女男の世界

第６章 姉妹喧嘩編

第40話 思わぬ事故

「優っ！」
「うあっ！」
「えっ？」

　紗綾姉さんの悲痛な叫び声、僕の痛みによる呻き声、そして沙希姉さんの呆然とした声が、キッチンに響いた。

　飛び出すタイミングが悪かった。沙希姉さんの振り下ろされた手は止まることなく、僕の頭を直撃した。格好悪いことに、僕と姉さんたちとの身長差は頭一個分ほどあり、ちょうど沙希姉さんの拳が僕の頭頂部に命中してしまったのだった。

　ゴンッという鈍い音が響く。思わず頭を抱えて、その場にうずくまってしまう。さすが運動部だけあって、沙希姉さんの力はかなり強かった。頭がクラクラして、一瞬視界が白くなる。

「いってぇっ！」

　ズキズキと痛む頭を押さえながら、僕は内心で後悔していた。もっと早く動けていれば、こんなことにはならなかったのに。でも、２人の喧嘩を止めたかったんだ。

「嘘だろ……俺、なんてことを……」

　沙希姉さんの声が震えている。振り返ると、彼女は自分の手を見つめながら顔を真っ青にしていた。いつもの明るい表情は消え失せ、まるで悪夢を見ているような顔をしている。

「優っ、大丈夫？　立てる？」

　紗綾姉さんが心配そうな声をかけながら、すぐに僕の側に駆け寄ってくる。そっと僕の肩を支えながら、殴られた部分に優しく手を添えてくれた。彼女の温かい手のひらが触れると、不思議と痛みが少し和らいだ気がした。

「う、うん……なんとか」

　僕がなんとか立ち上がると、紗綾姉さんは一瞬安堵の表情を浮かべた。でも、その直後に彼女の顔は怒りに染まり、沙希姉さんを鋭く睨みつけた。

「貴女、信じられない。男の人に、それも自分の弟に暴力を振るうなんて。最低な人間ね」

　紗綾姉さんの声は、いつもの上品で冷静な口調からは想像できないほど厳しく、怒りに震えていた。普段めったに感情を露わにしない彼女が、ここまで激昂するのを見るのは初めてだった。

「ち、違う……俺は、優を殴るつもりなんて……」

　沙希姉さんの声は震えていた。彼女の顔は蒼白で、自分の手を見つめながら何かを言いかけたが、言葉にならない。まるで自分が何をしてしまったのか理解できずにいるようだった。

「言い訳なんて聞きたくない。今すぐ、この部屋から出て行きなさい！」

　紗綾姉さんは再び、より強い調子で叫んだ。その声には、姉として弟を守ろうとする必死さが込められていた。普段は沙希姉さんと対等に言い合いをする彼女だったが、今は完全に怒りに支配されている。

「待って、紗綾姉さん。僕は大丈夫だから。平気だから」

　僕は慌てて二人の間に入ろうとした。頭はまだズキズキと痛むけれど、これ以上二人の関係が悪化するのを見ていられなかった。このままだと、致命的なことになるかもしれない。

「沙希姉さん、僕の方から飛び出したのが悪いんだ。沙希姉さんは悪くない」

　僕は沙希姉さんに向かって必死に声をかけた。自分から飛び出したのが悪いのだと、彼女に伝えたかった。でも、僕の言葉は沙希姉さんには届いていないようだった。

「優……俺、なんてことを……」

　沙希姉さんは焦点の合わない目線のまま、自分の手をじっと見つめている。まるで夢遊病者のようにふらふらとキッチンから立ち去っていく。その後ろ姿は、いつもの元気で明るい沙希姉さんとは別人のように見えた。

「沙希姉さん！」

　重い足音が階段を上がっていく。そして、二階で扉が勢いよく閉まる音が響いた。

「本当に大丈夫？　優、頭を殴られたのよ。こんなことされて平気なわけないじゃない」

　紗綾姉さんは依然として僕を支えながら、殴られた部分を優しくさすってくれる。でも、その言葉からは沙希姉さんへの強い非難が感じられた。

「僕は大丈夫だから。それよりも、沙希姉さんが……」

　僕の心配は沙希姉さんに向いていた。彼女があんなに落ち込んでいるのを見たのは初めてだった。確かにタイミングが悪くて当たってしまったけれど、沙希姉さんが僕を殴るつもりだったわけじゃない。それなのに、あんなに深刻そうな顔で部屋を出て行ってしまった。

「あんな女なんて放っておいて大丈夫よ。自業自得だわ」

　紗綾姉さんの言葉は冷たかった。いつもなら姉妹喧嘩をしても、ここまで厳しく言うことはなかったのに。彼女の中で、何かが決定的に変わってしまったような気がした。

「でも……」

　僕は沙希姉さんの後を追いかけたかった。でも、紗綾姉さんが今それを許してくれそうにないことは明らかだった。彼女は僕の腕をしっかりと掴んで、離そうとしない。

「気にしなくてもいいのよ。あの人は自分のしたことの重大さを理解すべきだわ。それよりも、料理の下ごしらえが必要なんじゃない？　頭が痛むのなら無理しないで休みなさい」

　紗綾姉さんは僕を椅子に座らせながら、話題を変えようとした。彼女なりに僕の気を紛らわせようとしているのだろう。

「大丈夫。料理は用意するよ」
「本当に大丈夫なの？　ちょっとでも気分が悪くなったりしたら、すぐに言うのよ。無理は禁物だから」
「うん。心配してくれてありがとう、紗綾姉さん」

　まだ頭は痛むけれど、それ以外は大丈夫そう。僕は料理の準備を始めることにした。だけど、手を動かしながらも頭の中は沙希姉さんのことばかり考えていた。

　野菜を切りながら、僕は二階の方を何度も見上げた。沙希姉さんの部屋からは物音一つ聞こえてこない。きっと一人で落ち込んでいるに違いない。

　後で必ず話をしに行こう。そして、紗綾姉さんにも、沙希姉さんを責めすぎないよう話をしなければならない。あれは、タイミングの悪い事故だった。

　そのまま放置したら、二人の関係はますます悪化していく。どうにかしないといけない。この家族の平和を守るのは、僕の役目なんだと強く感じた。家族が仲良くいられるよう、僕がなんとかしなければならない。