に、思わず怯んでしまった。

「イヴ…? 真っ暗だよ…?」
「今はね」

ふっと笑うように発した声と共に、自身の体を支えているイヴァニエの指先が、僅かに動いた気がした。
 

「ひっ!?」


───瞬間、暗闇のような一面に映し出された光景に、引き攣った悲鳴が漏れた。

ゴボボ…と室内に響いた水の中で気泡が揺れる音を耳が拾ったのと同時に視界に飛び込んできたのは、信じられないほど巨大な魚の姿だった。

「…っ、嫌っ!! やっ、やだ! 怖い! やだ…っ!」

生まれて初めて見る巨大な生物。
それがすぐ間近で、薄暗い水の中を泳いでいる姿は恐怖でしかなく、泣き声混じりで叫ぶとイヴァニエの体にしがみついた。

「やだっ! やだぁ! なに…っ、こわい…!」
「…アニー、落ち着いて? 大丈夫、あそこにはいませんから」
「やだ! やだ…っ、うぅ…っ」

穏やかなイヴァニエの声を聞いても、恐怖は晴れなかった。彼の肩口に顔を埋め、巨大な生き物に背を向けたままその体を抱き締めると、ブンブンと首を横に振った。

「怖いからやだ…!」
「…アニーに怖いことをしたりしませんよ。大丈夫ですから…ね?」
「んん…!」

そちらを見ないように必死になっていると、ゆっくりとイヴァニエの体が動き、傍らのソファーに腰掛けたのが分かった。
緩く寝そべった彼の上にのし掛かっている現状を頭の片隅で理解するも、そこから動く勇気もなく、体勢が変わったのを良いことに、両腕をイヴァニエの背に回すと、一層強くしがみついた。

「…ごめんね。急なことで、驚かせてしまいましたね。怖かったですね」

言葉と共に、ふわりと何かに包まれたような感覚がして、僅かに視線をズラせば、視界の端に見覚えのある物が映った。
大きな花が描かれた薄絹は、普段イヴァニエが身につけている羽織りだ。それを頭の上からすっぽりと被っているのだと気づく。
羽織りごと抱き締めるように背中に回された力強い腕と、全身を包むような薄絹の柔らかさに、ホッと安堵の息が漏れ、安心感から涙腺がじわりと緩んだ。

「アニーが怖くなくなるまで、こうしていましょうね」
「……ぅん」

甘やかな微笑みに、恐怖とは異なる動悸が胸を打つも、今はそれに恥じらっている余裕もなく、再び彼の胸元に顔を埋めると、しがみついた指先に力を込めた。



「アニー……アニー? 大丈夫ですか?」
「……ん…」

どれほど時間が経った頃だろう。トクリ、トクリと脈打つイヴァニエの心音に集中している間に恐怖は薄れ、強張っていた体からは力が抜けていた。
みっともないほど取り乱してしまったことに対する気まずさと気恥ずかしさを残しながら、もぞもぞと顔を上げれば、瞳を細めて笑うイヴァニエと目が合った。

「ふふ、やっとアニーの可愛らしいお顔が見れましたね」
「う…」
「ああ、ごめんなさい。揶揄からかってる訳ではないんですよ? 本心です」

楽しそうな表情に眉根を寄せれば、やわやわと頬を撫でられ、その優しい手つきにキュッと唇を喰んだ。

「……怖いって言って、ごめんね」
「? どうしてアニーが謝るんです?」
「…だって…イヴのお部屋…なのに…」

未知との遭遇に混乱し、衝撃とも言える光景に恐怖に飲まれてしまったが、彼の領域を否定するような物言いをしてしまった。
冷静になって初めて失礼なことを言ってしまったことに気づき、縮こまっていると、イヴァニエの手が頭部を優しく撫でた。

「謝ることじゃありません。きっと驚くだろうなと分かっていて、いきなり見せてしまった私が悪かったんです。…怖い思いをさせて、ごめんね」
「…ん」
「もう怖くないですか?」
「……分かんない…」
「じゃあ少しだけ、見てみましょう? 大丈夫、あの先に、本当に居る訳ではありません。ただそこに映っているだけですから」

そう言われ、イヴァニエの体にしがみついたまま、ソロソロと顔を動かした。羽織りの陰から覗くように恐る恐る視線を上げれば、そこには未だに巨大な魚の姿があり、ビクリと肩が跳ねた。

「ッ…」
「大丈夫。アニー、大丈夫ですよ。怖いものではないですからね」

背後に回された腕に抱き締められ、額やこめかみに啄むような口づけが落ちる。あやすように背を撫でる手に勇気をもらうと、もう一度水中と思しき向こう側へと視線を向けた。

巨大な白い魚は、その巨体をキラキラと淡く光らせながら、まるで宙を泳ぐように、水の中をゆらりゆらりと動いていた。
その動きは、間違いなく前に進んでいるはずなのに、不思議とその体は壁の枠の中から消えず、ずっとその姿を追い続けた。
あまりにも大き過ぎる巨体に、先ほどまでは恐怖が先立ってしまったが、その形や泳ぐ姿はとても穏やかで、少しずつだが恐怖心が解けていく。

