シャボン玉の君に触れる日まで

氷高 ノア

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『ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……』
 テンポよく刻まれた機械音が耳に入る。空気が無理やり入り込んできて苦しい。頭がぼんやりとして、何が起こったのかわからなかった。
 窓の外は真っ暗なのに、妙に明るい気がする。
 ああ、もうすぐ死ぬのかな。
 そう思った瞬間、さっきの情景が脳裏に浮かんだ。泣き叫ぶ母、倒れ込むエリ。暗闇に残された自分。
 夢だったのか?
 鉛のように重い体を、少しだけ起こして触れてみた。胸に手を当て、息を吸い込む。
 横にある心電図の通り、俺の心臓はしかと血液を送り出していた。
 生きていた。何も言えずに死ぬところだった。その事にたまらなく恐怖を感じて、身を震わせる。
 でも、妙に明るい空が何を示しているか、俺は何となくわかっていたんだ。
 ──時間がない。
 夜空の星々に、本当に吸い込まれてしまう前に。
 俺はしなければならないことがある。
「聖夜……?」
 部屋の入口から、光が射し込んでいた。逆光だったが、声から母親だとわかった。手元にあった缶コーヒーが、音を立てて落ちる。
「聖夜……聖夜ぁ! 目が覚めたのね、本当に……本当によかった。先生、先生を呼ばないと」
 目が腫れ上がり、化粧も取れた母がナースコールを押す。その手は震えていた。
 看護師さんが一番にやってきて、ひとまず酸素マスクを外す。
 俺は掠れた声で必死に話した。
「母さん……。もう、時間がないかもしれない」
  母はまだ高揚しているのか、先程同様、眉が垂れ、安堵した表情のまま「えぇ?」と聞いた。
「ずっと……面と向かって言えなかったけど。俺を産んで、育てて、生活や治療費のために毎日必死に働いて、こんな状態になっても治ると信じてくれて……本当にありがとう。俺は……母さんの子供に生まれてこれて、幸せだった」
 母の顔色が変わっていくのが、簡単にわかった。両目から涙が溢れ出して、止まらない。
 両肩をしっかりと掴まれ、ボロボロの顔が俺の目を見つめた。
「駄目……駄目よ聖夜。あなたはまだ生きるんだから。母さんの命にかえても!」
「母さん……!」
 大きな声ではなかったと思う。でも、自分の出せる精一杯の声量で叫んだ。
「お願いだから、そんなこと言わないでくれよ。母さんが俺を想うように、俺だって母さんに生きていてほしい。それに……まだ、伝えきれてない人がいるんだ。その人のところに行きたい……お願い」
 母は、涙を流して固まっていた。止まらない手の震えが、俺の体に伝わる。
 タタタと、廊下を走る音がした。近づいてきているのもわかった。「先生、先生」と話し声も聞こえる。
 俺は、肩から母の手を剥がし、布団から這い出た。
「すぐ、戻ってくるから」
 母は、放心状態でベッドを見つめていた。
 プールからあがった時のように、重力が全身を押さえつけてくる。驚くほど弱々しい足取りで、病室から走り出た。
「え、片倉くん!?」
 近付いてきたのは、やはり藤咲先生だった。
 俺は正面玄関から出ることを諦め、奥へと駆ける。
 端から二番目の部屋でよかった。一番端には、非常階段があることを知っていたため、俺は無我夢中で極寒の世界に飛び出した。
 何と言ってるかわからない先生たちの声と、足音が聞こえてくる。
 そんなもの、お構い無しに俺は湖へと向かっていた。
 湖に、エリがいる気がした。もとより、他にエリの居場所なんて思いつかない。
 月が、星が、タイムリミットを示すように、どんどん明るくなる。
 ──もし、俺が病室に戻らなかったら。その時は、俺のいない世界で、ぽつりと何かを呟いてくれればいい。俺は決して、離れないから。そばにいるから。
 風をきって小道を抜けた。体が限界と嘆こうが、走り続けた。
 まだ死ねない。もうあと少しだけ。エリに伝えるまで。それまでどうか生かしてください。
 流れた涙は、氷になりそうだった。
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