───と、ふと、その姿に見覚えがあるような気がして、記憶を手繰り寄せるように、真白い巨体をジッと見つめた。
見つめること数秒、はたとあることに気づき、ある名が口から零れた。

「……くじら?」

転移扉に優美な曲線で描かれた魚───目の前で泳ぐ巨大な魚は、イヴァニエの部屋へと繋がるレリーフと同じ姿をしていた。

「イヴ…あれは、鯨…?」
「そうですよ。よく分かりましたね」
「…扉の所に、いるでしょう?」
「ええ、あのレリーフは、あの白い鯨を参考に作った物ですよ」
「はぇ…」

そう言われただけで、途端にもっとよく見てみたいという気持ちになるのだから不思議だ。
とはいえ、イヴァニエの体から離れることも、頭から被った羽織の中から顔を出すこともできないが、安全だと分かっている場所からなら、怖がらずに見れる気がした。

(……あ、本当だ。頭に輪っかが付いてる…)

転移扉に掘られたレリーフにも、輝く輪のような物が頭部に描かれていたが、それと同じ物が鯨の頭上でキラキラと輝いていた。

「……イヴ、あそこにはいないって、どういうこと?」

眺めている限り、硝子の向こう側に広い世界が広がっているようにしか見えない。泳ぐ鯨をジッと見つめながら、イヴァニエに尋ねた。

「アレは人間界の海の中を映しているだけで、水槽になっている訳ではないんですよ」
「…人間界の、海?」

聞けば、白い鯨は天使とは異なる神の御使いとして、人間界の海に存在しているらしい。
普段は深い海の底を自由に泳いでいるだけで、人間界に対し、特別恩恵を与えることもないのだそうだが、地動の変化や災厄が起こる時、鳴き声を上げて父なる神に報せを送るのだという。

「彼の泳いでいる姿が好きなんです。だからこうして、いつでも眺められるように、彼を映す為の装置を作ったんですよ」
「…作ったの?」
「作りました」

サラリと言っているが、すごいことなのではないだろうか?
自分には想像すらできない域の話に、目を丸くするも、イヴァニエの話が一区切りしたところで、再び泳ぐ鯨に目を向けた。
ずっと見ていると、だんだんと鯨の美しさが分かり始め、食い入るようにその巨体を見つめた。
真白い体は薄暗い水の中でも淡く輝き、ゆらゆらと揺蕩うように泳ぐその姿は雄大で、ときの流れも忘れてしまいそうなほど穏やかだった。

(……イヴが好きって言う気持ちが…ちょっとだけ分かるかも…)

水の中で気泡が踊る音も、安全な場所で聞くとまた違った印象だ。静かな部屋の中にコポコポと響く水音は、優しく鼓膜を揺らし、まるで海の中を一緒に泳いでいるような気持ちになれた。

ふと気づけば、泳ぐ白い鯨をぼぅっと眺めたまま、ぴたりとイヴァニエの体に寄り添うだけの時間が過ぎていた。互いに言葉を発することもなく、コポコポと響く水音だけが部屋の中に流れていた。

「アニー、楽しいですか?」
「うん…」
「…もう少し、こうしてますか?」
「うん…」
「……じゃあ、もう少しだけね」

途中、イヴァニエに話しかけられるも、ぼんやりとした頭はただ返事をするだけで、目は泳ぐ鯨をずっと追いかけていた。
ゆらゆら、キラキラ、コポコポ…と、目と耳から得る美しい情景と、触れ合った肌から伝わる温かな体温。そこにイヴァニエの香りが混ざり合い、蕩けてしまいそうなほどの安心感に、思考は徐々に徐々に溶けていった。



「…───ニー……アニー」
「……ん…?」

鯨を眺めていくらか時間が過ぎた頃、呼び掛ける声に返事をするも、この時にはもう、気持ちよさから頭は半分眠っていた。
イヴァニエの声に、無意識の内に応えていたのだが───それがいけなかった。

「アニー…そろそろ私のことも構ってくれませんか?」
「うん…」
「…アニー、ちゃんとこっちを見てお話ししましょう?」
「…うん」
「ああ…これは困りましたね」

静かで穏やかな声音は一層意識を混濁させ、なかなか空返事をしていることに気づけなかった。
片耳からはイヴァニエの心音が、反対側の耳からは水音とイヴァニエの声が同時に聞こえ、夢見心地のようなふわふわとした感覚から抜け出せないでいた。

「……アニー、あんまりつれないままでいると、酷いことをしてしまいますよ?」
「うん…」
「……していいの?」
「うん………ん?」

最後の一言で、声色が変わった───その音の変化に意識が揺れ、ようやく視線をイヴァニエへと戻す。
それまで何を言われ、なんと答えていたか、覚えがないことにパチパチと瞬きを繰り返すも、イヴァニエの薄く微笑んだ表情は変わらなかった。

「…? …イヴ?」
「…可愛い顔をしても、もう遅いですよ」
「? なにが…っ、わっ!?」

気を緩めた一瞬、強い力で肩を掴まれ、視界が反転した。ぐわんと脳が揺れるほどの強さで押され、体の向きを強制的に変えられる。
咄嗟にソファーから落ちてしまうことを想像し、心臓がヒュッと竦み上がったが、予想に反して背はソファーの上でボフリと弾み、体は寝転がった。

(び、びっくりした…)

突然のことに体が反応できなかったせいか、視界はグラグラと揺れていた。ドクドクと心臓が脈打ち、頭が混乱する中、イヴァニエが上からのし掛かってきたことで、ピキリと四肢が固まった。

「イ、イヴ…?」

先ほどまでとは逆転した体勢。
位置を変えただけなのに、一気に押し寄せた不安に、名を呼ぶ声が少しだけ震えた。

「いけない子ですね、アニー」
「え…?」

たった一言で、何かいけないことをしてしまったのだと理解するには充分だった。
のし掛かる体は、決して体重が掛かっている訳ではないのに妙に重く、起き上がれそうになかった。

「あの…、イヴ…」
「アニー、私はね、とっても嫉妬深いんです」

イヴァニエの両腕で閉じ込められた体は、身動き一つ取れず、絡んだ視線は逸らすこともできない。

したかったことを教えてあげましょうか?」
「え?」

このタイミングで言われるということは、間違いなく自分はイヴァニエの『お願い』に反するようなことをしてしまったということだ。
途端にヒヤリとしたものが背中を伝い、心臓がドキリと跳ねたが、もう遅かった。

「平等性も大事ですが、なにより私はあなたを独り占めしたくて堪らないんです」

イヴァニエの長い髪が肩から流れ落ち、サラリと首元を撫でた。


「愛しいアニー。どうか、二人きりでいる時は、私だけのアニーでいて下さい。私のことだけ見て、他の誰かのことを思い出したり、考えたりしないで……私だけの、あなたになって下さい」


涼やかなブルージルコンの瞳───そこに籠った激情に、ゾクリと全身が粟立った。
熱烈とも言える告白は、嬉しいと手放しで喜ぶには鮮烈過ぎて、返す言葉が見つからない。

「ぁ……ぅ…」
「…困ってる顔も愛らしいですが、お返事が無いのは寂しいですね」
「っ…!」

イヴァニエの整った顔がすぐ目の前まで迫り、堪らずギュッと目を瞑るも、それも許してもらえなかった。

「アニー、目を瞑ってはダメでしょう?」
「う…」
「ほら、目を開けて? ちゃんと私を見て下さい」
「うぅ…っ」

目を開けたら、鼻先が触れそうなほど間近にイヴァニエの顔がある───それが分かっていて瞼を開けなければいけないことに弱音を吐きそうになるも、今ここでそれをするのはいけないと本能的に悟った脳が、恐る恐る瞼を持ち上げた。

「ふふ、お顔が真っ赤ですね」
「ごめ…ごめんなさぃ…」

反射的に目を瞑ってしまいそうになるのをなんとか堪えるも、それも精神的にはギリギリで、いよいよ口からは謝罪の言葉が溢れ出た。

「どうして謝るの?」
「さ、さっき…、ちゃんと…お話し聞いてなくて…っ、ごめんなさい…!」
「お話しを聞いてなかっただけですか?」
「…っ、イ、イヴのこと…、見て、なかった…っ」
「そうですね。鯨ばっかり見てましたね」
「えぅ……ごめ、ごめんなさい…」
「いいえ、許しません」
「へ…?」

思ってもいなかった返答に目を見開けば、恐ろしいほど美しい微笑みを間近で直視してしまい、息が止まった。

「酷いことしていいって、アニーが頷いてくれたんですよ?」
「…、……ッ!」

一瞬、言葉の意味を理解できなかったが、それの意味するところを理解した瞬間、息を呑んだ。

(まって…! き、聞いてなかった…!)

きちんと話を聞いていなかった自分の自業自得だ。
言葉にならない衝撃に、訳もなくフルフルと首を横に振るも、それで許してもらえるはずもない。


「可愛い私のアニー。いけない子には、お仕置きをしましょうね」


───うっとりするほどの微笑みと、嬉々として弾んだ声に、か細い悲鳴が漏れた。
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